とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

霊鷲山

シルクロードさんがインドに行かれたと言われましたので、私もインドに行った時のことを少し書きます。

 

王舎城と言われるお城がお釈迦様の時代にありました。

現在もその遺跡がインドの東北部、ビハール州の真ん中あたりにあります。

残念ながら発掘など考古学の調査は進んでいないため、城壁などが崩れたまま残っています。

観無量寿経に説かれている七重の牢の跡や、耆婆(ジーヴァカ又はギバ)大臣の住居跡など無造作に看板があるだけです。

経典に書かれているとおり七重の牢跡の場所からは霊鷲山が見えます。

そこからしばらく行くと霊鷲山に行く参道があり、石畳になっています。

頻婆娑羅(ビンビサーラ)王も通られたと言われています。

頻婆娑羅王は麓まで車(象に乗っていたかもしれません)で行き、そこから車を降りて歩かれたと言われています。

石畳をしばらく歩いて行くと西の端の方に霊鷲山無量寿経などには祇闍崛山と書かれています)があります。

途中に阿難尊者が修行された祠もあります。

そこを超えて少し登って行くと鷲の形の岩が今もそのまま残っています。

霊鷲山と言われる所以です。

その頂上は、10畳程度の広さで、真ん中西側には二帖ほどの広さで四角く周りを数段の煉瓦で囲まれた場所があります。

その真ん中でお釈迦様がご説法をされたのだなと思うと感慨無量でした。

ここで無量寿経観無量寿経阿弥陀経法華経などを説かれたと言われています。

 

私が行ったとき、ひとつ残念だったことはミャンマーの方々が長々とその場でお説教を始められたことです。

それもマイクとスピーカーを使っているので残念ながら騒音としか聞こえませんでした。

他にもミャンマー以外の巡礼者も次から次へと来られて我先にと渋滞しているのです。

なんだか仏法者どうしでもうまくいかないものなんだなと思いました。

 

彼らが去った後は本当に静寂がありました。

西に沈む太陽は何処までも美しく周りはジャングルの緑が夕日に次々に彩られて、観無量寿経に説かれている日想観の景色とはこういうものかと思いました。

日想観は出来ませんが、日想観と言われる景色は美しいものだと本当に思いました。

 

他にも仏教遺跡はブッダガヤやサールナートルンビニー園、祇園精舎、竹林精舎など沢山あります。

当たり前のことですが、ほんの2千5,6百年前の事なのです。

何億年も前のことなら本当にあったのかどうなのか分かりませんが、あらゆる資料がそこに実在したことを示しているのに、あったのか無かったのか信じられないこと、お伽噺のように脳内変換をしてしまいます。

これから考えても私という人間は本当にあったことでもすぐに忘却の彼方におしやってしまう怖ろしく劣った能力なのだと思います。

しかも、目の前に遺跡があって史実は、ほぼ事実として当然あったことなのに私の中でははるか昔のように考えてしまうのはなぜでしょうか。

想像力の欠如と言われても仕方ないですね。

 

個人的には、サールナート鹿野苑)にあるダーメーク・ストゥーパを見たときは本当に感動しました。

ここでお釈迦様や多くのお弟子達が修行されていた場所なのかと思っただけで身体の力が抜けて頭が下がっていく思いでした。

三蔵玄奘様が命がけで目指した場所に今いると思うと時空を超えてそのあたりに玄奘様がいるような感じでした。

私は飛行機とバスで気楽に連れてきて頂きましたが、それでも何か本当に大事なところにいると思わずにおれませんでした。

残念ながらこの場所にお釈迦様の教えはありませんが、それでもとても大事な場所と思うのです。

なぜなら、この場所から真実が広まっているからです。

また、近くに五比丘に最初に法を説かれた初転法輪の場所もあります。

(余談ですがこの場所は愛知県にある五色園のようでイマイチです)

そのお陰で今、私が南無阿弥陀仏に遇わせていただいています。

未来永劫残って欲しい所です。

 

その他、インドにはヒンズー教の寺院始め、ガンジス川の川岸の町・ベナレスなど本当に面白い所が沢山有ります。

カレーもナンもチャイもとても美味しいです。

物乞いの人も本当に多いのですが、何か人々が自由気ままに生きています。

活力があります。

そして仕事もせずよく遊んでいます。

最後にあまり衛生的ではありません。ゴミも多いですし、交通ルールはあって無きがごとしです。

それでもインドは良い国のような気がします。

これから中国よりも印度の方が発展するのではないかと個人的には思います。

 

そんなインドでは新仏教と言われる団体があります。

ちょっと社会活動的な団体のようで、本来の仏陀に帰れみたいな思想を取り入れた団体ですが、かなりの人数がいるので社会的には大きな勢力となりつつあるそうです。

社会は常に動いています。

どうなっていくか分かりませんが、インドの人々のおおらかさと自由主義的な社会は開かれた社会でもあり、今後の発展を期待したいと思っています。

 

そして、もっとインドで仏教遺跡の発掘保存を進めて欲しいなと思っています。

そこに行けばお釈迦様はじめ多くのお弟子方の息吹が感じられます。

また、皆さんがどんどん訪れることによって遺跡の保存が進むと思います。

ぜひ、一度訪れていただきたいと思います。

 

もう一度行ける時が来るのかどうか分かりませんが、今度行くときは南部の方も行ってみたいですね。

また、ネパールに入ってエベレストも見てみたいと思います。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

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サールナート(ダーメーク・ストゥーパ

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霊鷲山

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霊鷲山から見たジャングル

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霊鷲山から見た夕日




 

勉強会の感想

無事、飛雲さんをお招きして勉強会を行うことができました。

飛雲さん以外に退会者が1名と不肖私が感話を行いました。

三人三様でそれぞれ個性があったと思います。

飛雲さんからは親鸞聖人のお言葉を根拠に何が正しくて親鸞会の何が間違いなのかしっかり教えて頂きました。

人数も飛雲さんのお知り合いが沢山参加され結構な賑わいでした。

17時までの予定をオーバーするくらいでした。

個人的には非常に良かったなと思っています。

実は skype での参加も試みてみました。

基本、音声だけなら負荷が少ないためにネットの接続が良くなるのかなとも思いました。

ただ、会場での質疑の声までは聞こえていたのかちょっと疑問に思います。

いずれにしてもこのコロナが蔓延している中で参加された方はすごいご縁のかただなと思わずにおれません。

一応、ソウシャルディスタンスと消毒および換気は徹底して行いました。

残念なのは、終わった後に皆さんと反省会が出来なかったことです。

早く反省会が出来るようになって欲しいなと思います。

明日をも知れぬ命ながら、今日を楽しく生きたいと思う とくよしみね でした。

煩悩具足とはこのことです。

 

参加された皆さん、お疲れ様でした。

そして、ありがとうございました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

参加された方で録音データを希望される方は私までメールしてください。

また、会計報告が必要な方もご連絡お願いします。

 

 

 

勉強会のお知らせ

とくよしみね からのお知らせです。

近年夏に勉強会を行っていましたが、今年も行うことといたしました。

今回はブログ「飛雲」の管理人さん、飛雲さんを呼んで行います。

それ以外に退会者1名と不肖私が感話を行います。

日程は以下の予定で行います。

10時から12時 感話および質疑等

13時から17時 感話および質疑等

お勤めを行います。
日時は8月29日の土曜日です。
場所は、刈谷市総合文化会館(アイリス中央生涯学習センター/502講座室)です。
刈谷駅東すぐです。
どなたでも参加可能ですが、人数制限がありますので事前に連絡をいただけると有り難いです。

新型コロナ対策として、消毒、会場の換気、フェイスマスク等により対応します。

よろしくお願いします。

とくよしみね

新型コロナウィルス

新型コロナウィルスが猛威をふるっています。

現在生きている私達にとって、新型コロナウィルスはこの世で初めて経験する大きな災難と言えるでしょう。

何故なら現代日本人の多くは戦争の経験も、疫病や飢饉の経験もほとんどありません。

だから、このウィルス感染はほとんどの人が初めて直面している大変な問題と言えましょう。

それも、高度に発達した文明のせいで、ウィルスが一気に世界に広まってしまいました。

中国発のとんでもない爆弾が世界中に落ちているのと同じと言ってもいいでしょう。

それくらい沢山の方が亡くなっています。

全人類が死の恐怖に直面しています。

そう言いながらも社会は意外に普通に回っているとも言えます。

なんとも致し方ないのでしょう。

だからじわりじわりと日本国内でも感染が広まっています。

まるで映画のようです。

バイオハザードという映画がありますが、ウィルスに感染するとゾンビになってしまいます。

それが世界に一気に広まり人類を滅亡の危機に陥れます。

そんな映画を彷彿とさせる出来事です。

 

以前も書きましたが人類の歴史上、疫病は幾度となく発生しています。

そのたび人類は免疫を獲得しながら生存し続けています。

親鸞聖人の時代にも同じ様に疫病が流行していました。

それでも生き残っているのだからなんとかなるのではと楽観視している人も多くいることでしょう。

ところが自分が感染し、死ぬかもしれないとなったら「しまった」しかありません。

 

親鸞聖人が門弟に宛てた最晩年八十八歳の時のお手紙が残っています。

 

「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。(略)」

文応元年十一月十三日

親鸞聖人御消息」

・・・去年も今年も多くの人が(疫病や飢饉で)亡くなっているが悲しいことです。しかし、お釈迦様のおっしゃるとおりで無常の世の中であります。驚くこともありません。親鸞は臨終の姿は問題にしません。信心決定の人は命つきなば極楽浄土の人であるから、凡夫でも死ぬのは素晴らしいことなのです。

(現代語訳は以下の例文がありますがちょっとどうかと個人的には思います。:愚かで智慧のないわたしたちであっても尊い臨終を迎えるのです。 )・・・

 

 平安時代の疫病は麻疹(ましん、赤疱瘡:あかもがさ=はしか)と言われています。

そのほかにもマラリア(瘧疾:ぎゃくしつ)などが流行したと言われています。

それ以外にも飢饉もあり京の都で数万人が亡くなったと言われています。

現代も同じです。

いつ死が訪れるのか分かりません。

 

今死んでも後悔ないのか、死んでいけるか。

 

死ぬのは嫌です、死んでいけませんと言われても、死を受け入れることが出来るのか。

何一つ分からない自分ですが、それでも死と直面させられています。

そこに自分なりの回答があるのか。

それとも何一つ回答が無いのか。

 

人それぞれですが新型コロナウィルスだけでなく他の病気や事故でも亡くなります。

死の縁無量です。

 

妙好人の庄松同行は本山にお参りしたとき、御門主に対して「覚悟はよいか」と尋ねられました。

このウィルス感染により、一人一人が庄松同行から「覚悟は良いか」と問われていいるのではないかと思います。

 

皆さん、覚悟は良いですか。

 

・・・お前こそどうだ・・・

 

うーん、どうかな。覚悟はありません。

嫌だ、嫌だと言いながら死んで行くのでしょうか。

そうなりたくはありませんが。

死んだ先は阿弥陀様にお任せですかね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

近年、毎年行っている勉強会を8月29日に刈谷駅の近くで行いたいと思っているのですか、このような状況ですので迷っています。

(8月29日 刈谷 アイリス中央生涯学習センター 502)

今回は飛雲さんと私の感話を考えています。

 

状況を見ながら判断したいと思います。

参加ご希望の方はメール等で連絡してください。

参加人数を把握したいと思います。

また、ご意見等あればよろしく願いします。

 

 

当面読みについて

浄土真宗には当面読みという言葉があります。
あまり聞き慣れない言葉です。
調べてもあまり出てきません。
21世紀の浄土真宗を考える会 くらいです。
そこにも書かれていますがお聖教を普通に読む、書かれたままを通常の読み方で読むというものです。
英語ならば文法通りに読むということです。
親鸞聖人が経典を読み替えられたのは有名です。
読み替えるだけで無く、お釈迦様の御本意を独特に解釈するのが浄土門の根本的な、根源的な所です。
七高僧方はそれぞれ特徴が有ります。
たとえば龍樹菩薩は十住毘婆沙論にお釈迦様のみ教えに難行道と易行道の二つがあることを明確に表しました。
このように親鸞聖人もお聖教を読み替えています。

善導大師 散善義
「不得外現賢善精進之相」
普通に読むと、「外に賢善精進の相を現じて内に虚仮をいだくことをえざれ。」となりますが、

親鸞聖人は、「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、内に虚仮を抱けばなり。」と読まれました。
高森顕徹会でもよく引用されていました)

善導大師 二河白道の譬え
「能生清浄願往生心」
「生」を普通に「生ず」と読むと「白道」を自力と解釈してしまいます。
親鸞聖人は「能生清浄願往生心」の「生」を「生ぜしむ」と読み替えられ他力であると解釈されました。

意味がまるで変わってきます。
当面読みは、まず、そのまま読みます。
その上で不明な点があれば、たとえば書かれた時代背景を考える必要があります。
今の香港を考えてください。
7月1日に施行された香港安全法により言論の自由は厳しく制限されます。
それまでの香港で言われていた言葉使いが一気に変わっていくでしょう。
これが歴史です。

このようにお聖教の読み方も時代背景やその人の能力を推定しないと理解出来ないことが沢山有ります。
お釈迦様は三時を表し時代と共に我々の能力が劣っていくことをお示してくださいました。
そのことをそのまま受け取った上でお聖教を拝読するということが大事なのではないかと思います。
そうでない読み方をするとどう考えても今の自分と合わない所が沢山有ります。
それを親鸞聖人のように読まれると、「あー、そうか。」とうなずけることがあります。

そうは言っても当面読みをするほど沢山お聖教を読んでいるわけではありませんので言葉面だけを語っているのかもしれません。
いずれにしても私を超えた世界の言葉と思えば不思議とそのまま受け止められることがあります。

七高僧親鸞聖人のお言葉を解釈が異なっていても私は「ふーん、違うんだ」ぐらいにしか読めません。
ただただ、自分が凡夫であるところに軸を置くとすべてが違って見えます。
自分を仏に置くとこれは困ったことになります。

お聖教は勝手に読むので無くちゃんとした先生の解説を読むのが、まずは正しく教えを受け止めることが出来るのではないでしょうか。
そういう意味でも高僧と呼ばれた方の本はそのまま読むのが良いと思います。
分からないことは分からないとしておいた方が間違いないのではないかと思います。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

自ら不幸になる道

最近新型コロナの影響でテレビも再放送が多いです。
再放送でも良い作品はたくさんあります。
私は何を見ているかと言えば映画がメインであとはニュースとドラマです。

そんな中、選タクシー という番組があります。
リアルタイムでは見たことが無かったのですが再放送されるということでしたので一度見てみようと思いました。(放送は終了しています)
内容を簡単に言いますと人生のやり直しをするというものです。
タイムマシンに乗って人生をやり直すのです。
それを見て思ったのですが、人は自ら不幸になる道を選んでいくことが多いのではないか。
どうしてそうなるのか。
常に私を基準に選択をしているからではないかと思ったのです。
当たり前と言えば当たり前なのですが改めてそう思ったのです。
自分が一番幸福になるという考えが心の中心に来たとき、その選択はほぼ不幸の道に繋がっています。
私を含め私の回りの人を見ているとそう思うのです。
本人は全く気がついていないのです。
言ってあげたいと思うのですが、間違いなく反感を買うことが分かりますので残念ながらなにも言えません。
そして、自分も同じ選択をしています。
自分が幸せになりたい一心でつかみにかかるのですからカルトでも何でも掴みます。
バランスが悪いのです。
人のため、回りの人のために少し我慢すれば良いことでも、ちょっとでも自分が馬鹿にされたり蔑んだりされたらとたんに牙を剥きます。
そして、相手の弱点を探して噛みついてやろうかと思います。
その感情はマグマのように湧いてきます。


しかればある文には、「一人一日の中に八億四千の念あり、念念の中の所作皆是れ三途の業なり(一人一日中、八億四千念、念念中所作、皆是三途業)」といへり。

拾遺黒谷上人語燈録(厭欣沙門了惠集録)巻中 登山状 第一

ここで「ある文」とは、「浄土菩薩経」と言われています。
浄土菩薩経は、浄土三昧経とか浄度三昧経とも言われています。
昭玄沙門統曇曜の訳とされていますが、北魏時代に撰述された偽経であることが分かっています。
21世紀の浄土真宗を考える会 より引用ー
例の会で刷り込まれた善導大師のお言葉ではありません。

常に選択を間違えています。
だから惑業苦を繰り返します。

ー煩悩ー
『入阿毘達磨論』下に「身心を煩乱逼悩(はんらんひつのう)して相続するが故に煩悩と名づく」(正蔵二八・九八四上)と述べられ、身心をわずらい乱し、苦しめるものと解釈している。
人間は煩悩によって業を形成し、業の報いによって苦しみの生存(輪廻)に繫つなぎ止められる。
これを煩悩業苦(惑業苦:わくごうくともいう)の三道という。


一事が万事このとおりですので不幸にまっしぐらなのですが、不思議なことに阿弥陀如来という仏様とのご縁があるのです。
その仏様によって選択する道を導かれます。
そのお陰か分かりませんが、嫌なことは次々と起きますが最近はなんとなく平々凡々と暮らしています。
選択を間違いながらも導かれている気がします。
何故か分からないが阿弥陀如来様に引かれています。
そして、南無阿弥陀仏を嫌々ながらも称えています。
本当は称えさせられているかもしれませんが。

いずれにしても残念ながら私はこんなものです。
この考え方から自分だけの幸福を願って阿弥陀様を掴もうとします。
どう考えても仏になる道とは相容れない姿です。
阿弥陀様は私をそのまま連れていくと言われていますが、そのままの私とはいかなるものか考えたらとても救われる様なものでは無いことがわかります。
大いなる矛盾です。

世の中の些細なことさえ上記のとおりなのですから、まして仏の悟りを開くなどもっての他です。
それでも私を救うと仰っておられるのです。

私はいつも自ら不幸になる道を選んでいるのですが、常に阿弥陀様に正されているようです。
あとは煮るなり焼くなり好きにしてください。
どうせ私から出てくるのは文句しか無いのです。

申し訳ないことです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

世間虚仮 唯仏是真

今は新型コロナのために世の中が揺れ動いています。
生き残るためにどうするのかあらゆる団体が対策を練っています。
中には火事場泥棒のような商売をしている人たちもあります。
一方で儲かって仕方ない会社もあります。
当然、反対の人たちも多くいます。
そして、ご法話会はほとんど全て中止です。
それでもネットでご法話を頑張っておられる方もあります。

善導大師は、この娑婆世界を以下のように言われています。

四方八方眺むれど、唯、愁嘆の声のみぞ聞く

高森顕徹会もよく使う言葉ですので嫌なのですが、これは事実ですからやむを得ません。

生き残ることができなければ、人知れず死んでいくだけです。
今でも孤独死はあちこちであります。
今は戦争中と同じくらいと考えた方が良いのではないかと思います。

お釈迦様はこんなとき何と仰っておられるのか。

法句経にこうあります。

われらはここ 死の領域に近し
道を異にする人々は このことわりを
知るに由なし このことわりを知る人々にこそ
かくしてイサカイは止まん

私たちは、この地上において、やがて死を迎えなければならない。
この事は本当に気づかない人も多い。しかし、この事実を自覚する人たちの間では、もはや諍いは無くなっていくだろう。

色々な解釈の仕方がありますが、私はこう味わいます。

死はいつも目の前にある。
その事を事実として受け止めたなら、あとはお任せである。
生きるも死ぬも縁次第。

ところが現実は、命も大事だか経済も大事、だからどうするのかと、国会議員達や国などの組織を問い詰めています。
テレビでは連日、このような内容が連呼されています。
そして、テレビと言う箱のなかで話している人達は経済的に問題の無い人ばかりです。
本当に困っている人も中にはいるでしょうが、あまり声は聞こえてきませんし、例え聞こえたとしても私には救う力はありません。
自分のことで精一杯です。
どうしようもないので自分で考えるしか無いのです。
残念ながらこの世はサバイバルなのです。

阿弥陀様にお任せしたところで死にたくないのは変わりません。
法句経のような訳にはまいりません。
じたばたしっぱなしです。
それでも阿弥陀様のお陰で今の私があります。
世間虚仮そのままの私を、現在、ただいま、必ず助けると仰っているのです。
私は虚仮、阿弥陀様は真実です。
南無阿弥陀仏は真実の塊です。

ですから、何が起きても受け止めるしかないのですが、そうはいっても苦しいのは嫌が私です。

私は、このまま、じたばたしながら新型コロナが落ち着くのを待つだけです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏