とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

厳粛な事実

新年を迎え、今年も命のある限りよろしくお願いします。

さて、この世の中の事実とは何か。
私のこの濁った二つの眼で見ているものが本当の事実なのか。
二つの眼は事実を正確に把握することが出来るのか。

一体事実とは何か。
もともとはラテン語からで、「神がなしたこと」という意味らしいです。
想像出来ない突拍子のないことも、起きている理不尽なことも神が成したことなのかと思われたのかもしれません。
辞書には、実際に起こった事柄、現実に存在する事柄と書かれています。
では、今現実に起こっていることを考えてみます。

まず、私は呼吸をしています。
物を食べ、活動し、排泄して、寝ています。
いわゆる生存活動を行っています。
人とコミュニケーションを行っていますが、中には人以外とコミュニケーションを行っている人もいます。
そして、思考しています。
世界中ではあらゆる事が同時に進行しています。
地球だけでなく宇宙全体であらゆる事象が同時進行しています。
私の知らないことが、知らないところで無数に起きているのも事実です。
生きている間はこのような事象に影響され続けます。

では仏教的に考えてみます。
「空」だとか考えると訳が分からなくなるので実際にあったことは、お釈迦様を始めとして七高僧方が阿弥陀様という仏様の実在と救いの言葉を語っています。
そのお言葉を過去から現在まで引き継がれています。
そして、日本においては親鸞聖人始め高僧方や多くの妙好人南無阿弥陀仏を讃えておりその記録が残っています。

ところがこの私は南無阿弥陀仏とご縁があるにも関わらず、命ある限り阿弥陀様を讃談する覚悟があるかと言われると自信がありません。
また、私に意思があるのかどうか分かりませんが現実には今、南無阿弥陀仏と称えされられます。
この事実は否定出来ません。
今、落ちるに間違いないと「思っている私」に南無阿弥陀仏が届いて居ることだけは厳粛な事実です。



・・・摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ・・・



妄想の世界にいるのかもしれません。
お餅を食べながら新年を味わっています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

クリスマス

もうすぐクリスマスです。

真宗門徒としてクリスマスをどう過ごすのか悶々とします。

恋人や子供がいる場合、普通の家庭行事として皆で楽しくパーティを開くことは問題があるのでしょうか。

原理主義的に言えばキリスト教の信者でもないのですから、クリスマスパーティなどもってのほかです。

しかしです。

ここで大事なのは宗教的行事としてのクリスマスと単に皆と楽しむためのクリスマスと同じかどうかです。

既に世間一般に広がっているケーキ屋さんなどが主体の商業ベースに乗らされた行事として参加することは悪いことなのか。

皆で楽しくお食事をし、プレゼントを交換するのはなんとなくうきうきしますし、楽しいのです。

町中では軽快なクリスマスソングが響き渡っています。

テレビもクリスマスを煽りますので、彼女や彼氏がいない人は寂しい思いをします。

正直一人で過ごすクリスマスは辛いことかもしれません。

やはりクリスマスは誰かと楽しく過ごしたいと思うのは皆と同じことが出来ないことに対する同調圧力がかかっているのでしょう。

これは本当にやっかいです。

ここに無宗教と日本人が言われる根拠があります。

伝統文化の伝承に対してあまり執着が無いのです。

実際私の住む町でもいくつかの伝統行事が行われなくなっています。

だいたい過去の天皇が信仰してきた仏教を明治時代に捨ててしまったのですから。

それをなんとも思わない国民性はいかなるものか、考え込んでしまいます。

 

ヨーロッパやアメリカを中心としたキリスト教の国では、クリスマス前後はお休みですので家族で過ごすことを基本としています。

また、教会で賛美歌を歌ったりしています。

とにかく日本のお正月のように家族で過ごす大切な時間と言えるでしょう。

 

日本ではクリスマスはお休みでもありませんし、主に若者や小さい子供のいる家族のための行事と言えるかもしれません。

だからそんなに気にする必要は無いと思うのですが、やはりこういうところから文化や風習が変わっていくのだなと思います。

なぜなら100年前にはこんな行事はほとんどなかったのですから。

「メリークリスマス」と皆で言いながら乾杯をすることは本当に気にしなくても良いのか、いつもこの時期になると悶々とします。

そう言いながら私はケーキを食べる日として毎年行っています。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

「貴方は地獄行きだ」と言うと「機責め」と言われることについて

言葉と言うものは本当に難しいものです。
今回は、機責めについて考えてみたいと思います。

ご存じのように機とは私たち人間のことを言います。
心と体を含めた私をひっくるめて機と言います。
私達は外からの影響でいかようにも動く機械のような者なので「機」と言います。
人は生まれ育った世界によって考え方が大きく違います。
簡単に言えば世界中色々な国で色々な価値判断による文化があり、その国の影響を受けて皆さん生きています。
機械のようにその国の政治、文化や歴史の力に頭も身体も支配されている人がほとんどですね。
当たり前のことですが仏教を信じていない人に仏教を理解させるには相当勉強してもらわなければなりません。
要するに外からの知識や経験を与える必要があると言うことです。
価値観の異なる人と会話をすると刺激もありますが相当疲れます。
まったく人間とはやっかいなものです。

その機を責めると言うのは何に基づいて責めるのかです。
私を責める基準です。
まず、機と言われる私は心と体で悪を作っているから死んでも良いところには行かないことを指して地獄行きだと仏教では言います。
この悪についてもいろいろ有ります。
一般的には十悪、五逆でしょうか。
今回はこの説明は割愛します。
次に責めるとは、自分の行為について、責任を取ることを放棄していることを間違いではないかと問うことです。
それを第三者あるいは信後のひとから未信の人に対して言われることです。

機責めについて大原性實の眞宗異義異安心の研究によると以下のとおりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて歡喜を強調する異義者は、その歓喜の信一念に到達する過程として、死の恐怖や深刻な罪惡觀を説く。
そして罪惡観に徹底することがなければ、入信は不可能であると強調する。
そこでこの罪惡觀を徹底せしむる爲には、一室に入れて沈思冥想せしめ、罪の告白懺悔をせまる等、中には神經衰弱に陥り、或はたまに發狂する者さえ生ずる者もあるという。
かくて機の罪惡を衝き、その徹底をせまり、或は地獄の猛火が足下に炎々として燃えつゝあるを凝視すべしとか、或はその地獄の猛火中に如來が泣き叫びつゝ、呼び給う御聲を聞くべし等と教えるという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで言われているのは、ご信心を頂くためには地獄行きを自覚する必要があるということです。
何を自覚するのかと言えば、深刻な罪悪感や無常感のことです。
上記文章では、感を観と同一視していますが本来は使い方が違いますのでこの文章の観を感として読みます。
ここで問題なのが罪悪感や無常感を強調することです。
深く罪悪や無常を感じなければ救われないということが問題であるということです。
仏教的には、「感」でなく「観」でなければなりません。
感じることでは無く、正しく見る観です。
ここが大事なところだと思います。

罪悪も無常も仏様の言われるように感じない自分を観ることが本当は一番大事なのです。

蓮如上人は御一代記聞き書きに以下の通り言われています。

「わが心にまかせずして心を責めよ。仏法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。」

この御文も誤解を招きやすいと思います。
自分の心を当てにするなということでは間違い有りませんが、懈怠な心に任せず頑張れとも読めます。

歎異抄の以下の御文が機責めの根拠にもなっています。

いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」

味わいとしてはありますが、地獄と言われても分かりません。
ただ、いずれの行(修行)も出来ない、自分の力で仏の悟りを開くことは絶対に無理だということは言えます。

仏教的には大無量寿経の下巻、五悪段の後に以下のようにあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏、弥勒に告げたまはく、「われなんぢらに語りしごとく、この世の五悪、勤苦かくのごとし。
五痛・五焼、展転してあひ生ず。
ただ衆悪をなして善本を修せざれば、みなことごとく自然にもろもろの悪趣に入る。
あるいはそれ今世にまづ殃病を被りて、死を求むるに得ず。
生を求むるに得ず。
罪悪の招くところ衆に示してこれを見せしむ。
身死して行に随うて三悪道に入りて、苦毒無量にしてみづからあひ燋然す。
その久しくして後に至りて〔再び人間界に生じ〕ともに怨結をなし、小微より起りてつひに大悪となる。
みな財色に貪着して施恵することあたはざるによりてなり。
痴欲に迫められて心に随うて思想す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
簡単に言えば悪しか作っていないから、それにしたがって三悪道(悪趣=地獄、餓鬼、畜生の三界)に行くことです。

だから「お前は地獄行きだ」と言われると人によって色々な受け止め方になります。
考えられる代表的なパターンで問題化する場合として以下のように思います。

1 私は地獄に行くようなことはしていない。
 原因:地獄行きの業というものが何か分かっていない。
 結果:教えを聞いても、なかなか地獄行きの意味を理解出来ない。

2 地獄行きにならないと救われないのか。
 原因:地獄行きになれれば救われると手段化する。
 結果:罪悪を見つめたりする。過剰に思い込むが地獄行きの自分にならないことに悩む。

3 どうしよう、私は地獄行きだ。
 原因:過剰に罪悪を感じてしまう。
 結果:自分は生きている価値がないと思い込み精神的に病むこともある。

言い方もあると思います。
そもそも人として駄目であるとか、生きている価値がないなどと人格を否定することは仏教のみ教えとは異なります。
人や生き物を傷つけたことや犯した罪の告白をさせ、そのことを責めるのも間違っています。

我が身の姿は、お聖教に基づいて話すべきです。
それでも聞き手は色々な受け止め方をします。
結局その人の理解に合わせて話さなければなりませんので多くの人を対象に話をするときは、やはりお聖教を元に話すのが無難なのでしょう。
さらに浄土真宗で言う本当の悪は阿弥陀様の御本願を疑うことです。
ですから仏教的に言われている悪(大無量寿経下巻の五悪段にある悪)とは異なります。

浄土真宗では「ご示談」という一対一のカウンセリング的なことが伝統的に行われています。
最近はあまり聞きませんがちゃんとしたお寺では「ご示談」をしていただけます。

どうしても御信心が分からない人は「ご示談」を受けられるのも一つでしょう。

いずれにしても機責めの判断も人格否定や罪の告白等を強要するのでなく、仏教で言われている我々の姿を説くのであれば問題がないと思います。
ただ、分からないことを何度も何度も言われ続けることは、言われる方にとっては私を責めているように感じることもあるでしょう。
たとえば「貴方は迷っている、そのことを自覚すべきだ」と何度も何度も繰り返し言うことはどうなのかと思います。
ここで問題なのは相手を型にはめようとすることです。
これは強要になりますので今風の機責めと言われるかもしれません。
その場合、当然相手の理解度を判断することは説く方が気を付けるべき事だと思います。
要するに相手を思いやって話すことが重要だと思うのです。
阿弥陀様はどんなことがあろうと私を待って待って待ち続けていただいたのですから。



南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

自分が思う幸福になるために努力することしか出来ない

山に登る人は多いと思います。
山の頂上は大変気持ちが良いところです。
山に登ったことのある方は分かると思いますが、山に登る前から本当に楽しい時間です。
登る途中は苦しい時間ですが頂上に着いてその疲れが癒されます。
しかし、それは一時的なことでずっとそこにいることは出来ませんので山を降りなければなりません。
世の中のほとんどはこのようなものです。
どれだけ頑張って手にいれたものでもいつかは手放さなければなりません。
当然死んでいく時は何一つ持っていくことは出来ません。
持っていくのは私が行った全ての行為(業、業種子)だけです。

では、仏教ではどうなのか。
お釈迦様はその考え方では本当の幸せになれないと判断されました。
自我に執着する事は苦しみであると。
目標を設定しそれに向かって努力することは必ずしも間違いではありませんが、向かっている方向が違うと行き着く先も異なります。
頑張って自分の自我を満足させることは、苦行とも言えます。
苦行からは悟りは得られないと判断し、お釈迦様は捨てられたのです。
お釈迦様は、瞑想(必ずしも座っているだけが瞑想とは限りません)という仏道修行によって自我に執着することによる苦しみから解放されることを教えてくださいました。
自我を抑制する事を教えられました。
教えを聞き、それを実践することで達成できると教えられます。

そして、それができた人が沢山現れて「もう、生まれ変わることはない」と言われました。
しかし、そういう方たちも今の時代は出て来られません。
お釈迦様のみ教えを体得出来る能力が現代に生きる私には当然ありません。

さて、今の私はどう生きるのが良いのでしょうか。
私には分かりません。
結局自分が思う幸福になるための努力しか出来ません。
だいたいそうでないことをやらされたらやる気が起きません。
結局自分で判断し納得するしか無いのです。

そのために必要なのがみ教えです。
お釈迦様はいらっしゃいませんが世の中には沢山の宗教があります。
そして沢山の指導者たる宗教家がいます。
そのなかから自分が選択するのです。
正しいのか間違っているのか自分で判断するのです。
本当に正しい判断ができるかどうかわかりませんが、結局この頭で判断するのです。
そしてそれが正しいかどうかは自分が救われてみて判断するのですが本当に救われた状態に成っているのかはその人その人で違ってきます。
よく例に出されるのがオーム真理教です。
それを信じて棺桶に片足を突っ込んだときにはもう遅いのです。
「しまった」で終わりです。
中には「しまった」とも思わずに死んで行く人も多いでしょう。

大変な事です。
基本的に一度しか無いと考える人生です。
選択を間違えるとどこに行くのか分かったものではありません。
私には何が正しくて何が間違いかを判断できないのです。
いま、私は阿弥陀様とのご縁を頂きました。
私は阿弥陀様の作られた南無阿弥陀仏を選びました。(本当は選ばされたのでしょうが・・・)
私はこれでよしと思っています。
南無阿弥陀仏を選ぶ選ばないは、最後は面々の御はからいです。

顕浄土真実教行証文類 (序)

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。
浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。
これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。
大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。


以下、本願寺出版の現代語訳

 わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。

 ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。
これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来の慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものを救おうとお思いになったのである。

 このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれた教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。

 煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。

 ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。
もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。
如来の本願のなんとまことであることか。
摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。
この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。

 ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。
そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。

そこで聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

後生の一大事

「後生の一大事」と言うと最近はあまり聞き慣れない言葉となっています。

高森顕徹会の関係者なら普通に理解出来る言葉でも世間一般ではあまり聞き慣れない言葉というのが近年の私の感想です。

お寺のご法話の演題にもなかなか「後生の一大事」と銘打ったものを見かけることはありません。

 

後生の一大事とはなんぞや。

 

死後の世界に大変な事があるということですが、どういう根拠ですかとなっていきます。

そもそも誰が言い出した言葉なんでしょうか。

蓮如上人の御文章(御文)には至る所に出てきますが、それ以前には「後世」と言われているようです。

 

しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば・・・(御文章 第三帖)

 

阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。

 

されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。

(御文章 第五帖)

 

親鸞聖人の教行信証には出てきません。

「後世」は数カ所出てきます。

また、別の言い方で「生死出べき道」(恵信尼消息)と言われています。

 

皆さんご存じだとおもいますが、あえて再度説明しますと「後生の一大事」とは浄土真宗独特のお言葉で、死んだ後の世界のことです。

一般的に二つの意味を持っています。

一つは、死後何処に行くのか分からないことを言われています。

無量寿経には三悪道(地獄、餓鬼、畜生)に人は落ちると書かれています。

なぜ、落ちるのかというとそれだけの悪いことを行っているからです。

欲と怒りと愚痴にまみれて救い難いからです。

それが悪業と言われますが、そのせいで三悪道に赴かなければならないと言われています。

仏教思想は六道輪廻が前提の考え方ですので、それを全く信用していない人にとっては無意味な言葉となってしまいます。

 

もう一つは、浄土真宗では凡夫が仏に生まれることと言われています。

これは想像を絶する夢のような話ですので一大事と言われます。

ただし、阿弥陀様の救いにあずかった人が仏となります。

阿弥陀様が作られた南無阿弥陀仏にお任せすることによって仏となる身に定まります。

南無阿弥陀仏は、「我をたのめ、我が名を称えよ、必ず救う」という意味です。

 

法話において「後生の一大事(の解決)」などのタイトルを付けたとたん、後生の説明からその解決の方法まで話さなければなりません。

そうするとなぜ後生が問題になるのか、頭が今生のことしかない唯物論的な、あるいはキリスト教的な天国を夢見ている人にどうして話を理解させることが出来るでしょうか。

たぶん、絶望しかありません。

 

ですから「後生の一大事」を「人生を如何に生きるのか」とか「生きている今を大事にする」ための言葉に変換してごまかしている言い方もあります。

死んだ後の世界を話すのは、死後のことが分からないために脅しているように思っているのかもしれません。

本当の事は厳しい言葉になるので柔らかい言い方でごまかしているのでしょう。

実際、後生の一大事を検索し、お寺のブログなどを読んで見ると分かります。

 

そういう意味でいいますと高森顕徹会での使い方は極端で一面だけではありますが、

迷いの深い現代人にとっては響く言い方なのかもしれません。

「死んだら後生だ、その後生は一大事だ」と警鐘乱打することはお釈迦様のみ教えにかなっていることでしょう。

しかし、今後残念ながら後生の一大事という言葉が廃れていくことはあるのかもしれません。

このコロナ禍のなか、家族葬ばかりで仏様のみ教えに出遭う機会も減っています。

なおさら仏教の言葉が忘れ去られていくのではないかと危惧します。

そうならない為にもいろんな形でこの言葉とその解決の言葉が残っていくよう努力していかなければならないと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

霊鷲山

シルクロードさんがインドに行かれたと言われましたので、私もインドに行った時のことを少し書きます。

 

王舎城と言われるお城がお釈迦様の時代にありました。

現在もその遺跡がインドの東北部、ビハール州の真ん中あたりにあります。

残念ながら発掘など考古学の調査は進んでいないため、城壁などが崩れたまま残っています。

観無量寿経に説かれている七重の牢の跡や、耆婆(ジーヴァカ又はギバ)大臣の住居跡など無造作に看板があるだけです。

経典に書かれているとおり七重の牢跡の場所からは霊鷲山が見えます。

そこからしばらく行くと霊鷲山に行く参道があり、石畳になっています。

頻婆娑羅(ビンビサーラ)王も通られたと言われています。

頻婆娑羅王は麓まで車(象に乗っていたかもしれません)で行き、そこから車を降りて歩かれたと言われています。

石畳をしばらく歩いて行くと西の端の方に霊鷲山無量寿経などには祇闍崛山と書かれています)があります。

途中に阿難尊者が修行された祠もあります。

そこを超えて少し登って行くと鷲の形の岩が今もそのまま残っています。

霊鷲山と言われる所以です。

その頂上は、10畳程度の広さで、真ん中西側には二帖ほどの広さで四角く周りを数段の煉瓦で囲まれた場所があります。

その真ん中でお釈迦様がご説法をされたのだなと思うと感慨無量でした。

ここで無量寿経観無量寿経阿弥陀経法華経などを説かれたと言われています。

 

私が行ったとき、ひとつ残念だったことはミャンマーの方々が長々とその場でお説教を始められたことです。

それもマイクとスピーカーを使っているので残念ながら騒音としか聞こえませんでした。

他にもミャンマー以外の巡礼者も次から次へと来られて我先にと渋滞しているのです。

なんだか仏法者どうしでもうまくいかないものなんだなと思いました。

 

彼らが去った後は本当に静寂がありました。

西に沈む太陽は何処までも美しく周りはジャングルの緑が夕日に次々に彩られて、観無量寿経に説かれている日想観の景色とはこういうものかと思いました。

日想観は出来ませんが、日想観と言われる景色は美しいものだと本当に思いました。

 

他にも仏教遺跡はブッダガヤやサールナートルンビニー園、祇園精舎、竹林精舎など沢山あります。

当たり前のことですが、ほんの2千5,6百年前の事なのです。

何億年も前のことなら本当にあったのかどうなのか分かりませんが、あらゆる資料がそこに実在したことを示しているのに、あったのか無かったのか信じられないこと、お伽噺のように脳内変換をしてしまいます。

これから考えても私という人間は本当にあったことでもすぐに忘却の彼方におしやってしまう怖ろしく劣った能力なのだと思います。

しかも、目の前に遺跡があって史実は、ほぼ事実として当然あったことなのに私の中でははるか昔のように考えてしまうのはなぜでしょうか。

想像力の欠如と言われても仕方ないですね。

 

個人的には、サールナート鹿野苑)にあるダーメーク・ストゥーパを見たときは本当に感動しました。

ここでお釈迦様や多くのお弟子達が修行されていた場所なのかと思っただけで身体の力が抜けて頭が下がっていく思いでした。

三蔵玄奘様が命がけで目指した場所に今いると思うと時空を超えてそのあたりに玄奘様がいるような感じでした。

私は飛行機とバスで気楽に連れてきて頂きましたが、それでも何か本当に大事なところにいると思わずにおれませんでした。

残念ながらこの場所にお釈迦様の教えはありませんが、それでもとても大事な場所と思うのです。

なぜなら、この場所から真実が広まっているからです。

また、近くに五比丘に最初に法を説かれた初転法輪の場所もあります。

(余談ですがこの場所は愛知県にある五色園のようでイマイチです)

そのお陰で今、私が南無阿弥陀仏に遇わせていただいています。

未来永劫残って欲しい所です。

 

その他、インドにはヒンズー教の寺院始め、ガンジス川の川岸の町・ベナレスなど本当に面白い所が沢山有ります。

カレーもナンもチャイもとても美味しいです。

物乞いの人も本当に多いのですが、何か人々が自由気ままに生きています。

活力があります。

そして仕事もせずよく遊んでいます。

最後にあまり衛生的ではありません。ゴミも多いですし、交通ルールはあって無きがごとしです。

それでもインドは良い国のような気がします。

これから中国よりも印度の方が発展するのではないかと個人的には思います。

 

そんなインドでは新仏教と言われる団体があります。

ちょっと社会活動的な団体のようで、本来の仏陀に帰れみたいな思想を取り入れた団体ですが、かなりの人数がいるので社会的には大きな勢力となりつつあるそうです。

社会は常に動いています。

どうなっていくか分かりませんが、インドの人々のおおらかさと自由主義的な社会は開かれた社会でもあり、今後の発展を期待したいと思っています。

 

そして、もっとインドで仏教遺跡の発掘保存を進めて欲しいなと思っています。

そこに行けばお釈迦様はじめ多くのお弟子方の息吹が感じられます。

また、皆さんがどんどん訪れることによって遺跡の保存が進むと思います。

ぜひ、一度訪れていただきたいと思います。

 

もう一度行ける時が来るのかどうか分かりませんが、今度行くときは南部の方も行ってみたいですね。

また、ネパールに入ってエベレストも見てみたいと思います。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

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サールナート(ダーメーク・ストゥーパ

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霊鷲山

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霊鷲山から見たジャングル

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霊鷲山から見た夕日




 

勉強会の感想

無事、飛雲さんをお招きして勉強会を行うことができました。

飛雲さん以外に退会者が1名と不肖私が感話を行いました。

三人三様でそれぞれ個性があったと思います。

飛雲さんからは親鸞聖人のお言葉を根拠に何が正しくて親鸞会の何が間違いなのかしっかり教えて頂きました。

人数も飛雲さんのお知り合いが沢山参加され結構な賑わいでした。

17時までの予定をオーバーするくらいでした。

個人的には非常に良かったなと思っています。

実は skype での参加も試みてみました。

基本、音声だけなら負荷が少ないためにネットの接続が良くなるのかなとも思いました。

ただ、会場での質疑の声までは聞こえていたのかちょっと疑問に思います。

いずれにしてもこのコロナが蔓延している中で参加された方はすごいご縁のかただなと思わずにおれません。

一応、ソウシャルディスタンスと消毒および換気は徹底して行いました。

残念なのは、終わった後に皆さんと反省会が出来なかったことです。

早く反省会が出来るようになって欲しいなと思います。

明日をも知れぬ命ながら、今日を楽しく生きたいと思う とくよしみね でした。

煩悩具足とはこのことです。

 

参加された皆さん、お疲れ様でした。

そして、ありがとうございました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

参加された方で録音データを希望される方は私までメールしてください。

また、会計報告が必要な方もご連絡お願いします。