とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

善知識とは

善知識という言葉があります。

正しい道を教えてくださる知識のことであり善友とも言われます。

また、反対に間違った道に導くものを悪知識と言います。

当たり前ですが正しい道とは仏教で言う悟りに導くための道であります。

悟りとは、これも簡単に説明できませんのでとりあえず仏の悟りのこととします。

浄土真宗では、悟りを開くためにまず阿弥陀様のお浄土に行き、そこで仏の悟りを開くことになります。

お浄土とは仏が作った悟りの世界であり、この世の穢れた世界である穢土とは反対に清らかな世界という意味です。

清らかな世界についてはいろいろあると思いますが、とりあえず仏の作られた世界とします。

と言うか、凡夫の智恵では本当のことは死んでみないとわかりませんので。

その世界、阿弥陀様のお浄土に正しく導く人が善知識となります。

また浄土真宗では、先生をたのみにして阿弥陀様をたのみにしない人を「知識帰命の異安心」とか「善知識だのみ」といい排除しています。

さらに門徒からものを多く取りそれで往生出来るなどと言う僧侶や、僧侶に沢山ものを出せば往生出来るとする門徒は地獄に落ちると言われています。

どうもそのような組織が結構あります。

 

さらに一人の先生を絶対視するのはある意味危ない姿勢です。

そもそも浄土真宗のみ教えは仏教、つまりお釈迦様のみ教えが元です。

それを七高僧方が支えられているのです。

その七高僧がたを讃談された多くの先達方のお言葉も善知識のお言葉となります。

その方達のお言葉を総合的に見るべきなのです。

 

確かに私を真実に導いてくださった先生はいますが、それは一人ではありません。

鍵となる先生は、沢山いらっしゃいます。

 

それに浄土真宗では当たり前ですが南無阿弥陀仏以上の教えはありません。

南無阿弥陀仏の「我をたのめ、我が名を称えよ、落ちるそのまま、必ず救う」をあらゆる根拠と証言によって先達が著されているのです。

今、善知識に遇わせていただいたなら、そこからさらに一歩進んで阿弥陀様を帰命するのです。

これを後生の一大事の解決とか信心決定と言います。

こういう世界に今ここで導く人を善知識と言います。


 

今年もあと少しで終わります。

一年があっという間に過ぎていきます。

武漢コロナも変異を繰り返しウィルス特有の現象が現れています。

自分の意思とは無関係に無常は待ったなしです。

皆さんにおかれましてどんな一年だったでしょうか。

身体に気を付けて南無阿弥陀仏と共に今を生きていきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸:

今回は参考にしたものがちょっと長いですが以下に引文しておきますので気になる人は読んでみてください。

 

知識に三種あり、一には外護。二には同行。三には教授。『摩訶止観』
「外護の善知識」外護者。在俗にあって三宝(仏・法・僧)を護持する者で、真宗では法を説く僧侶を外護するいわゆる門信徒。
「同行の善知識」同じ教えを聞いて同じ行業の道を歩んでいる者。真宗では、本願に選択された「同一念仏 無別同故」の御同行・御同朋のこと。
「教授の善知識」往生極楽の道を往け、この法(なんまんだぶ)を修せよと教え勧めてくれる者のこと。
なお親鸞聖人は、「化身土巻」で、第一真実の善知識として、菩薩・諸仏を挙げられる。

大涅槃に近づく因縁は真の善知識に遇うことであると「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり」とされる。真の善知識である所以は、一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり、といわれ、衆生の機に応じて巧みな手立てをもって救済していくのが真の善知識であるとされる。
ここでいう善知識の菩薩とは、初地以上の菩薩であり真理の一分を明らかに体得している菩薩である。
究極的には、真理の全分を悟っているのは諸仏であるから、第十七願において阿弥陀仏の名号の徳を讃嘆する諸仏が第一真実の善知識であり、その諸仏の咨嗟讃嘆を通して、

十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。

と、阿弥陀仏の名号讃嘆と阿弥陀仏の信心を歓喜せしめるのが「第一真実の善知識」なのである。  
wikiarcより

 

正しい道理を教える者を善知識(善友ぜんぬ、親友しんぬ、勝友しょうう、善親友ぜんしんぬ)、誤った道に導く者を悪知識(悪友あくう、悪師)といい、単に知識というときは善知識の意とする。

例せば、華厳経入法界品には善哉童子の求道の過程に五五の善知識(一般に五三善知識という)に遇うことを説くように、どんな姿の者でも仏道に導くものは善知識であり、四分律巻四一には善親友は与え難いものを与えるなど七つ条件を具えている(善友七事)とし、智顗の摩訶止観巻四下には、外護(そとから見つめてまもる)、同行(行動を共にする)、教授(教え導く)の三善知識を説き、円暉の倶舎論頌疏巻二九には法を与えるものを上の親友、財と法を与えるものを中の親友、財を与えるものを下の親友とする(三友)。
真宗では念仏の教えをすすめるものを善知識というが、その人をただちに如来になぞらえて善知識は如来であるから善知識のみをたのめ、と主張する異計(異安心)は、「善知識だのみ」、「知識帰命」といって排撃する。また法主を、正しく法灯を継承した人として善知識ということもある。

『仏教学辞典』(法蔵館)より。

 

蓮如上人
 御文章二帖目
 五重の義
 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。 これおほきにあさましき次第なり。
そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。

これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。
またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。
これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明六年五月二十日]


 御文章一帖目
 電光朝露・死出の山路
 それおもんみれば、人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。

しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明五年九月中旬]

今、臨終の人に何と声をかける?

今、臨終を迎えようとしている人に何と声をかけるか。
ちょっと考えてみます。

キリスト教イスラム教はどうでしょう?
「アーメン」でしょうか?「アッラー」でしょうか?
その言葉で救われていくのでしょうか。
神をアッラーを「信じなさい」と言われています。
信じ切れない人はどうするのでしょう。
詳しい方がいらっしゃたら教えてください。

仏教はどうでしょう。
天台宗法華宗曹洞宗は「悟り」を求めています。
自力聖道門の教えです。
「南無観世音菩薩」あるいは「南無大師遍照金剛」などと称えることでしょうか。
臨終に「悟り」を得られていなければ「救い」はありません。
「悟り」を得られていなければ六道輪廻を繰り返すことになります。

浄土宗ではどうでしょう。
浄土宗は多念と思われる人が多いと思いますが、必ずしもそうではありません。
私の知り合いは称名をどう感じるか、どう頂いているかと言われます。
称名念仏をされるのでしょうか。

浄土真宗はどうでしょう。
「仏願の生起本末を聞く」という人がいます。
称名念仏」と言う人がいます。
阿弥陀仏をタノメ」と言う人がいます。

「今、臨終を迎えようとしている人に何と声をかけるか」
今、まだ阿弥陀様をタノメていない人に、次の瞬間に死んでしまう人に何と声をかけるのか。

一念往生が真宗の肝要です。(※1)

そして、善導大師の六字釈では、南無阿弥陀仏は願行具足と言われます。(※2)

私は今、臨終を迎えようとしている人には、耳元でお念仏を称えます。
本願招喚の勅命です。
聞即信です。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

追伸
現実には浄土真宗を信じていない人、ご縁の無いには無理でしょうね。

※1
そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。
もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

口伝鈔 覚如上人


※2
いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。
阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

観経疏 玄義分 六字釈 善導大師

選挙

この10月31日、衆議院議員選挙と最高裁判所裁判官国民審査がありました。

選挙結果は、自由民主党単独過半数を獲得しました。

選挙は我々有権者が国の行く末を国会議員に付託するものです。

いわばお任せする訳です。

自分では出来ないことを国会議員にお任せして国を運営して頂くのです。

出来のいい人ばかりではないですが、仕方が無いので○○党の○○議員にするかと考えるわけです。

 

これと何か似ているなと思いました。

 

私の力で後生の一大事の解決、「お仕事」は出来ないわけですのでそれを阿弥陀仏という仏様にお任せする訳です。

選挙があったら「阿弥陀仏」あるいは「南無阿弥陀仏」などと書くわけです。

選択の理由について、絶対と思っている方もいれば、他にいないのでとりあえずと思っている方もいるでしょう。

どんな考え方をしていようが、一度お任せしたらなどうなろうが受けていくしかないのです。

 

仮に戦争になろうがやむを得ないのです。

 

阿弥陀仏にお任せして失敗しようがどうなろうが受けていくしかないのです。

 

ただ、議員の選挙は何度もありますが、後生の解決は何度も出来るものではありません。

今生においての後生はただ一度きりです。

阿弥陀仏」では信用できないと思えば違うところにお任せすれば良いのです。

中国共産党とは違って皆さんの自由ですから。

 

人生一度きりの選挙です。

 

後生の一大事、さあ、どなたにお任せしましょうか。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

ガイロク(街録)

youtubeで最近ガイロクchというチャンネルが人気のようです。

NHKでガイロクという番組がありますが、それのもっと赤裸々なものです。

とてつもなく悲惨な人も多く出ています。

自ら望んだわけでもないのに生まれ落ちたところがそういう所だっただけと片付けることは出来ません。

もうあまりにもひどいのも多いので最近は見ていません。

世の中大丈夫?と思ってしまいますが、それでも人は生きています。

なんとたくましいことか。

そこで語られる事を聞くに付け、生きる目的は人それぞれだということがよく分かります。

何のために生きているのか。

生きるためには何でもやるという人、それよりも今やりたいことのために生きている人、とにかく今生きている人、本当にそれぞれです。

ここに出てきて話したい人はやはり強いのでしょう。

本当に弱っている人はとても出てはこれないでしょう。

そういう人がどれだけいるのか怖ろしくも思います。

人生は苦なりを感じてしまいます。

語っている皆さんは強く生きられているのであまりそうは感じませんが、私なら耐えられない例が沢山あります。

 

世の中には必ず生きる事に疑問を持ち、魂の平安を求める人がいます。

そういう人は宗教や哲学などに心が向いていきます。

死を恐れる人、死を恐れないが空しい心を恐れる人などがそういう人の一部と言えるでしょう。

 

そこで何に出遭い、何を求めるかは人それぞれなのです。

多くの宗教の中から何を選ぶかも仏教的に言えばその人の宿業、宿縁という事になります。

たまたま私は仏教とのご縁がありましたので、他の宗教を仏教的な視点で俯瞰することを学びました。

とはいえ結局、私の頭の中にある阿弥陀仏という存在を通して世界を視ているに過ぎないのかもしれません。

阿弥陀様に教えて頂いた私という煩悩具足の存在を通して世界を視ると、一部ではあまりにも醜くさっさとこの世からおさらばしたい人がいてもおかしくないと思います。

何故なら生きる事さえ許されない環境にいる人たちがいるのです。

ハッキリ言ってこの世は苦しみの世界です。

生は分かりませんが、老、病、死は必ずついて回ります。

老、病、死を忘れこの世の春を謳歌しているときは楽しいでしょうが、それが過ぎてしまえば残るのは空しさだけです。

もう二度とこの世界に生まれるのは御免だと思う方もいらっしゃるでしょうが、仏教的には六道を輪廻するわけです。

さらに佛の悟りを開いたとしても還相回向で何度もこの世の衆生を救いに来るわけです。

この教えが真実としたら本当にたまりません。

 

はてさて何処まで行っても自己中心的な考え方しか出来ません。

そんな奴を今助けると南無阿弥陀仏が届いているのです。

我をタノメ、我が名を称えよと南無阿弥陀仏が届いているのです。

非常にやっかいですが称えるしかありません。

本当は称えさせて頂いているのかな?

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

死ぬる時節には、死ぬがよく候

武漢コロナが変異してさらに猛威を振るっています。

連日、マスコミはコロナ対策の杜撰さを指摘し、政権の足を引っ張ろうとしています。

しかし、コロナによる死者は少なく、ほとんどが軽症のため若者は暗にコロナを無視しているようにも思います。

一部の心ある医者は、未承認ながら効果のある薬の使用を推奨していますが、製薬業界の絡みか何か知りませんがなかなか広まりません。

ワクチンについても陰謀説や恐怖説がはびこり反対者も沢山います。

これらのニュースを一年半見せ続けられほとほと嫌になっています。

とは言え自分に非難の火の粉が掛かるのは嫌ですから、毎年行っていた勉強会も今は見合わせています。

結局死ぬのが嫌、苦しむのは嫌、ただ、それだけなのはよく分かっていますがなんとかともがき苦しんでいる状態なのかもしれません。

そこから一歩踏み出したらどうなるのでしょう。

 

皆さんご存じの良寛さんには、以下のエピソードがありました。

 

「災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候」
1828年12月。良寛和尚が71歳の時、新潟県三条市付近で大地震が発生しました。
のちに三条地震と呼ばれる大地震です。
被害の全容は全潰12000軒以上、死者1500名以上。火災によって焼失した家屋も相当な件数にのぼったと言われます。

そんな三条市のすぐ南に位置する長岡市に、良寛和尚の父親が生まれた与板という町があります。
ここには良寛と親しい間柄にある知人が何人もいましたが、とりわけ酒造業を営んでいた山田杜皐(とうこ)は良寛和尚を「蛍」とあだ名でよぶほどの仲の良い間柄でありました。


三条地震が発生したとき、杜皐が暮らす与板もやはり甚大な被害に見舞われました。
しかも悲しいことに、杜皐はこの地震で子どもを亡くしていました。
しかし杜皐は、そうした自分たちの被害もさることながら、同じく被害に遭ったであろう良寛が無事でいるかを心配に思い、良寛に見舞いの手紙を送りました。


手紙を受け取った良寛は、幸いにも無事でした。
そこで自分が無事であることを伝えるため、すぐに杜皐へ返信の手紙を送るのですが、その末尾に添えられたのが上記の「災難に遭う時節には……」の言葉です。


ちなみに、手紙の前半は以下の通りです。


地震は信(まこと)に大変に候。
野僧草庵は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。
「うちつけに死なば死なずに永らえて かかる憂きめを見るがわびしさ」」


地震に遭った杜皐の境遇を憐れみ、自分は無事でいることを伝え、そして歌を一首したためました。
人生を生きながらえてきてしまったことで、人々が悲しみに打ちひしがれる姿も多く目にすることとなりました。やるせない思いです。

そしてこのあとに件の言葉が続きます。


「しかし災難に遭う時節には災難に遭うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
 かしこ 良寛

 

ご縁とは言え良寛さんのお友達の杜皐さんはずっとこの手紙を大事に持っていたのですからこのエピソードは今に伝えられています。

心の支えになっていたかもしれませんし、ふざけるなと怒りもあったかもしれません。

しかし、仏教的に言えば今を受け入れると言うことです。

死の縁無量です。

人は死ぬときは死ぬのです。

そしてそれはたった今かもしれないのです。

今、死んで行けますか、どうですかと言われているようにも思います。

言い方を変えれば、今を生きるです。

ただ、精一杯生きるだけです。

 

また、良寛さんの漢詩に以下の様なものもあります。

 

生涯懶立身 生涯身を立つるにものうく(この生涯出世には興味が無かった)

騰々任天真 騰々と天真に任す(与えられた姿のままに過ごしてきた)

嚢中三升米 嚢中に三升の米(米袋には三升の米のみ)

炉辺一束薪 炉辺に一束のたきぎ(暖炉には一束の薪しかない)

誰問迷悟跡 誰か問わんめいごのあと(誰も私の法話に興味など無く)

何知名利塵 何ぞ知らんみょうりのちり(評判も財産も何もない)

夜雨草庵裡 夜雨草庵のうち(夜の雨の中この草庵で)

双脚等閑伸 双脚を等閑に伸ばす(両足をぼんやりと伸ばしたりしているだけである)

 

誰か私の法を聞いてくれと叫んでいらっしゃるように聞こえます。

 

アフガニスタンではとんでもないことが起きています。

アフガニスタンだけではありません。

ウイグルチベットはどうでしょう。

中国は、アメリカは、ヨーロッパは・・・・。

今、世界で一番平和に暮らせる国はどこか。

私は、この「大乗相応の地」日本だと思っています。

 

阿弥陀様は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を、南無阿弥陀仏一つで救うと誓っていらっしゃいます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

長者窮子の譬え

今回は、S会でも昔はよく話された「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」について書きたいと思います。
まずは根拠聖典である法華経から引文します。


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要約法華経
信解品(しんげほん)第四


そのとき、長老の須菩提と、摩訶迦旃延と、摩訶迦葉と、摩訶目犍連 は、釈尊が説く未曾有の法と、舎利弗が阿耨多羅三藐三菩提を授記されたことに 大変驚き、また歓喜し、立ち上がって衣服を整え、右の肩をあらわにし右の膝を地につけて、釈尊に申し上げた。

「われらはすでに年老い、悟りの境地に達していると思い込み、その上を望むことをしませんでした。
菩薩の法たる 仏国土を清くし、衆生を導こうとはしませんでした。
声聞に阿耨多羅三藐三菩提を 授記されて大変うれしく思いますとともに、 ただ今この時に、未だかって説かれたことのない稀有の法を聴いて、貴重な宝玉を自ら求めざるに得た心地がします。
世尊よ、 われらの気持ちを、たとえ話をもって語ることを許していただきたい。

 

ある人、若い頃に家出して、他国に住み、すでに五十年という年月が経った、と思っていただきたい。
衣食を求めて処々を放浪したが、 食うや食わずのその日暮らしの生活に疲れはて、故郷に帰ろうとしてある国に入った。その子の父は、出奔した息子を八方手を尽くして 探したが、行方が分からないまま、そのある国に住んでいた。
父は大長者となって、倉庫には金・銀その他の珍宝があふれ、 象・馬・牛・羊も数え切れず、手広く商売し、金を貸して金利を稼ぎ、大勢の使用人を使っていた。


たまたま貧乏な子は、大金持ちの父の住む町にやってきて、その邸宅の前に来た。
門の傍に立って中を見ると、長者は玄関前に 幔幕(まんまく)をめぐらし、獅子皮の椅子に座し、宝石を埋め込んだ足台 に足をのばし、両側から白い払子(ほっす)で扇がせ、高価な真珠の装身具で身を飾り、 大勢の婆羅門や王侯貴族や商人たちに囲まれて大きな 取引の話をしていた。その豪勢さに圧倒されて、子は驚くと同時に恐れをなして思った。


『突然、王か大臣に会ってしまった、 ここには私のようなもののする仕事はない。ぼやぼやしていると怖い目に遭いそうだ。貧しい地域に行って仕事を探そう』 子は急いで立ち去ったが、長者は男を一目見るなり、自分の息子であることに気がついた。
そして使用人にその子を連れて くるように命じた。使者は追っかけてその子を捕らえると、長者の処に引き立ててきた。
長者の前で、子は何をされるか分からない 恐怖のあまり、失神して倒れてしまった。
それを見て長者は、その子をいったん解放した。
自分の豪勢な暮らしぶりがその子の 憚(はばか)る処となり、またその子の志が低いことを知ったからである。
そこで長者は方便を使ってその子を引き寄せようと考え、浮浪者のような貧相な男二人を雇って、 こう言い聞かせたのである。


『お前達はあの男の処へ行って、こう言いなさい。あの屋敷に働き口があるぞ。給金は二倍もらえるそうだ。 仕事は便所の汲み取りだ。俺達もこれから行くので、一緒に行って雇ってもらおう』こうしてこの子は、近くの茅葺の小屋に住み、 長者の邸宅で働くようになった。

 

しばらくして長者は、自分の上等な衣服を脱ぎ装身具をはずし、身体に泥をぬりつけ、よごれた衣に着替え、糞壷を手にもって、 つまり息子と同じような格好にやつして、子に近づいて言った。


『お前はずっとここにいなさい、私をおいてよそへ行かないように。 お前は若く、私はもう年老いた。必要なものがあれば、何でも言いなさい。お前は他の使用人と違って、 愚痴を言わず正直でよく働く。今日から私はお前を実の子のように思おう』子は喜んだが、何かを欲しがることもなく、 長者の使用人として立場に満足していた。


そうして二十年が経ち、長者の処へも自由に出入りし、家事を執務するようになり、 財産のすべてを知るようになったが、欲はなく、相変わらず茅葺の小屋に住み、貧しい自分の境遇のなかで暮らしていた。
しかし長者はその子の志が少しずつ変化し、新しい境遇に適応してきたのを見ていた。 長者は死期が近づくと、親族・国王・大臣その他大勢の人々に集まってもらい、この子が自分の実の息子であることを初めて打ち明け、 財産の一切をこの息子に譲ると宣言したのである。


息子は大いに感激してこう思った、『わたしは自分から願うことはなかったけれど、 自然にこの財宝を得ることになった』

 

世尊よ、大長者とは如来のことです、そしてわれらは仏の子です。
われらは本当の阿羅漢になった心地がします。
世尊はわれらに諸々の戯論の糞(あくた)を除かしめ、われらは日銭を稼ぐように悟りを求め、その日の稼ぎを得て満足していたのです。
われらは自分に執着が強く、目先のことのみを求めて、大乗を求めなかった。
世尊はわれらが志の低いことを見られて、方便で、われらの機根に合わせて法を説かれていたのです。
今日、世尊がこの経を説くのを聴いて、われらは仏の子であるが故に、自ら求めずして自然に如来の宝蔵を得られたのです」

そうして摩訶迦葉は、重ねてこの意味を伝えようとして、詩句をもって唱えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

この話はもともと声聞の代表である舎利弗釈尊が記別(仏が、弟子たちの来世の悟りの内容を予言すること。仏となることの予言。)を与えたことを悦んで説かれたものと言われています。
小乗から大乗への釈尊による導き(ご方便)を説かれたものであり、五時の教判の根拠にもなっています。

個人的には、阿弥陀様にお会いするまでの私達の道程とも読むことが出来ます。
細かい説明はありませんので皆さんそれぞれ味わっていただければ良いと思います。
法華経も基本的には大乗仏教ですので似たような味わいが出来るのかなとも思います。
私はこのお話から摂取不捨、逃げる者を追いかけて捕らえる阿弥陀様の願力と味わいます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

群盲象をなでる

「群盲象をなでる」と言われるお言葉があります。

仏教経典だけでなく他の宗教でも扱われています。

簡単に書きます。

 

あるところに多くの目の不自由な方がいました。

その人たちが象をなでてその姿について話しています。

象の牙をなで「象は杵のようなものだ」と言います。

象の耳をなで「象は団扇のようなものだ」と言います。

象の鼻をなで「象は太い縄のようなものだ」と言います。

象の足をなで「象は柱のようなものだ」と言います。

象のおなかをなで「象は壁のようなものだ」と言います。

象のしっぽをなで「象は箒のようなものだ」と言います。

多くの目の不自由な方達が象をなでてその姿についてお話をするのですが、どのかたのお話も本当ですが、だれも本当の象の姿を分かっていないと言うことです。

※1

これを聞いて思うのが阿弥陀様から賜った御信心についても同じような味わいを皆さんしているのではないかと思うのです。

 

私は阿弥陀様とお会いした。

私は空を体験した。

御念仏が吹き出した。

私の業魂がハッキリ分かった。

地獄一定と定まった。

御念仏が証拠だ。

などなど

 

これらのことを主張することは、南無阿弥陀仏のほんの一部の気づきや目覚めをすべてと言っているように思います。

「私の体験は絶対だ」と思われている方も多いでしょう。

それはそれで「その人にとっては本当の事」であるのは間違いないことでしょうが、それがすべてではないということです。

阿弥陀様から賜った御信心について、親鸞聖人は以下のようにおっしゃっています。

 

阿弥陀様の御本願に疑いが無いのが御信心だ。

自分は落ちるに間違いない、阿弥陀様(南無阿弥陀仏)は助けるに間違いないのが御信心だ。

※2

 

 

このお言葉からも上記のように色々な味わいがあるでしょうが、それはあくまで味わいであり本当の御信心の姿ではありません。

今回私が言いたいのは、御信心を頂いたと言っても「私の体験が本当の御信心だ」と言い出すと大きな間違いを起こすと思うのです。

「あの人の御信心は間違っている」と言い出すもとになります。

当たり前のことなのですが人は自分が体験したことが100%だと思ってしまう傾向があります。

オウム真理教も一定の体験が修行によって得られます。

オウムだけでなく他の宗派でも実際に宗教的体験をした人が沢山います。

その方達がお聖教の深いところをどこまで理解しているか分かりません。

それでも「この私の体験が真実だ」と言うならば、相当のマインドコントロールかと思ってしまいます。

私という者はどこどこまでも妄念の塊であり、死ぬまで阿弥陀様(南無阿弥陀仏)のお話を聞かせていただくだけなのです。※3

 

私はそう思います。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

参考

※1

阿含経では鏡面王という人物が10人の盲人を集め、それぞれが鼻を曲がった轅、牙を杵、耳を箕、頭を鼎、背を丘阜、腹を壁、後ろ足を樹、膊(膝)を柱、跡(前足)を臼、尾を緪(綱)に例える話になっている。
大樓炭経も尾のたとえが蛇になっている他は長阿含経とほぼ同じである。

 

大般涅槃経では、衆盲各手以手触…衆盲不説象体亦非不説(衆盲各おの手を以て触る…衆盲象体を説かず亦(ま)た説かずとも非ず)などとの表現で、象が仏性の比喩として述べられている。
仏性は、仏以外の無明の衆生はもちろん十住の菩薩でさえも十分完全には知りえない仏教の究極の真理すなわち勝義である。
しかしながら、まったくの断善根であっても仏に成れる可能性があるとも説く。

(wikiより)

 

※2

親鸞聖人

唯信鈔文意
選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく。

顕浄土真実行文類
智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく、「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」と。

顕浄土真実信文類
かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。

・・・

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。

 

※3

源信僧都

横川法語
またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。