とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

東日本大震災

2011年3月11日

この日は本当に大変な日でした。

大きな地震に加え津波、その後、福島第一原子力発電所の爆発事故による放射能汚染被害が発生しました。

この地震津波により多くの命がなくなりました。

中でも大川小学校の児童と先生のほとんどが津波にのみ込まれて亡くなったことは本当に心苦しく思います。

先生の対応が良かったのか悪かったのかいろいろ言われています。

裁判では県と市が住民の訴訟に対して最高裁まで戦いました。

結果、住民が勝ちましたが、個人的には何か空しさを感じてしまいます。

裁判記録を読むと「どうして」と思うことが沢山有ります。

しかしながら結果としてかわいい子供達が先生と一緒に亡くなりました。

親の立場に立てば本当に残念でならない気持ちで一杯でしょう。

数人の子供と先生一人が生き延びましたが、この先生も生き地獄だなと思います。

 

沢山の知り合いが支援のため東北に行きました。

放射線線量計を見せてくれました。

仕事だけで無くボランティアの人も沢山いました。

残念ながら私は行く機会がありませんでした。

 

仏教的な言葉で言えば、宿縁、宿業と言えるでしょうが、その言葉で片付けることが出来ません。

いろいろ調べてみると本当に残念な気持ちになります。

子供達はどうして死ななければならなかったのか真実が知りたいと思われるやるせない気持ちは心が痛みます。

しかし、その姿は訴える方も反論する方も共に仏教的に言えば煩悩具足の凡夫の姿です。

非難しているように思われるかもしれませんが、どちらの立場も理解出来るし、自分がその立場に立ったら同じ事をするかもしれません。

そうは言っても裁判をされている人たちは、そんな言葉だけで納得できるとは思えません。

残念ながら裁判に勝ったところで子供は帰ってきません。

泣くしかないのです。

こういうとき仏教は本当に厳しいです。

 

※1

諸行無常

是生滅法

生滅滅已

寂滅為楽

  

生きていて欲しいと思う気持ちもなくならないと思います。

※2キサーゴータミーの例もあります。

死の縁、無量とは言え幼い子供達が今死を迎えるのはどうしても必然とは思えません。

納得できるはずがありません。

こんな時、阿弥陀様は貴方の後生を救うと言われても耳に届くとは思いませんが、

ただ、後生というものを多くの死を通して知らせて下さっているのは間違い有りません。

それは被害に遭った方たちだけでなく私も全く同じ立場なのです。

 

死んだらどうなるのか、何のために生きているのか、どう生きたら良いのか、苦しみから逃れたい。

この苦しみから逃れる方法はあるのか。

受け入れるしか無いのか。

救われたい、誰か助けてくれ。

分からない、でも、生きるしか無い、とにかく前を向いて生きるしか無い。

・・・そんな叫び声が聞こえます。

 

南無阿弥陀仏は響き渡っています。

 

今、救われなくていつ救われるのか。

今、救われなかったら後生はどうするのか。

放っておけない問題が大きく立ちはだかっているのです。

 

 

阿弥陀様は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を南無阿弥陀仏一つで救うと誓っていらっしゃいます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

※1涅槃経

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。

 弘法大師空海が作ったとされる「いろは歌」はこの偈を詠んだものであると言われている。

(wikidharmaより)

※2キサーゴータミーという母親がいました。
ようやくよちよち歩きができるようになったばかりの一人息子を失い、悲しみに打ちひしがれます。
彼女は、息子を生き返らせ、治す薬を求めて釈尊のもとを尋ねます。
釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言いいます。
町中の家々を尋ねたキサーゴータミーは、
「ああ、なんと恐ろしいこと。
私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたのだわ。
でもどうでしょう。
町中を歩いてみると、死者のほうが生きている人よりずっと多い。」
と死はどこの家にもあることに気づかされました。

 そこで釈尊が彼女に、

子供や家畜 財産に
気を奪われて とらわれる
人を死王は さらいゆく
眠りに沈む 村々を
大洪水が のむように

と詩をうたいました。
死が、生きる者の逃れられない定めであることを教えられたキサーゴータミーは、出家して生死輪廻の苦しみの世界を超えた、仏の悟りの世界を求めていきました。
こうして尼僧となった彼女に、釈尊

不死の境地を 見ることなしに
百年間も 生きるより
たとえ刹那の 生であれ
不死の境地を 見られれば
これより勝る ことはない

と詩をおくりました。

 

『ダンマパダ・アッタカター』パーリ語の文献(本願寺のホームページより)

梵天勧請(ぼんてんかんじょう)

お釈迦様はお悟りを開かれた後、しばらく悟りの境地を楽しまれました。

そして、この悟りの内容は迷いの世界にいる衆生にとても信じられるものではないと思われ、解脱(涅槃)に入ろうとされました。

私には全く自覚がありませんが、それほど私達に絶望されたのです。

別の言い方をすれば、お釈迦様が悟られた内容は「世の中の流れに逆らうもの」だから人々に伝えるのは困難であると判断されたと言われています。

 この「世の中の流れに逆らうもの」をお釈迦様が悟られたと聞くと、ああ、そうなんだと納得してしまいます。

仏教上の正しいことと言われるものの一つに、八正道があります。

しかし、これらのうち一つでも出来るものがあるかと言えば、私は何一つ出来るものかありません。

確かに普通に賢く能力がある人だったら、こんな私に教え説く気は出て来ないでしょう。

「こんな馬鹿に言っても分かるわけが無い」と思われたでしょう。

 

四十九日がその期限でした。

そこに梵天が現れお釈迦様に悟りの境地を説くよう請求されます。

(請求経や阿含経の中でも書かれているそうです。三度請われたと言われています。)

苦しみ悩む者を救って下さいと請求(しょうぐ)されたのです。

 

次元は違いますが御信心を頂いた人の中には、この法を伝えなければと燃える使命感を持つ方が見えます。

故近藤智文師、故嶋田久義師方はそういう方でした。

梯先生も加茂先生も皆そうです。

今も浄土真宗の御信心が本当にあり、阿弥陀様のお誓いが本当であることを叫んでいらっしゃる方が沢山います。

 

日本は宗教の自由が保障されていますが、世界はそうではありません。

宗教の自由を求めて戦争になります。

戦争は良くありませんが、この浄土真宗のみ教えを破壊するものが現れたらどうするでしょうか。

過去の大陸の歴史は、民族間の紛争で常に勝った方が負けた方を根絶やしにする戦いです。

このことはちょっと調べてみれば分かる事ですが、そういう歴史から目をふさがれた教育をずっと受けています。

中国でも文化大革命で沢山の僧侶が殺害されました。

今、この日本の平和はどうして守られているのでしょうか。

残念ながら隣国の人たちは私達日本人に対して怨みをもって今も子供達に教育して洗脳しています。

そのことに目を背けていて日本を守ることが出来るのか疑問に思うことがあります。

私はこの仏法を破壊する人が来たらどうするのか考えてしまいます。

前回のブログで石山戦争について触れました。

この戦争は仏法を守るための戦いでした。

自分の子供や孫や子孫が救われる教えに出遭うことが出来なくなるのは耐えられません。

お釈迦様ならどうされたか。

梵天はどう言葉をかけてくださるのか。

そんなことを考えると心がざわつきます。

平和な世の中が続いて欲しいのですが、残念ながら過去の歴史を見ると長続きしていません。

いますぐどうなることは無いでしょうが、近い将来何が起きるか分かりません。

それについての備えは本当は必要なのでしょう。

ある意味、今まさに戦争状態なのかもしれません。

経済戦争と言われる状態は、常態化しています。

 

 

真実は、この世の中は苦しみの世界なのです。

それでも仏法を伝えて行かなければならないとしたら大変な使命をお釈迦様は引き受けられたのでしょう。

そして、お釈迦様に続くお弟子方は命がけで法を伝えて下さいました。

そのお陰で今の私があります。

申し訳ないことです。

 

私は残念ながら自分さえ良ければいいと思っています。

この世の中をうまく渡って行ければそれで満足です。

でもどこからか「それで良いのか」という声が聞こえます。

耳をふさいでも聞こえてきます。

南無阿弥陀仏にそんな意味があるとは思いませんが、困ったものです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

・・・参考・・・

「困苦して我證得せる所も今また何ぞ説くべけん。
貪・瞋に悩まされたる人々は此法を悟ること易からず。
これ世流に逆らひ至微にして甚深・難見・微細なれば欲に著し黒闇に覆はれし者は見るを得ず。」


「世尊、願わくは法を説きたまへ
善逝、願わくは法を説きたまへ
有情にして塵垢少き者あり、若し法を聞かずばた退堕するも、聞かば法を悟り得べけん。」

 

「甘露の門は開かれたり
耳ある者は聞け、己信を棄てよ
梵天よ、人々を、女堯惑せんかと思ひて
微妙の正法を説かざりき」 

 

 

苦労して会得したものを、なぜ私が説かなければならないのか。
貪と瞋に支配された人々が、この法をよく悟ることは難しい。
これは「流れに逆らうもの」で、見がたく甚深であるものだから。
貪に支配され、暗闇に覆われた者には見ることができないのだ。

 

どうか教えを説いてください。
穢れの少ない者たちもおり、彼らは教えを聞かなければ堕落してしまうが、
教えを聞けば法を悟ることができるでしょう。

 

 梵天よ、私は不死, 涅槃の門を開くこととした。
耳を持つ者は聞け、私心を捨てよ。
説法では、皆の恐れを買わないよう注意深く言葉を選ぶので、
人々は高貴な言葉を得るであろう。

南伝大蔵経

原理主義

原理主義という言葉があります。

 

ファンダメンタリズム」と言い、もともとアメリカ合衆国の保守的プロテスタント派が1920年代に使用したキリスト教の神学用語です。

今日、「原理主義」という言葉はマスメディア等において広く流通しており、宗教学や社会科学の文脈においては、聖典を文字通りに受け取ろうとする態度や、世俗主義に反対する傾向などを特徴とする運動や思想を指す言葉として使われるようになっている。しかし厳密な定義があるわけではなく、学術的にも通俗的にも原理主義という語の適用範囲は定まっていない。原理主義という語は、「単一の価値観だけを信奉原理主義し、他者の価値観を排撃する」という意味で、嫌悪する意図で使用される例が多い。そのため、ごく一部の例外を除き当事者によって自称されることはない。(wikiより)

 

この言葉を聞くたびに浄土真宗はどうなのかと思うことがあります。

最近ではイスラム原理主義という使われ方が多いですが、オーム真理教や高森顕徹会はカルトと言われ少しニュアンスが異なります。

カルトは社会学者から出た言葉で異端という意味が強いようです。

個人的には原理主義もカルトも、他の価値観を一切排除し我々がすべて正しいと思っている点において共通するところがあると思います。

高森顕徹会においては、特に顕著だったのが「鳥居はくぐらない」というどうでも良いことを真剣に守っていたことです。

また、「神を拝まない」などイスラム原理主義に通ずるところがありました。

しかし、このこと自体はそんなに問題だとは思わないのですが、実際にやってみると非常に違和感があります。

社会一般通念上の作法などでこだわる必要が無いところを徹底的に排除する考え方はどうなのかと考えてしまいます。

もっとも問題なのは、破邪顕正の言葉の元、我々は選ばれた人たちであり、そうで無い人を教え導かなければならないと思い込んでいたことです。

某会の折伏も同じような意味です。

このことは、教義とずれるところがあり原理主義では無くカルト思想と言った方が良いのかもしれません。

 

かなり時代をさかのぼり安土桃山時代、信長により本願寺が攻撃され反旗を翻した顕如教如上人は徹底抗戦をします。

いわゆる石山戦争です。

顕如教如上人の徹底抗戦は正しかったのか間違いなのか判断は分かれます。

個人的には、徹底抗戦はいかがなものかと思います。

それによって多くの人の命を危険に曝すからです。

しかし、父顕如上人がそう判断されたのはどうしてなのか今となっては闇の中です。

当時の本願寺派は強大な権力を持っていました。

その力を盾に戦ったわけで、ある意味浄土真宗原理主義と言ってもいいのかもしれません。

その反動かどうか知りませんが太平洋戦争時には時の政府に荷担し戦争を鼓舞したため、戦後自己批判しています。

正義の名の元に沢山の方々が亡くなりました。

当時の人は、お釈迦様のみ教えをどう考えていたのか。

その時代、時代で異なる状況ですので一概にこうとは言えないとは思います。

生まれた時代が違ったら私はどうしているのか。

非難されたら江戸時代の薩摩藩の人たちのように隠れ念仏になったのか。

そんなことを考えると今は良い時代だなと思います。

親兄弟、親戚、友達に非難されようが私のお念仏を止める人はありません。

狂っているぐらいにしか思われていないのでしょう。

この世間をどう生きるかは本当は結構大事なことなのですが、原理主義に走ってしまうと本当に生きづらくなります。

社会的軋轢を生じさせてしまうからです。

それでも、「『正しいことは正しい』と思っている」のですから大変です。

本当に何が正しいのか判断は難しいと思うのですが。

 

最近の本願寺は、法をありがたがり、機の詮索はあまりしなくなりました。もともとそうだったのかもしれません。

本来、二種深信であり、自他力廃立ですので、我が身の機を説くことも大事だと思うのです。

原理主義とは違うでしょうが、「正しい法」を伝えていくのは大変なのかもしれません。

高森顕徹会は、体験至上主義でご信心は体験が必ず必要ということにこだわっていました。

そのせいでネットの中で体験が必要ではないかと言うと徹底的に叩かれます。

体験はある人も無い人もあります。

そこにこだわることの方が本当は問題なのです。

しかし、三業惑乱からでしょうか、本願寺では体験はあまり言いません。

そのせいで無帰命安心が増えたとも言えます。

 

法は変わりないのですが、私の生き方は社会に迎合するところと、譲れないところがあります。

時代の価値観に流されながら泳いで行くしかないのかなと思ってしまいますが、一方で拘りたい所はあります。

世渡りは上手な方が良いのか、どうなのか、今回のコロナ騒ぎも含めいろんなことが有るたびに考えてしまいます。

 

仏教が分かった、浄土真宗が分かった、阿弥陀様しかない、皆を教化するぞ、俺は善知識だ、菩薩だとなってしまうと本当の浄土真宗のご信心とどんどん遠くなっていくのだろうなと感じます。

また、偏った原理主義に走ると我がどんどん強くなり結局仏教からも、本当のご信心からも同じように遠くなってしまうと思います。

そういう観点からもやはり、極難信※の法と思わざるを得ません。

いずれにしても、南無阿弥陀仏一つを守っていくのは大変なことだと思います。

 

南無阿弥陀仏は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を救うと響き渡っています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※参考・・・・ 

浄土文類聚鈔
 ここをもつて「経」(大経・下)にのたまはく、「もしこの経を聞きて、信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎたる難なし」と。

また「一切世間極難信法」と説きたまへり。

 

称讃浄土仏摂受経(阿弥陀経の異訳)
又舎利子、此の雑染堪忍世界の五濁悪時に於て、若し浄信有る諸の善男子或は善女人、是の如きの一切世間極難信の法を説きたまふを聞きて、能く信解を生じ、受持し演説して、教の如く修行せば、当に知るべし、是の人は甚だ希有なりと為す。

 

 

 

自分の死は常に遠い

新型コロナが原因で私の回りの人で病気を異常に怖れてほとんど外出しない人もいます。
病気になって酷くなって死んでしまうかもと思っているのでしょう。
緊急事態宣言が出る前は町中に普通に人がいたのですが、再度の宣言により今はやはり少なくなりました。
宣言と関係ない処でも子供から大人まで皆マスクをしています。
マスコミの煽りがすごいのか同調圧力がかかっています。
自粛警察などと言う造語を作ってマスコミは更に煽っています。
さも正義の味方のようなふりをして弱いものいじめを楽しんでいるとしか思えません。
そんな暇があるならウイルスはどんどん変異しているのだから中国を始めとする外国人の入国管理をしっかりすべきだと思うのです。
(記事を書いた時点ではビジネストラックを止めていませんでしたが、14日からようやく止めました)
又、65歳以上(訂正:80歳以上です。80歳以上になると急激にコロナの死亡率が上がるそうです。また、80歳以上の人も結構な数の人か外を出歩いています。個人的には後期高齢者と言われる75歳以上かなと思うのですが。)の人の外出を出来るだけ控えることが大事だと思います。
まあ、個人的感想ですが。

こんな状況を見るにつけ思うのは、自分は何とか死の恐怖から逃れて助かろうとしている姿です。
当たり前ですが死からは逃れられないのですが、少しでも遠くに置いておきたい心理がハッキリと働いています。
眼には見えない心理ですが間違いないのです。
ここは本当にハッキリしていることです。
ご信心がわからないと言っている人でもこの事はハッキリしているのではないでしょうか。
では、この心理はどこから来るのでしょうか。

生存欲という言い方があります。
生きたいと思う気持ちです。
その元の一番は食欲と言われています。
当たり前と言えば当たり前なのですが改めて言われると「ふーん」と思ってしまいます。
確かに食欲は子供から大人まで死ぬまであります。
人間だけでなく動物の世界はこれが大きな目的になっています。
戦争では飢餓が最大の敵です。
腹が減っては戦は出来ぬです。

人は死ぬが死ぬまであらゆる命を食い続けます。
恐ろしいことです。
と言うことは死にたくない、絶対死なないぞとしか思えないのです。
そんなことはないと思うなら一度絶食してみれば分かります。
私は一日ももちませんでした。
そうやって自分の命をつないで遠くへ遠くへ死を押しやっているのです。
いつか必ず来るとは頭で分かっていても、心からそうは思えない自分がいるのがハッキリと分かります。

やっかいな者です。
これが凡夫という者の姿です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「一念多念文意」
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんなものを救う教えがあるとは本当に希有なことです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

厳粛な事実

新年を迎え、今年も命のある限りよろしくお願いします。

さて、この世の中の事実とは何か。
私のこの濁った二つの眼で見ているものが本当の事実なのか。
二つの眼は事実を正確に把握することが出来るのか。

一体事実とは何か。
もともとはラテン語からで、「神がなしたこと」という意味らしいです。
想像出来ない突拍子のないことも、起きている理不尽なことも神が成したことなのかと思われたのかもしれません。
辞書には、実際に起こった事柄、現実に存在する事柄と書かれています。
では、今現実に起こっていることを考えてみます。

まず、私は呼吸をしています。
物を食べ、活動し、排泄して、寝ています。
いわゆる生存活動を行っています。
人とコミュニケーションを行っていますが、中には人以外とコミュニケーションを行っている人もいます。
そして、思考しています。
世界中ではあらゆる事が同時に進行しています。
地球だけでなく宇宙全体であらゆる事象が同時進行しています。
私の知らないことが、知らないところで無数に起きているのも事実です。
生きている間はこのような事象に影響され続けます。

では仏教的に考えてみます。
「空」だとか考えると訳が分からなくなるので実際にあったことは、お釈迦様を始めとして七高僧方が阿弥陀様という仏様の実在と救いの言葉を語っています。
そのお言葉を過去から現在まで引き継がれています。
そして、日本においては親鸞聖人始め高僧方や多くの妙好人南無阿弥陀仏を讃えておりその記録が残っています。

ところがこの私は南無阿弥陀仏とご縁があるにも関わらず、命ある限り阿弥陀様を讃談する覚悟があるかと言われると自信がありません。
また、私に意思があるのかどうか分かりませんが現実には今、南無阿弥陀仏と称えされられます。
この事実は否定出来ません。
今、落ちるに間違いないと「思っている私」に南無阿弥陀仏が届いて居ることだけは厳粛な事実です。



・・・摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ・・・



妄想の世界にいるのかもしれません。
お餅を食べながら新年を味わっています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

クリスマス

もうすぐクリスマスです。

真宗門徒としてクリスマスをどう過ごすのか悶々とします。

恋人や子供がいる場合、普通の家庭行事として皆で楽しくパーティを開くことは問題があるのでしょうか。

原理主義的に言えばキリスト教の信者でもないのですから、クリスマスパーティなどもってのほかです。

しかしです。

ここで大事なのは宗教的行事としてのクリスマスと単に皆と楽しむためのクリスマスと同じかどうかです。

既に世間一般に広がっているケーキ屋さんなどが主体の商業ベースに乗らされた行事として参加することは悪いことなのか。

皆で楽しくお食事をし、プレゼントを交換するのはなんとなくうきうきしますし、楽しいのです。

町中では軽快なクリスマスソングが響き渡っています。

テレビもクリスマスを煽りますので、彼女や彼氏がいない人は寂しい思いをします。

正直一人で過ごすクリスマスは辛いことかもしれません。

やはりクリスマスは誰かと楽しく過ごしたいと思うのは皆と同じことが出来ないことに対する同調圧力がかかっているのでしょう。

これは本当にやっかいです。

ここに無宗教と日本人が言われる根拠があります。

伝統文化の伝承に対してあまり執着が無いのです。

実際私の住む町でもいくつかの伝統行事が行われなくなっています。

だいたい過去の天皇が信仰してきた仏教を明治時代に捨ててしまったのですから。

それをなんとも思わない国民性はいかなるものか、考え込んでしまいます。

 

ヨーロッパやアメリカを中心としたキリスト教の国では、クリスマス前後はお休みですので家族で過ごすことを基本としています。

また、教会で賛美歌を歌ったりしています。

とにかく日本のお正月のように家族で過ごす大切な時間と言えるでしょう。

 

日本ではクリスマスはお休みでもありませんし、主に若者や小さい子供のいる家族のための行事と言えるかもしれません。

だからそんなに気にする必要は無いと思うのですが、やはりこういうところから文化や風習が変わっていくのだなと思います。

なぜなら100年前にはこんな行事はほとんどなかったのですから。

「メリークリスマス」と皆で言いながら乾杯をすることは本当に気にしなくても良いのか、いつもこの時期になると悶々とします。

そう言いながら私はケーキを食べる日として毎年行っています。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

「貴方は地獄行きだ」と言うと「機責め」と言われることについて

言葉と言うものは本当に難しいものです。
今回は、機責めについて考えてみたいと思います。

ご存じのように機とは私たち人間のことを言います。
心と体を含めた私をひっくるめて機と言います。
私達は外からの影響でいかようにも動く機械のような者なので「機」と言います。
人は生まれ育った世界によって考え方が大きく違います。
簡単に言えば世界中色々な国で色々な価値判断による文化があり、その国の影響を受けて皆さん生きています。
機械のようにその国の政治、文化や歴史の力に頭も身体も支配されている人がほとんどですね。
当たり前のことですが仏教を信じていない人に仏教を理解させるには相当勉強してもらわなければなりません。
要するに外からの知識や経験を与える必要があると言うことです。
価値観の異なる人と会話をすると刺激もありますが相当疲れます。
まったく人間とはやっかいなものです。

その機を責めると言うのは何に基づいて責めるのかです。
私を責める基準です。
まず、機と言われる私は心と体で悪を作っているから死んでも良いところには行かないことを指して地獄行きだと仏教では言います。
この悪についてもいろいろ有ります。
一般的には十悪、五逆でしょうか。
今回はこの説明は割愛します。
次に責めるとは、自分の行為について、責任を取ることを放棄していることを間違いではないかと問うことです。
それを第三者あるいは信後のひとから未信の人に対して言われることです。

機責めについて大原性實の眞宗異義異安心の研究によると以下のとおりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて歡喜を強調する異義者は、その歓喜の信一念に到達する過程として、死の恐怖や深刻な罪惡觀を説く。
そして罪惡観に徹底することがなければ、入信は不可能であると強調する。
そこでこの罪惡觀を徹底せしむる爲には、一室に入れて沈思冥想せしめ、罪の告白懺悔をせまる等、中には神經衰弱に陥り、或はたまに發狂する者さえ生ずる者もあるという。
かくて機の罪惡を衝き、その徹底をせまり、或は地獄の猛火が足下に炎々として燃えつゝあるを凝視すべしとか、或はその地獄の猛火中に如來が泣き叫びつゝ、呼び給う御聲を聞くべし等と教えるという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで言われているのは、ご信心を頂くためには地獄行きを自覚する必要があるということです。
何を自覚するのかと言えば、深刻な罪悪感や無常感のことです。
上記文章では、感を観と同一視していますが本来は使い方が違いますのでこの文章の観を感として読みます。
ここで問題なのが罪悪感や無常感を強調することです。
深く罪悪や無常を感じなければ救われないということが問題であるということです。
仏教的には、「感」でなく「観」でなければなりません。
感じることでは無く、正しく見る観です。
ここが大事なところだと思います。

罪悪も無常も仏様の言われるように感じない自分を観ることが本当は一番大事なのです。

蓮如上人は御一代記聞き書きに以下の通り言われています。

「わが心にまかせずして心を責めよ。仏法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。」

この御文も誤解を招きやすいと思います。
自分の心を当てにするなということでは間違い有りませんが、懈怠な心に任せず頑張れとも読めます。

歎異抄の以下の御文が機責めの根拠にもなっています。

いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」

味わいとしてはありますが、地獄と言われても分かりません。
ただ、いずれの行(修行)も出来ない、自分の力で仏の悟りを開くことは絶対に無理だということは言えます。

仏教的には大無量寿経の下巻、五悪段の後に以下のようにあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏、弥勒に告げたまはく、「われなんぢらに語りしごとく、この世の五悪、勤苦かくのごとし。
五痛・五焼、展転してあひ生ず。
ただ衆悪をなして善本を修せざれば、みなことごとく自然にもろもろの悪趣に入る。
あるいはそれ今世にまづ殃病を被りて、死を求むるに得ず。
生を求むるに得ず。
罪悪の招くところ衆に示してこれを見せしむ。
身死して行に随うて三悪道に入りて、苦毒無量にしてみづからあひ燋然す。
その久しくして後に至りて〔再び人間界に生じ〕ともに怨結をなし、小微より起りてつひに大悪となる。
みな財色に貪着して施恵することあたはざるによりてなり。
痴欲に迫められて心に随うて思想す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
簡単に言えば悪しか作っていないから、それにしたがって三悪道(悪趣=地獄、餓鬼、畜生の三界)に行くことです。

だから「お前は地獄行きだ」と言われると人によって色々な受け止め方になります。
考えられる代表的なパターンで問題化する場合として以下のように思います。

1 私は地獄に行くようなことはしていない。
 原因:地獄行きの業というものが何か分かっていない。
 結果:教えを聞いても、なかなか地獄行きの意味を理解出来ない。

2 地獄行きにならないと救われないのか。
 原因:地獄行きになれれば救われると手段化する。
 結果:罪悪を見つめたりする。過剰に思い込むが地獄行きの自分にならないことに悩む。

3 どうしよう、私は地獄行きだ。
 原因:過剰に罪悪を感じてしまう。
 結果:自分は生きている価値がないと思い込み精神的に病むこともある。

言い方もあると思います。
そもそも人として駄目であるとか、生きている価値がないなどと人格を否定することは仏教のみ教えとは異なります。
人や生き物を傷つけたことや犯した罪の告白をさせ、そのことを責めるのも間違っています。

我が身の姿は、お聖教に基づいて話すべきです。
それでも聞き手は色々な受け止め方をします。
結局その人の理解に合わせて話さなければなりませんので多くの人を対象に話をするときは、やはりお聖教を元に話すのが無難なのでしょう。
さらに浄土真宗で言う本当の悪は阿弥陀様の御本願を疑うことです。
ですから仏教的に言われている悪(大無量寿経下巻の五悪段にある悪)とは異なります。

浄土真宗では「ご示談」という一対一のカウンセリング的なことが伝統的に行われています。
最近はあまり聞きませんがちゃんとしたお寺では「ご示談」をしていただけます。

どうしても御信心が分からない人は「ご示談」を受けられるのも一つでしょう。

いずれにしても機責めの判断も人格否定や罪の告白等を強要するのでなく、仏教で言われている我々の姿を説くのであれば問題がないと思います。
ただ、分からないことを何度も何度も言われ続けることは、言われる方にとっては私を責めているように感じることもあるでしょう。
たとえば「貴方は迷っている、そのことを自覚すべきだ」と何度も何度も繰り返し言うことはどうなのかと思います。
ここで問題なのは相手を型にはめようとすることです。
これは強要になりますので今風の機責めと言われるかもしれません。
その場合、当然相手の理解度を判断することは説く方が気を付けるべき事だと思います。
要するに相手を思いやって話すことが重要だと思うのです。
阿弥陀様はどんなことがあろうと私を待って待って待ち続けていただいたのですから。



南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏