とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

南無阿弥陀仏のお徳は分かるものではない

どうも最近の世の中はお念仏(阿弥陀様)のお徳についてあまり評価していないような気がしてなりません。

称名念仏の軽視や大行(阿弥陀様の行あるいは諸仏の行である称名)も働きを限定的に考えているような気がします。

お念仏の軽視については、高森顕徹会だけでなく世間一般的にも意味も調べずにただの呪文ぐらいにしか思っていない人がほとんどでしょう。

お釈迦様を始め七高僧方が言葉を尽くして阿弥陀様をそして称名念仏を讃談していらっしゃる内容は体験のない私には理解出来ないことが沢山あることでしょう。

分からないことは大したことが無いと勝手に判断するのは凡夫の性でしょうが、その感覚がそのまま時代と共に阿弥陀様を讃談しなくなる原因かもしれません。

 

結局、宗教的体験者が少なくなっていると思います。

いわゆる妙好人と呼ばれる方だけでなく僧籍にある人たちもあまり体験を語らなくなっていると思います。

宗教的体験者として七高僧方のお言葉をそのまま受け止められている方がいないのでしょう。

現実に親鸞聖人のお言葉でさえ矮小化している場合があります。

たとえば「地獄一定住処ぞかし」についてどれだけ深い認識から出ているのか、それとも単なる大げさな表現ととらえているのか議論がいろいろあるようです。

私が思うに我が身の罪深きことを本当に嘆き悲しみ己の行く末を案じたときとても救われるような者ではないと懺悔の涙されたところから出てくるお言葉であると受け止めています。

ところがそうでないと言う方も中にはいらっしゃるのですからあきれてしまいます。

同じ阿弥陀様から頂いた御信心についても人それぞれの味わいがありますが、妙好人の味わいと同じ味わいが出来ないからと言って同じ御信心ではないとは言えませんが、御信心を頂いたと思っているなら妙好人と同じ味わいが出来ないことに真宗門徒として恥ずかしいとか尊敬の念があるべきと思うのです。

それについても分からないからと言って矮小化することは本当に残念です。

 

称名念仏についても同じです。

比叡山では南無阿弥陀仏の称名は行の一つとして現在も行われています。

常行堂で行われているのがそれです。

悟りの為の行の大事な一つなのです。

ところが最近は真宗門徒でさえ余りお念仏を称えなくなりました。

本山ではさすがに良く聞こえていますが末寺のお寺ではどうでしょうか。

また、ネットの中でもお念仏を教学的な扱いをして行として敬っている感じがしない場合があります。

信前の称名の軽視がその典型です。

 

上記にも書きましたが高森顕徹会だけでなく教学的な観点か真宗の信心において信を重視する余り称名をどうしても軽視しているように感じるのは私だけでしょうか。

お念仏は最強の説法でもあり聞法でもあると私は思っています。

臨終間際の人に何を勧めるのか、お念仏しかありません。

「どうか称えてくれ、必ずたすける」このお心が「南無阿弥陀仏」です。

阿弥陀様の叫び声が南無阿弥陀仏になられているのです。

大行についても信前のお念仏は大行ではないと理由のないいわれから軽視するひとも多くいます。

これについては私の中で自力、他力があるだけで、私の口から出た時点で南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏であってそこに自力、他力の区別は意味が無くなります。

また、親鸞聖人は自力のお念仏は嫌われていますが、称名は大行とおっしゃっています。

これについては行巻を読めば一目瞭然です。

南無阿弥陀仏を判断する能力が本当にあるのか聞きたくなります。

南無阿弥陀仏の何を知っているのでしょうか。

 

地球の歴史、もっと言えば宇宙の時間軸のなかで、今、南無阿弥陀仏と人類が称えている人がどれだけいると思うのか。

そして数万年後には人類は滅亡し、南無阿弥陀仏を称える人はいなくなっているでしょう。

経典に依れば人類は退化していくと書かれています。

地球の生滅と共に一旦は滅亡するのか、一度滅亡した後また人類が発生してくるのかもしれませんが、次に人類が発生し進化して佛の出現と共に南無阿弥陀仏衆生の口から出てくるのはどれだけの時間が経過してからになるでしょうか。

それこそ弥勒菩薩は56億7千万年後です。

この地球が生まれ人類が生まれお釈迦様がお生まれになりようやく今お念仏が称えられるようになりましたが、一体どれだけの時間がかかったことでしょう。

そして、その時代に運良く生まれている私はなんと希有なことでしょう。

南無阿弥陀仏と人類が称えられる時間はほんの一瞬であり、その一瞬に生きている人類のほんの、本当にほんの一部が称えているだけなのです。

今、極難信の法に遇い称名出来る人は大いに幸せでしょう。

そうでなくてもどこからか流れてくる音として南無阿弥陀仏を聞く人もどれだけの人が聞くことが出来ていることか。

阿弥陀様のお気持ちに立ったらどんな形であれ衆生南無阿弥陀仏を届けたい一心しかありません。

そう思うに付け称名念仏の軽視は本当に残念です。

信心正因、称名報恩

これについてはその通りでしょうが、だからお念仏を軽視する理由にはなりません。

なぜなら南無阿弥陀仏によって私は救われていくのです。

三悪道に落ちるしか無い、そんな業しか作っていない私が南無阿弥陀仏によって救われていくのです。

信前、信後関係なく称えるべきです。

称えたものを私が聞くのです。

聞即信

南無阿弥陀仏を聞くのも聞です。

私はそう思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追加です。

当たり前のことですが自力念仏で信は獲られません。

また、大行の解釈と信心を同時に考えると石泉や空華などになってしまうと思います。

その例が自力の称念は大行で無いという判断です。

私は衆生の口から出たお念仏は、お念仏として衆生の毒に染まらない大行としての働きがあると見ています。

 

・・・参考・・・

御文章 五帖目十三通

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。

されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
 そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。

しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。

それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。

されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。

このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。

されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。

かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。

自分の心の壁を乗り越える

宗教をやっていて思うのは、現代はあまりに偏見に満ちているということです。

カルト宗教と呼ばれるものだけでなく既存の宗教についても無批判に受け入れ信じている姿は愚か者に見えるのでしょう。

宗教に頼っている人は弱い人であり、また、愚か者という印象が否定出来ません。

過去に沢山の人と出会い別れて来ました。

私のことを理解してもらおうとしたこともありましたが、最近は半ば諦めています。

縁あれば話そうと思いますが積極的にこちらから宗教について話すことはありません。

そういう中でも縁あって話した人も結局疑いの眼でこちらを見てそれで終わってしまう人がいます。

残念だなと思う反面、心の壁は自分が作っているのだということがわかります。

こちらはニュートラルに接しようとするのですが、相手が騙されるものかと構えています。

それが本当に良く分かるのです。

「そうだよなー」と感じてしまいます。

「縁無き衆生は度し難き」と言われますが本当にそう思います。

自分に置き換えて見ればその通りなのですから。

 

偏見に凝り固まって頭ががんじがらめになっているのです。

大したことのない能力しかないのに自惚れて、また、臆病になって自分の殻に閉じ籠っているのです。

本当は誰かに頼りたいのに誰も信用していない哀れな存在が私の姿です。

常に何かに脅えてビクビクしている小さいものなのです。

そんなものをお天道さんの元へ引きずり出すのは大変なことです。

 

結局自分の問題なのだと思うのですが、とてつもない無力感を感じます。

 

翻って、阿弥陀様はそんな私を哀れんでご本願をお建てくださいました。

そのお陰でまず仏法に出遭うことが出来ました。

これが最初の壁です。

ここを乗り越えさせていただく事がどれだけ大変なのか本当にしみじみ思います。

それだけ迷いの深い世界に沈んでいると言うことです。

そして、阿弥陀様のご本願とのご縁により自分の心の壁を乗り越えさせて頂きました。

この不思議は不思議の中の不思議なのですが越えてみないと分からない世界です。

  いつつの不思議をとくなかに
  仏法不思議にしくぞなき
  仏法不思議といふことは
  弥陀の弘誓になづけたり
  親鸞聖人 高僧和讃

私が何か世界の全てを知っているわけではありません。

ただ、自分の心の壁に振り回されているのは今でも同じですが、少なくとも南無阿弥陀仏については越えさせて頂いたと思うのです。

南無阿弥陀仏による自由で平等な世界が本当にあるなんて思ってもみませんでした。

世間虚仮 唯仏是真

とても信じられる世界ではありません。

自力で分かる世界では無いのです。

すべて阿弥陀様から賜る世界なのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

新年度

失礼しました。
書きかけの記事が何故かアップされました。
ご容赦下さい。

さて、仕事や学校の関係か日本の制度か4月は新しい年度の始まりとして気分が一心されます。
残念なことに武漢コロナも相変わらず消えることなく、今後はこの忌まわしいウィルスとの共存をしていかなければなりません。
そうは言っても春は桜が咲きほこり空気も温かく散歩などはいい気分になります。
人生は苦なりと言われますが、安らぐ一時は必要なものだと思います。
法話に関して言えばウイルス感染に注意しながら行えば特に問題が無いことが判りました。
これからはウイルス感染に注意しつつ開催していくことでしょう。

新年度の真新しい気分とは裏腹に世の中には常に無常の嵐が吹き荒れています。
それは私の周りでも同じです。
また、私自身にも起こっています。
そして、最後には我が身に必ず無常の現実が訪れてきます。
だからこそ気分新たに仏法に向かおうと思うのですが、根がずぼらですのでいつものように左の耳から右の耳へとすべてが流れていきます。(右から左が普通なのでしょうが逆は無いのでしょうか?つい考えてしまいます。)
それだけ自分の周りは何事もなく今は平穏なのでしょう。
後生の解決よりも今年一年の予定の方が大事なのですから。

今生の生き方は大事です。
生活が苦しいと仏法どころではありません。
また、仕事が楽しすぎたり忙しすぎるとまた聞くことが難しくなります。
あらゆるご縁が整って初めて聞かせていただくことが出来るのです。
そのご縁もすべて阿弥陀様がご用意されたものと私は頂いています。

そんなことは無い。
私は自分の意思で聞いていると思われるならそれはそれで良いでしょう。
しかし、そんな気持ちが本当にあるのかお聖経には逆のことが書かれています。
※参照

いずれにしてもたまたま阿弥陀様とのご縁を頂いたのです。
ずぼらな私もせめてお念仏だけは忘れずに称えさせていただくようにしたいと思います。
とりあえず書いてはみましたが、しばらくするとみな忘れて煩悩のなせるままに生きるのだろうな。

残念、斬り!!

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏



一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。
一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。
観無量寿経

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
浄土和讃

問ひていはく、なんがゆゑぞ阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。
答へていはく、『弥陀経』および『観経』にのたまはく、「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし」
ただ念仏の衆生を観(み)そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。
(往生礼讃)

摂取
如来の光明の中に摂め取られること。
高田専修寺蔵国宝本の左訓には「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる
(オサメトル ヒトタヒトリテナカクステヌナリ セフハモノヽニクルヲオワエトルナリ セフハオサメトル シユハムカエトル)」
(註釈版571頁)

東日本大震災

2011年3月11日

この日は本当に大変な日でした。

大きな地震に加え津波、その後、福島第一原子力発電所の爆発事故による放射能汚染被害が発生しました。

この地震津波により多くの命がなくなりました。

中でも大川小学校の児童と先生のほとんどが津波にのみ込まれて亡くなったことは本当に心苦しく思います。

先生の対応が良かったのか悪かったのかいろいろ言われています。

裁判では県と市が住民の訴訟に対して最高裁まで戦いました。

結果、住民が勝ちましたが、個人的には何か空しさを感じてしまいます。

裁判記録を読むと「どうして」と思うことが沢山有ります。

しかしながら結果としてかわいい子供達が先生と一緒に亡くなりました。

親の立場に立てば本当に残念でならない気持ちで一杯でしょう。

数人の子供と先生一人が生き延びましたが、この先生も生き地獄だなと思います。

 

沢山の知り合いが支援のため東北に行きました。

放射線線量計を見せてくれました。

仕事だけで無くボランティアの人も沢山いました。

残念ながら私は行く機会がありませんでした。

 

仏教的な言葉で言えば、宿縁、宿業と言えるでしょうが、その言葉で片付けることが出来ません。

いろいろ調べてみると本当に残念な気持ちになります。

子供達はどうして死ななければならなかったのか真実が知りたいと思われるやるせない気持ちは心が痛みます。

しかし、その姿は訴える方も反論する方も共に仏教的に言えば煩悩具足の凡夫の姿です。

非難しているように思われるかもしれませんが、どちらの立場も理解出来るし、自分がその立場に立ったら同じ事をするかもしれません。

そうは言っても裁判をされている人たちは、そんな言葉だけで納得できるとは思えません。

残念ながら裁判に勝ったところで子供は帰ってきません。

泣くしかないのです。

こういうとき仏教は本当に厳しいです。

 

※1

諸行無常

是生滅法

生滅滅已

寂滅為楽

  

生きていて欲しいと思う気持ちもなくならないと思います。

※2キサーゴータミーの例もあります。

死の縁、無量とは言え幼い子供達が今死を迎えるのはどうしても必然とは思えません。

納得できるはずがありません。

こんな時、阿弥陀様は貴方の後生を救うと言われても耳に届くとは思いませんが、

ただ、後生というものを多くの死を通して知らせて下さっているのは間違い有りません。

それは被害に遭った方たちだけでなく私も全く同じ立場なのです。

 

死んだらどうなるのか、何のために生きているのか、どう生きたら良いのか、苦しみから逃れたい。

この苦しみから逃れる方法はあるのか。

受け入れるしか無いのか。

救われたい、誰か助けてくれ。

分からない、でも、生きるしか無い、とにかく前を向いて生きるしか無い。

・・・そんな叫び声が聞こえます。

 

南無阿弥陀仏は響き渡っています。

 

今、救われなくていつ救われるのか。

今、救われなかったら後生はどうするのか。

放っておけない問題が大きく立ちはだかっているのです。

 

 

阿弥陀様は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を南無阿弥陀仏一つで救うと誓っていらっしゃいます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

※1涅槃経

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。

 弘法大師空海が作ったとされる「いろは歌」はこの偈を詠んだものであると言われている。

(wikidharmaより)

※2キサーゴータミーという母親がいました。
ようやくよちよち歩きができるようになったばかりの一人息子を失い、悲しみに打ちひしがれます。
彼女は、息子を生き返らせ、治す薬を求めて釈尊のもとを尋ねます。
釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言いいます。
町中の家々を尋ねたキサーゴータミーは、
「ああ、なんと恐ろしいこと。
私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたのだわ。
でもどうでしょう。
町中を歩いてみると、死者のほうが生きている人よりずっと多い。」
と死はどこの家にもあることに気づかされました。

 そこで釈尊が彼女に、

子供や家畜 財産に
気を奪われて とらわれる
人を死王は さらいゆく
眠りに沈む 村々を
大洪水が のむように

と詩をうたいました。
死が、生きる者の逃れられない定めであることを教えられたキサーゴータミーは、出家して生死輪廻の苦しみの世界を超えた、仏の悟りの世界を求めていきました。
こうして尼僧となった彼女に、釈尊

不死の境地を 見ることなしに
百年間も 生きるより
たとえ刹那の 生であれ
不死の境地を 見られれば
これより勝る ことはない

と詩をおくりました。

 

『ダンマパダ・アッタカター』パーリ語の文献(本願寺のホームページより)

梵天勧請(ぼんてんかんじょう)

お釈迦様はお悟りを開かれた後、しばらく悟りの境地を楽しまれました。

そして、この悟りの内容は迷いの世界にいる衆生にとても信じられるものではないと思われ、解脱(涅槃)に入ろうとされました。

私には全く自覚がありませんが、それほど私達に絶望されたのです。

別の言い方をすれば、お釈迦様が悟られた内容は「世の中の流れに逆らうもの」だから人々に伝えるのは困難であると判断されたと言われています。

 この「世の中の流れに逆らうもの」をお釈迦様が悟られたと聞くと、ああ、そうなんだと納得してしまいます。

仏教上の正しいことと言われるものの一つに、八正道があります。

しかし、これらのうち一つでも出来るものがあるかと言えば、私は何一つ出来るものかありません。

確かに普通に賢く能力がある人だったら、こんな私に教え説く気は出て来ないでしょう。

「こんな馬鹿に言っても分かるわけが無い」と思われたでしょう。

 

四十九日がその期限でした。

そこに梵天が現れお釈迦様に悟りの境地を説くよう請求されます。

(請求経や阿含経の中でも書かれているそうです。三度請われたと言われています。)

苦しみ悩む者を救って下さいと請求(しょうぐ)されたのです。

 

次元は違いますが御信心を頂いた人の中には、この法を伝えなければと燃える使命感を持つ方が見えます。

故近藤智文師、故嶋田久義師方はそういう方でした。

梯先生も加茂先生も皆そうです。

今も浄土真宗の御信心が本当にあり、阿弥陀様のお誓いが本当であることを叫んでいらっしゃる方が沢山います。

 

日本は宗教の自由が保障されていますが、世界はそうではありません。

宗教の自由を求めて戦争になります。

戦争は良くありませんが、この浄土真宗のみ教えを破壊するものが現れたらどうするでしょうか。

過去の大陸の歴史は、民族間の紛争で常に勝った方が負けた方を根絶やしにする戦いです。

このことはちょっと調べてみれば分かる事ですが、そういう歴史から目をふさがれた教育をずっと受けています。

中国でも文化大革命で沢山の僧侶が殺害されました。

今、この日本の平和はどうして守られているのでしょうか。

残念ながら隣国の人たちは私達日本人に対して怨みをもって今も子供達に教育して洗脳しています。

そのことに目を背けていて日本を守ることが出来るのか疑問に思うことがあります。

私はこの仏法を破壊する人が来たらどうするのか考えてしまいます。

前回のブログで石山戦争について触れました。

この戦争は仏法を守るための戦いでした。

自分の子供や孫や子孫が救われる教えに出遭うことが出来なくなるのは耐えられません。

お釈迦様ならどうされたか。

梵天はどう言葉をかけてくださるのか。

そんなことを考えると心がざわつきます。

平和な世の中が続いて欲しいのですが、残念ながら過去の歴史を見ると長続きしていません。

いますぐどうなることは無いでしょうが、近い将来何が起きるか分かりません。

それについての備えは本当は必要なのでしょう。

ある意味、今まさに戦争状態なのかもしれません。

経済戦争と言われる状態は、常態化しています。

 

 

真実は、この世の中は苦しみの世界なのです。

それでも仏法を伝えて行かなければならないとしたら大変な使命をお釈迦様は引き受けられたのでしょう。

そして、お釈迦様に続くお弟子方は命がけで法を伝えて下さいました。

そのお陰で今の私があります。

申し訳ないことです。

 

私は残念ながら自分さえ良ければいいと思っています。

この世の中をうまく渡って行ければそれで満足です。

でもどこからか「それで良いのか」という声が聞こえます。

耳をふさいでも聞こえてきます。

南無阿弥陀仏にそんな意味があるとは思いませんが、困ったものです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

・・・参考・・・

「困苦して我證得せる所も今また何ぞ説くべけん。
貪・瞋に悩まされたる人々は此法を悟ること易からず。
これ世流に逆らひ至微にして甚深・難見・微細なれば欲に著し黒闇に覆はれし者は見るを得ず。」


「世尊、願わくは法を説きたまへ
善逝、願わくは法を説きたまへ
有情にして塵垢少き者あり、若し法を聞かずばた退堕するも、聞かば法を悟り得べけん。」

 

「甘露の門は開かれたり
耳ある者は聞け、己信を棄てよ
梵天よ、人々を、女堯惑せんかと思ひて
微妙の正法を説かざりき」 

 

 

苦労して会得したものを、なぜ私が説かなければならないのか。
貪と瞋に支配された人々が、この法をよく悟ることは難しい。
これは「流れに逆らうもの」で、見がたく甚深であるものだから。
貪に支配され、暗闇に覆われた者には見ることができないのだ。

 

どうか教えを説いてください。
穢れの少ない者たちもおり、彼らは教えを聞かなければ堕落してしまうが、
教えを聞けば法を悟ることができるでしょう。

 

 梵天よ、私は不死, 涅槃の門を開くこととした。
耳を持つ者は聞け、私心を捨てよ。
説法では、皆の恐れを買わないよう注意深く言葉を選ぶので、
人々は高貴な言葉を得るであろう。

南伝大蔵経

原理主義

原理主義という言葉があります。

 

ファンダメンタリズム」と言い、もともとアメリカ合衆国の保守的プロテスタント派が1920年代に使用したキリスト教の神学用語です。

今日、「原理主義」という言葉はマスメディア等において広く流通しており、宗教学や社会科学の文脈においては、聖典を文字通りに受け取ろうとする態度や、世俗主義に反対する傾向などを特徴とする運動や思想を指す言葉として使われるようになっている。しかし厳密な定義があるわけではなく、学術的にも通俗的にも原理主義という語の適用範囲は定まっていない。原理主義という語は、「単一の価値観だけを信奉原理主義し、他者の価値観を排撃する」という意味で、嫌悪する意図で使用される例が多い。そのため、ごく一部の例外を除き当事者によって自称されることはない。(wikiより)

 

この言葉を聞くたびに浄土真宗はどうなのかと思うことがあります。

最近ではイスラム原理主義という使われ方が多いですが、オーム真理教や高森顕徹会はカルトと言われ少しニュアンスが異なります。

カルトは社会学者から出た言葉で異端という意味が強いようです。

個人的には原理主義もカルトも、他の価値観を一切排除し我々がすべて正しいと思っている点において共通するところがあると思います。

高森顕徹会においては、特に顕著だったのが「鳥居はくぐらない」というどうでも良いことを真剣に守っていたことです。

また、「神を拝まない」などイスラム原理主義に通ずるところがありました。

しかし、このこと自体はそんなに問題だとは思わないのですが、実際にやってみると非常に違和感があります。

社会一般通念上の作法などでこだわる必要が無いところを徹底的に排除する考え方はどうなのかと考えてしまいます。

もっとも問題なのは、破邪顕正の言葉の元、我々は選ばれた人たちであり、そうで無い人を教え導かなければならないと思い込んでいたことです。

某会の折伏も同じような意味です。

このことは、教義とずれるところがあり原理主義では無くカルト思想と言った方が良いのかもしれません。

 

かなり時代をさかのぼり安土桃山時代、信長により本願寺が攻撃され反旗を翻した顕如教如上人は徹底抗戦をします。

いわゆる石山戦争です。

顕如教如上人の徹底抗戦は正しかったのか間違いなのか判断は分かれます。

個人的には、徹底抗戦はいかがなものかと思います。

それによって多くの人の命を危険に曝すからです。

しかし、父顕如上人がそう判断されたのはどうしてなのか今となっては闇の中です。

当時の本願寺派は強大な権力を持っていました。

その力を盾に戦ったわけで、ある意味浄土真宗原理主義と言ってもいいのかもしれません。

その反動かどうか知りませんが太平洋戦争時には時の政府に荷担し戦争を鼓舞したため、戦後自己批判しています。

正義の名の元に沢山の方々が亡くなりました。

当時の人は、お釈迦様のみ教えをどう考えていたのか。

その時代、時代で異なる状況ですので一概にこうとは言えないとは思います。

生まれた時代が違ったら私はどうしているのか。

非難されたら江戸時代の薩摩藩の人たちのように隠れ念仏になったのか。

そんなことを考えると今は良い時代だなと思います。

親兄弟、親戚、友達に非難されようが私のお念仏を止める人はありません。

狂っているぐらいにしか思われていないのでしょう。

この世間をどう生きるかは本当は結構大事なことなのですが、原理主義に走ってしまうと本当に生きづらくなります。

社会的軋轢を生じさせてしまうからです。

それでも、「『正しいことは正しい』と思っている」のですから大変です。

本当に何が正しいのか判断は難しいと思うのですが。

 

最近の本願寺は、法をありがたがり、機の詮索はあまりしなくなりました。もともとそうだったのかもしれません。

本来、二種深信であり、自他力廃立ですので、我が身の機を説くことも大事だと思うのです。

原理主義とは違うでしょうが、「正しい法」を伝えていくのは大変なのかもしれません。

高森顕徹会は、体験至上主義でご信心は体験が必ず必要ということにこだわっていました。

そのせいでネットの中で体験が必要ではないかと言うと徹底的に叩かれます。

体験はある人も無い人もあります。

そこにこだわることの方が本当は問題なのです。

しかし、三業惑乱からでしょうか、本願寺では体験はあまり言いません。

そのせいで無帰命安心が増えたとも言えます。

 

法は変わりないのですが、私の生き方は社会に迎合するところと、譲れないところがあります。

時代の価値観に流されながら泳いで行くしかないのかなと思ってしまいますが、一方で拘りたい所はあります。

世渡りは上手な方が良いのか、どうなのか、今回のコロナ騒ぎも含めいろんなことが有るたびに考えてしまいます。

 

仏教が分かった、浄土真宗が分かった、阿弥陀様しかない、皆を教化するぞ、俺は善知識だ、菩薩だとなってしまうと本当の浄土真宗のご信心とどんどん遠くなっていくのだろうなと感じます。

また、偏った原理主義に走ると我がどんどん強くなり結局仏教からも、本当のご信心からも同じように遠くなってしまうと思います。

そういう観点からもやはり、極難信※の法と思わざるを得ません。

いずれにしても、南無阿弥陀仏一つを守っていくのは大変なことだと思います。

 

南無阿弥陀仏は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を救うと響き渡っています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※参考・・・・ 

浄土文類聚鈔
 ここをもつて「経」(大経・下)にのたまはく、「もしこの経を聞きて、信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎたる難なし」と。

また「一切世間極難信法」と説きたまへり。

 

称讃浄土仏摂受経(阿弥陀経の異訳)
又舎利子、此の雑染堪忍世界の五濁悪時に於て、若し浄信有る諸の善男子或は善女人、是の如きの一切世間極難信の法を説きたまふを聞きて、能く信解を生じ、受持し演説して、教の如く修行せば、当に知るべし、是の人は甚だ希有なりと為す。

 

 

 

自分の死は常に遠い

新型コロナが原因で私の回りの人で病気を異常に怖れてほとんど外出しない人もいます。
病気になって酷くなって死んでしまうかもと思っているのでしょう。
緊急事態宣言が出る前は町中に普通に人がいたのですが、再度の宣言により今はやはり少なくなりました。
宣言と関係ない処でも子供から大人まで皆マスクをしています。
マスコミの煽りがすごいのか同調圧力がかかっています。
自粛警察などと言う造語を作ってマスコミは更に煽っています。
さも正義の味方のようなふりをして弱いものいじめを楽しんでいるとしか思えません。
そんな暇があるならウイルスはどんどん変異しているのだから中国を始めとする外国人の入国管理をしっかりすべきだと思うのです。
(記事を書いた時点ではビジネストラックを止めていませんでしたが、14日からようやく止めました)
又、65歳以上(訂正:80歳以上です。80歳以上になると急激にコロナの死亡率が上がるそうです。また、80歳以上の人も結構な数の人か外を出歩いています。個人的には後期高齢者と言われる75歳以上かなと思うのですが。)の人の外出を出来るだけ控えることが大事だと思います。
まあ、個人的感想ですが。

こんな状況を見るにつけ思うのは、自分は何とか死の恐怖から逃れて助かろうとしている姿です。
当たり前ですが死からは逃れられないのですが、少しでも遠くに置いておきたい心理がハッキリと働いています。
眼には見えない心理ですが間違いないのです。
ここは本当にハッキリしていることです。
ご信心がわからないと言っている人でもこの事はハッキリしているのではないでしょうか。
では、この心理はどこから来るのでしょうか。

生存欲という言い方があります。
生きたいと思う気持ちです。
その元の一番は食欲と言われています。
当たり前と言えば当たり前なのですが改めて言われると「ふーん」と思ってしまいます。
確かに食欲は子供から大人まで死ぬまであります。
人間だけでなく動物の世界はこれが大きな目的になっています。
戦争では飢餓が最大の敵です。
腹が減っては戦は出来ぬです。

人は死ぬが死ぬまであらゆる命を食い続けます。
恐ろしいことです。
と言うことは死にたくない、絶対死なないぞとしか思えないのです。
そんなことはないと思うなら一度絶食してみれば分かります。
私は一日ももちませんでした。
そうやって自分の命をつないで遠くへ遠くへ死を押しやっているのです。
いつか必ず来るとは頭で分かっていても、心からそうは思えない自分がいるのがハッキリと分かります。

やっかいな者です。
これが凡夫という者の姿です。

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「一念多念文意」
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
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そんなものを救う教えがあるとは本当に希有なことです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏