とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

自分が思う幸福になるために努力することしか出来ない

山に登る人は多いと思います。
山の頂上は大変気持ちが良いところです。
山に登ったことのある方は分かると思いますが、山に登る前から本当に楽しい時間です。
登る途中は苦しい時間ですが頂上に着いてその疲れが癒されます。
しかし、それは一時的なことでずっとそこにいることは出来ませんので山を降りなければなりません。
世の中のほとんどはこのようなものです。
どれだけ頑張って手にいれたものでもいつかは手放さなければなりません。
当然死んでいく時は何一つ持っていくことは出来ません。
持っていくのは私が行った全ての行為(業、業種子)だけです。

では、仏教ではどうなのか。
お釈迦様はその考え方では本当の幸せになれないと判断されました。
自我に執着する事は苦しみであると。
目標を設定しそれに向かって努力することは必ずしも間違いではありませんが、向かっている方向が違うと行き着く先も異なります。
頑張って自分の自我を満足させることは、苦行とも言えます。
苦行からは悟りは得られないと判断し、お釈迦様は捨てられたのです。
お釈迦様は、瞑想(必ずしも座っているだけが瞑想とは限りません)という仏道修行によって自我に執着することによる苦しみから解放されることを教えてくださいました。
自我を抑制する事を教えられました。
教えを聞き、それを実践することで達成できると教えられます。

そして、それができた人が沢山現れて「もう、生まれ変わることはない」と言われました。
しかし、そういう方たちも今の時代は出て来られません。
お釈迦様のみ教えを体得出来る能力が現代に生きる私には当然ありません。

さて、今の私はどう生きるのが良いのでしょうか。
私には分かりません。
結局自分が思う幸福になるための努力しか出来ません。
だいたいそうでないことをやらされたらやる気が起きません。
結局自分で判断し納得するしか無いのです。

そのために必要なのがみ教えです。
お釈迦様はいらっしゃいませんが世の中には沢山の宗教があります。
そして沢山の指導者たる宗教家がいます。
そのなかから自分が選択するのです。
正しいのか間違っているのか自分で判断するのです。
本当に正しい判断ができるかどうかわかりませんが、結局この頭で判断するのです。
そしてそれが正しいかどうかは自分が救われてみて判断するのですが本当に救われた状態に成っているのかはその人その人で違ってきます。
よく例に出されるのがオーム真理教です。
それを信じて棺桶に片足を突っ込んだときにはもう遅いのです。
「しまった」で終わりです。
中には「しまった」とも思わずに死んで行く人も多いでしょう。

大変な事です。
基本的に一度しか無いと考える人生です。
選択を間違えるとどこに行くのか分かったものではありません。
私には何が正しくて何が間違いかを判断できないのです。
いま、私は阿弥陀様とのご縁を頂きました。
私は阿弥陀様の作られた南無阿弥陀仏を選びました。(本当は選ばされたのでしょうが・・・)
私はこれでよしと思っています。
南無阿弥陀仏を選ぶ選ばないは、最後は面々の御はからいです。

顕浄土真実教行証文類 (序)

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。
浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。
これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。
大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。


以下、本願寺出版の現代語訳

 わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。

 ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。
これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来の慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものを救おうとお思いになったのである。

 このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれた教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。

 煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。

 ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。
もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。
如来の本願のなんとまことであることか。
摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。
この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。

 ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。
そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。

そこで聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

後生の一大事

「後生の一大事」と言うと最近はあまり聞き慣れない言葉となっています。

高森顕徹会の関係者なら普通に理解出来る言葉でも世間一般ではあまり聞き慣れない言葉というのが近年の私の感想です。

お寺のご法話の演題にもなかなか「後生の一大事」と銘打ったものを見かけることはありません。

 

後生の一大事とはなんぞや。

 

死後の世界に大変な事があるということですが、どういう根拠ですかとなっていきます。

そもそも誰が言い出した言葉なんでしょうか。

蓮如上人の御文章(御文)には至る所に出てきますが、それ以前には「後世」と言われているようです。

 

しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば・・・(御文章 第三帖)

 

阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。

 

されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。

(御文章 第五帖)

 

親鸞聖人の教行信証には出てきません。

「後世」は数カ所出てきます。

また、別の言い方で「生死出べき道」(恵信尼消息)と言われています。

 

皆さんご存じだとおもいますが、あえて再度説明しますと「後生の一大事」とは浄土真宗独特のお言葉で、死んだ後の世界のことです。

一般的に二つの意味を持っています。

一つは、死後何処に行くのか分からないことを言われています。

無量寿経には三悪道(地獄、餓鬼、畜生)に人は落ちると書かれています。

なぜ、落ちるのかというとそれだけの悪いことを行っているからです。

欲と怒りと愚痴にまみれて救い難いからです。

それが悪業と言われますが、そのせいで三悪道に赴かなければならないと言われています。

仏教思想は六道輪廻が前提の考え方ですので、それを全く信用していない人にとっては無意味な言葉となってしまいます。

 

もう一つは、浄土真宗では凡夫が仏に生まれることと言われています。

これは想像を絶する夢のような話ですので一大事と言われます。

ただし、阿弥陀様の救いにあずかった人が仏となります。

阿弥陀様が作られた南無阿弥陀仏にお任せすることによって仏となる身に定まります。

南無阿弥陀仏は、「我をたのめ、我が名を称えよ、必ず救う」という意味です。

 

法話において「後生の一大事(の解決)」などのタイトルを付けたとたん、後生の説明からその解決の方法まで話さなければなりません。

そうするとなぜ後生が問題になるのか、頭が今生のことしかない唯物論的な、あるいはキリスト教的な天国を夢見ている人にどうして話を理解させることが出来るでしょうか。

たぶん、絶望しかありません。

 

ですから「後生の一大事」を「人生を如何に生きるのか」とか「生きている今を大事にする」ための言葉に変換してごまかしている言い方もあります。

死んだ後の世界を話すのは、死後のことが分からないために脅しているように思っているのかもしれません。

本当の事は厳しい言葉になるので柔らかい言い方でごまかしているのでしょう。

実際、後生の一大事を検索し、お寺のブログなどを読んで見ると分かります。

 

そういう意味でいいますと高森顕徹会での使い方は極端で一面だけではありますが、

迷いの深い現代人にとっては響く言い方なのかもしれません。

「死んだら後生だ、その後生は一大事だ」と警鐘乱打することはお釈迦様のみ教えにかなっていることでしょう。

しかし、今後残念ながら後生の一大事という言葉が廃れていくことはあるのかもしれません。

このコロナ禍のなか、家族葬ばかりで仏様のみ教えに出遭う機会も減っています。

なおさら仏教の言葉が忘れ去られていくのではないかと危惧します。

そうならない為にもいろんな形でこの言葉とその解決の言葉が残っていくよう努力していかなければならないと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

霊鷲山

シルクロードさんがインドに行かれたと言われましたので、私もインドに行った時のことを少し書きます。

 

王舎城と言われるお城がお釈迦様の時代にありました。

現在もその遺跡がインドの東北部、ビハール州の真ん中あたりにあります。

残念ながら発掘など考古学の調査は進んでいないため、城壁などが崩れたまま残っています。

観無量寿経に説かれている七重の牢の跡や、耆婆(ジーヴァカ又はギバ)大臣の住居跡など無造作に看板があるだけです。

経典に書かれているとおり七重の牢跡の場所からは霊鷲山が見えます。

そこからしばらく行くと霊鷲山に行く参道があり、石畳になっています。

頻婆娑羅(ビンビサーラ)王も通られたと言われています。

頻婆娑羅王は麓まで車(象に乗っていたかもしれません)で行き、そこから車を降りて歩かれたと言われています。

石畳をしばらく歩いて行くと西の端の方に霊鷲山無量寿経などには祇闍崛山と書かれています)があります。

途中に阿難尊者が修行された祠もあります。

そこを超えて少し登って行くと鷲の形の岩が今もそのまま残っています。

霊鷲山と言われる所以です。

その頂上は、10畳程度の広さで、真ん中西側には二帖ほどの広さで四角く周りを数段の煉瓦で囲まれた場所があります。

その真ん中でお釈迦様がご説法をされたのだなと思うと感慨無量でした。

ここで無量寿経観無量寿経阿弥陀経法華経などを説かれたと言われています。

 

私が行ったとき、ひとつ残念だったことはミャンマーの方々が長々とその場でお説教を始められたことです。

それもマイクとスピーカーを使っているので残念ながら騒音としか聞こえませんでした。

他にもミャンマー以外の巡礼者も次から次へと来られて我先にと渋滞しているのです。

なんだか仏法者どうしでもうまくいかないものなんだなと思いました。

 

彼らが去った後は本当に静寂がありました。

西に沈む太陽は何処までも美しく周りはジャングルの緑が夕日に次々に彩られて、観無量寿経に説かれている日想観の景色とはこういうものかと思いました。

日想観は出来ませんが、日想観と言われる景色は美しいものだと本当に思いました。

 

他にも仏教遺跡はブッダガヤやサールナートルンビニー園、祇園精舎、竹林精舎など沢山あります。

当たり前のことですが、ほんの2千5,6百年前の事なのです。

何億年も前のことなら本当にあったのかどうなのか分かりませんが、あらゆる資料がそこに実在したことを示しているのに、あったのか無かったのか信じられないこと、お伽噺のように脳内変換をしてしまいます。

これから考えても私という人間は本当にあったことでもすぐに忘却の彼方におしやってしまう怖ろしく劣った能力なのだと思います。

しかも、目の前に遺跡があって史実は、ほぼ事実として当然あったことなのに私の中でははるか昔のように考えてしまうのはなぜでしょうか。

想像力の欠如と言われても仕方ないですね。

 

個人的には、サールナート鹿野苑)にあるダーメーク・ストゥーパを見たときは本当に感動しました。

ここでお釈迦様や多くのお弟子達が修行されていた場所なのかと思っただけで身体の力が抜けて頭が下がっていく思いでした。

三蔵玄奘様が命がけで目指した場所に今いると思うと時空を超えてそのあたりに玄奘様がいるような感じでした。

私は飛行機とバスで気楽に連れてきて頂きましたが、それでも何か本当に大事なところにいると思わずにおれませんでした。

残念ながらこの場所にお釈迦様の教えはありませんが、それでもとても大事な場所と思うのです。

なぜなら、この場所から真実が広まっているからです。

また、近くに五比丘に最初に法を説かれた初転法輪の場所もあります。

(余談ですがこの場所は愛知県にある五色園のようでイマイチです)

そのお陰で今、私が南無阿弥陀仏に遇わせていただいています。

未来永劫残って欲しい所です。

 

その他、インドにはヒンズー教の寺院始め、ガンジス川の川岸の町・ベナレスなど本当に面白い所が沢山有ります。

カレーもナンもチャイもとても美味しいです。

物乞いの人も本当に多いのですが、何か人々が自由気ままに生きています。

活力があります。

そして仕事もせずよく遊んでいます。

最後にあまり衛生的ではありません。ゴミも多いですし、交通ルールはあって無きがごとしです。

それでもインドは良い国のような気がします。

これから中国よりも印度の方が発展するのではないかと個人的には思います。

 

そんなインドでは新仏教と言われる団体があります。

ちょっと社会活動的な団体のようで、本来の仏陀に帰れみたいな思想を取り入れた団体ですが、かなりの人数がいるので社会的には大きな勢力となりつつあるそうです。

社会は常に動いています。

どうなっていくか分かりませんが、インドの人々のおおらかさと自由主義的な社会は開かれた社会でもあり、今後の発展を期待したいと思っています。

 

そして、もっとインドで仏教遺跡の発掘保存を進めて欲しいなと思っています。

そこに行けばお釈迦様はじめ多くのお弟子方の息吹が感じられます。

また、皆さんがどんどん訪れることによって遺跡の保存が進むと思います。

ぜひ、一度訪れていただきたいと思います。

 

もう一度行ける時が来るのかどうか分かりませんが、今度行くときは南部の方も行ってみたいですね。

また、ネパールに入ってエベレストも見てみたいと思います。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

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サールナート(ダーメーク・ストゥーパ

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霊鷲山

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霊鷲山から見たジャングル

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霊鷲山から見た夕日




 

勉強会の感想

無事、飛雲さんをお招きして勉強会を行うことができました。

飛雲さん以外に退会者が1名と不肖私が感話を行いました。

三人三様でそれぞれ個性があったと思います。

飛雲さんからは親鸞聖人のお言葉を根拠に何が正しくて親鸞会の何が間違いなのかしっかり教えて頂きました。

人数も飛雲さんのお知り合いが沢山参加され結構な賑わいでした。

17時までの予定をオーバーするくらいでした。

個人的には非常に良かったなと思っています。

実は skype での参加も試みてみました。

基本、音声だけなら負荷が少ないためにネットの接続が良くなるのかなとも思いました。

ただ、会場での質疑の声までは聞こえていたのかちょっと疑問に思います。

いずれにしてもこのコロナが蔓延している中で参加された方はすごいご縁のかただなと思わずにおれません。

一応、ソウシャルディスタンスと消毒および換気は徹底して行いました。

残念なのは、終わった後に皆さんと反省会が出来なかったことです。

早く反省会が出来るようになって欲しいなと思います。

明日をも知れぬ命ながら、今日を楽しく生きたいと思う とくよしみね でした。

煩悩具足とはこのことです。

 

参加された皆さん、お疲れ様でした。

そして、ありがとうございました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

参加された方で録音データを希望される方は私までメールしてください。

また、会計報告が必要な方もご連絡お願いします。

 

 

 

勉強会のお知らせ

とくよしみね からのお知らせです。

近年夏に勉強会を行っていましたが、今年も行うことといたしました。

今回はブログ「飛雲」の管理人さん、飛雲さんを呼んで行います。

それ以外に退会者1名と不肖私が感話を行います。

日程は以下の予定で行います。

10時から12時 感話および質疑等

13時から17時 感話および質疑等

お勤めを行います。
日時は8月29日の土曜日です。
場所は、刈谷市総合文化会館(アイリス中央生涯学習センター/502講座室)です。
刈谷駅東すぐです。
どなたでも参加可能ですが、人数制限がありますので事前に連絡をいただけると有り難いです。

新型コロナ対策として、消毒、会場の換気、フェイスマスク等により対応します。

よろしくお願いします。

とくよしみね

新型コロナウィルス

新型コロナウィルスが猛威をふるっています。

現在生きている私達にとって、新型コロナウィルスはこの世で初めて経験する大きな災難と言えるでしょう。

何故なら現代日本人の多くは戦争の経験も、疫病や飢饉の経験もほとんどありません。

だから、このウィルス感染はほとんどの人が初めて直面している大変な問題と言えましょう。

それも、高度に発達した文明のせいで、ウィルスが一気に世界に広まってしまいました。

中国発のとんでもない爆弾が世界中に落ちているのと同じと言ってもいいでしょう。

それくらい沢山の方が亡くなっています。

全人類が死の恐怖に直面しています。

そう言いながらも社会は意外に普通に回っているとも言えます。

なんとも致し方ないのでしょう。

だからじわりじわりと日本国内でも感染が広まっています。

まるで映画のようです。

バイオハザードという映画がありますが、ウィルスに感染するとゾンビになってしまいます。

それが世界に一気に広まり人類を滅亡の危機に陥れます。

そんな映画を彷彿とさせる出来事です。

 

以前も書きましたが人類の歴史上、疫病は幾度となく発生しています。

そのたび人類は免疫を獲得しながら生存し続けています。

親鸞聖人の時代にも同じ様に疫病が流行していました。

それでも生き残っているのだからなんとかなるのではと楽観視している人も多くいることでしょう。

ところが自分が感染し、死ぬかもしれないとなったら「しまった」しかありません。

 

親鸞聖人が門弟に宛てた最晩年八十八歳の時のお手紙が残っています。

 

「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。(略)」

文応元年十一月十三日

親鸞聖人御消息」

・・・去年も今年も多くの人が(疫病や飢饉で)亡くなっているが悲しいことです。しかし、お釈迦様のおっしゃるとおりで無常の世の中であります。驚くこともありません。親鸞は臨終の姿は問題にしません。信心決定の人は命つきなば極楽浄土の人であるから、凡夫でも死ぬのは素晴らしいことなのです。

(現代語訳は以下の例文がありますがちょっとどうかと個人的には思います。:愚かで智慧のないわたしたちであっても尊い臨終を迎えるのです。 )・・・

 

 平安時代の疫病は麻疹(ましん、赤疱瘡:あかもがさ=はしか)と言われています。

そのほかにもマラリア(瘧疾:ぎゃくしつ)などが流行したと言われています。

それ以外にも飢饉もあり京の都で数万人が亡くなったと言われています。

現代も同じです。

いつ死が訪れるのか分かりません。

 

今死んでも後悔ないのか、死んでいけるか。

 

死ぬのは嫌です、死んでいけませんと言われても、死を受け入れることが出来るのか。

何一つ分からない自分ですが、それでも死と直面させられています。

そこに自分なりの回答があるのか。

それとも何一つ回答が無いのか。

 

人それぞれですが新型コロナウィルスだけでなく他の病気や事故でも亡くなります。

死の縁無量です。

 

妙好人の庄松同行は本山にお参りしたとき、御門主に対して「覚悟はよいか」と尋ねられました。

このウィルス感染により、一人一人が庄松同行から「覚悟は良いか」と問われていいるのではないかと思います。

 

皆さん、覚悟は良いですか。

 

・・・お前こそどうだ・・・

 

うーん、どうかな。覚悟はありません。

嫌だ、嫌だと言いながら死んで行くのでしょうか。

そうなりたくはありませんが。

死んだ先は阿弥陀様にお任せですかね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

近年、毎年行っている勉強会を8月29日に刈谷駅の近くで行いたいと思っているのですか、このような状況ですので迷っています。

(8月29日 刈谷 アイリス中央生涯学習センター 502)

今回は飛雲さんと私の感話を考えています。

 

状況を見ながら判断したいと思います。

参加ご希望の方はメール等で連絡してください。

参加人数を把握したいと思います。

また、ご意見等あればよろしく願いします。

 

 

当面読みについて

浄土真宗には当面読みという言葉があります。
あまり聞き慣れない言葉です。
調べてもあまり出てきません。
21世紀の浄土真宗を考える会 くらいです。
そこにも書かれていますがお聖教を普通に読む、書かれたままを通常の読み方で読むというものです。
英語ならば文法通りに読むということです。
親鸞聖人が経典を読み替えられたのは有名です。
読み替えるだけで無く、お釈迦様の御本意を独特に解釈するのが浄土門の根本的な、根源的な所です。
七高僧方はそれぞれ特徴が有ります。
たとえば龍樹菩薩は十住毘婆沙論にお釈迦様のみ教えに難行道と易行道の二つがあることを明確に表しました。
このように親鸞聖人もお聖教を読み替えています。

善導大師 散善義
「不得外現賢善精進之相」
普通に読むと、「外に賢善精進の相を現じて内に虚仮をいだくことをえざれ。」となりますが、

親鸞聖人は、「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、内に虚仮を抱けばなり。」と読まれました。
高森顕徹会でもよく引用されていました)

善導大師 二河白道の譬え
「能生清浄願往生心」
「生」を普通に「生ず」と読むと「白道」を自力と解釈してしまいます。
親鸞聖人は「能生清浄願往生心」の「生」を「生ぜしむ」と読み替えられ他力であると解釈されました。

意味がまるで変わってきます。
当面読みは、まず、そのまま読みます。
その上で不明な点があれば、たとえば書かれた時代背景を考える必要があります。
今の香港を考えてください。
7月1日に施行された香港安全法により言論の自由は厳しく制限されます。
それまでの香港で言われていた言葉使いが一気に変わっていくでしょう。
これが歴史です。

このようにお聖教の読み方も時代背景やその人の能力を推定しないと理解出来ないことが沢山有ります。
お釈迦様は三時を表し時代と共に我々の能力が劣っていくことをお示してくださいました。
そのことをそのまま受け取った上でお聖教を拝読するということが大事なのではないかと思います。
そうでない読み方をするとどう考えても今の自分と合わない所が沢山有ります。
それを親鸞聖人のように読まれると、「あー、そうか。」とうなずけることがあります。

そうは言っても当面読みをするほど沢山お聖教を読んでいるわけではありませんので言葉面だけを語っているのかもしれません。
いずれにしても私を超えた世界の言葉と思えば不思議とそのまま受け止められることがあります。

七高僧親鸞聖人のお言葉を解釈が異なっていても私は「ふーん、違うんだ」ぐらいにしか読めません。
ただただ、自分が凡夫であるところに軸を置くとすべてが違って見えます。
自分を仏に置くとこれは困ったことになります。

お聖教は勝手に読むので無くちゃんとした先生の解説を読むのが、まずは正しく教えを受け止めることが出来るのではないでしょうか。
そういう意味でも高僧と呼ばれた方の本はそのまま読むのが良いと思います。
分からないことは分からないとしておいた方が間違いないのではないかと思います。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏