とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

この世は平等でない

残念ながらこの世の中は全く平等ではありません。

美醜や賢愚、強弱貧富の差、更には長命短命、貴賤等々はどうしようもありません。

特に美醜に関しては瞬間的に各自が判断しますのでどうしようもありません。

いろいろ判断基準はありますが不思議なことに好き嫌いは別としてほとんどの人が美人と思う人は誰が見ても美人であり、そうで無い人はそうでは無いのです。

そういう能力(本能)が私達に共通してあると言うことは本当に不思議に思います。

他にも若い人は好きで年寄りは嫌いなのです。

ハッキリしています。

今はコロナでマスクがあり多少はごまかせますが、テレビやネットの世界ではマスクなしの映像です。

それに最近はやたら化粧品や美容に関するCMが多い気がします。

CMにもほとんど美しい男女しか出てきません。

世間でも美人は多少ア○ポ○タンでも許されますが、そうでないと優しくはされないのが顕著と思います。

特に女の人は大変だなと思います。

生まれたときから大きな差が付いてしまっているからです。

たとえ美人だとしてもそれで本当に幸せになるのかどうかは分かりませんが、少なくとも子供から少女時代は大変でしょう。

それは男でも同じだと思いますが、男はぶさいくでも力(体力や頭脳など)があれば何とかなりますが、女の人は力があったら避けられることが多くなるでしょう。

しかし、美しくなろうと自分の人生の多くの時間を割いても、なんともならないことは何ともなりません。

最後は整形に走って行く人もいます。

お釈迦様は心のきれいな人が本当に美しい人だと言われましたが、残念ながらお釈迦様のような人はほとんどいません。

表向きの多様性をどれだけ叫んでも差別は変わらないと思います。

人を差別することは、人間の自己防衛本能かもしれません。

口に出さないだけで皆思っていますし、そういう態度をするのでより陰湿になるのかもしれません。

関西のテレビで吉本新喜劇のように笑いにすることもそのうち出来なくなるかもしれません。※1

では、仏教ではどう言われているでしょう。

・・・・・・・・・・・・・

『小業分別経』(しょうごうふんべつきょう)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第135経。『鸚鵡経』(おうむきょう)とも。

ある時、釈迦は、サーヴァッティー(舎衛城)のアナータピンディカ園(祇園精舎)に滞在していた。

そこに婆羅門トーデッヤの息子である青年スバが訪れ、釈迦に、人間に長命と短命、肥痩、美醜、強弱、貧富、貴卑、賢愚といった区別・優劣が生じる原因を問う。

「ゴータマよ、どのような因、縁で、人々には優劣が見られるのでしょうか?
ゴータマよ、(世の中には)短命な人が見られる一方で、長命な人が見られます。
多病な人が見られ、健康な人が見られます。
醜い人が見られ、美しい人が見られます。
無力な人が見られ、影響力のある人が見られます。
貧しい人が見られ、財の多い人が見られます。
低い家系の人が見られ、高い家系の人が見られます。
愚かな人が見られ、智慧のある人が見られます。

ゴータマよ、どのような因、縁で、人々には優劣が見られるのでしょうか?」

 

「青年(スバ)よ、衆生は、業を自分のものとし、業を相続し、業を胎とし、業を親族とし、業をよりどころとする。
業が衆生を分類し、優劣をつける。」

 

wikiより引文

・・・・・・・・・

全てその人についた業(宿業とも言います)によるといわれています。

自分では分からない過去世の因縁によるのです。

残酷な話です。

「そんなこと知らない、誰も教えてくれない、どうして私はこんなに・・・・。」

「親ガチャ」という言葉が流行りました。

こんな親の元に生まれたからなんだと親のせいにします。

しかし、そんなことを言ったところで空しいだけです。

 

阿弥陀様のお慈悲は、たとえ天地がひっくり返っても変わりありません。

一人一人について離れません。

必ず救うと誓っていらっしゃります。

 

しかしです。

ここで美醜をなんとかしてくれる訳ではありません。

あくまで後生の一大事、生死出べき道をハッキリさせていただけるのです。

 

全くこの世の幸せ(煩悩)とは関係ないのです。

ここ(美醜など煩悩で悩んでいる方に)をどう折り合いを付けられるのか私には分かりませんが、そこには今生だけで後生永遠の問題については本当に小さな問題なのだということに気付いてもらうしかないのです。

後生こそ人生の大問題であるということです。

 

人生はあっという間です。

美しい人もすぐに老婆になります。

そこに拘るよりもこの無常の世の中に拘ってもらいたいのですが、煩悩は強力ですから。

 

一人一人のご縁とは言え電車に乗車したとき、きれいに化粧をして澄ましている人を見るたびに思ってしまいます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※1

吉本新喜劇などでは美醜を笑いの種にしています。

たとえば「ぶっさいくやなー」などと言われています。

そのままと言われても・・・

阿弥陀様の救いについてよく使われるのが「そのまま」という言葉です。

「そのまま」の意味は、手を加えることなく現状のままという意味です。

現状と言うことは「今」の状態と言うことで、その「今」とはいつまで経っても「今」となります。

つまり死ぬまで「今」ということです。

当たり前ですが私達人間界に生を受けて「今」を生きています。

過ぎ去った過去は、今ではありませんし、まだ来ぬ未来も今ではありません。

過去世と未来世の接点がこの「今」現在世と言うことになります。

そしてただ「今」救うと言われた根拠が願成就文となります。※1

 

しかしです。

御信心がハッキリされていない方は「そのままと言われても・・・」となります。

「そのまま」なら聞法も必要ないのか。

称名念仏」も「勤行」も何もしなくても良いのかという事になりますが、これは大きな聞き違いとなります。

さらに「聞く一つと言われて、何度も何度も同じ事を聞いているが一向に何も変わらないじゃないか。」と言われます。

ここで矛楯が生じます。

「そのまま」と言われ、それを「そのまま」受け止めることが出来ない状態があります。

それを解決するために、その人その人に応じた「道」があります。

その「道」は人それぞれですので、聞法や勤行や称名念仏などそれぞれです。

しかし必ずその「道」を皆さんが通って御信心の世界に出られるのです。

この「道」を「求道」と言うと間違いになりますが、傍から見たら「求道」以外の何ものでもありません。

でも浄土真宗では「求道」という言葉は「そのまま」の救いと矛楯するため使いたがりません。

・・・・・・

浄土真宗のご法義は「信心正因」です。

ですから「絶対他力、無条件の救いなら、どうして、信心という条件があるのか」という疑問が出てきます。

(私は読んだことはありませんが)『増一阿含経』という経典には、仏教とそうでないものとを見分ける、三つの指標が説かれているそうです。

「こうなったら仏教ではない」という目印です。

一つは「宿命造」いわゆる運命論・宿命論です。

「自分の人生は、すでに運命によって決定している。」

こうなったら仏教ではありません。

お釈迦さまは、精進・努力によって自らの未来を切り拓く教えを説いてくださいました。

二つめは「尊裕造(そんゆうぞう)」神意論のことです。

この世界は唯一絶対の神によって造られ、全知全能の神によって支配されているという、ちょうどキリスト教のような考え方です。

阿弥陀さまが全知全能の創造主であるのなら、いやでもおうでも浄土へ引きずり込むということもあるかもしれませんが、こうなったら仏教ではありません。

三つめが「無因無果」偶然論のことです。

当然のことながら、仏教は因果の道理を説きます。

私のさとり(仏果)には、私の側に仏因がなければなりません。

それが正しい因果の道理というものです。

おなかがすいたからといって、代わりに食事をしてもらっても、私は満腹になりません。

私の仏果には、私の側に仏因がなければなりません。

それが仏教の原則で、浄土真宗では、それを「信心正因」とするのです。

しかしながら、私の側の仏因といっても、私の側には迷いの元ばかりで、仏因になるようなものは、何ひとつ持ち合わせておりません。

私の迷い心でつくった信心ならば、仏因になるというような厚かましいことはいえないのです。

「かつて一善もなし『無量寿経』、『註釈版聖典』六九頁」といわれる身において、仏因になりうるものは、阿弥陀さまからの真実が届けられる他力回向の信心のみです。

喚び声のままの信「信心」は、「心」という字があるように、私の心に起こるものです。(なぜなら阿弥陀様からご信心を賜るからです)

私の心に起こることについて、私のはたらき(自力)が関わったのでは、迷いのもとが雑じることになり、仏因とはなりえません。

私の心に起こることでありながら、私の心のはたらきをさせないあり方とは、どういうことになるでしょう。

それが、聞くままがそのまま信となる、「聞即信」のあり方です。

「聞く」という行為は、先手の音声があって、初めて成立します。

私か講義をたのまれても、日時を間違えて一日遅く行ったら、せっかく集まってもらった受講生にとっては、私か到着してないので「聞く」という行為は成立しません。

阿弥陀さまが「喚び声」の仏さまとなられたのは、私の心に起こる信心について、私の心のはたらきをさせず、先手の「喚び声」がそのまま信となる、まさに「他力回向」の信となる救いの構造を完成されたからです。

光明寺 浄土真宗本願寺派(西本願寺) of 光明寺 (komyouji.com)より引文

・・・・・・・

先手の阿弥陀様の南無阿弥陀仏が届いて居るから、それを受け取ることによって因が私に宿ることになります。

届いて居ても受け取っていなければ私に因は出来ません。

では、「どうしたら」という考えが出てきますが、そもそもそこが間違いなのです。

摂取不捨と言われる所以です。

一生懸命求めていることが実は真逆の事だったと気付かされたときの驚きは言葉では表現出来ません。

ただただ懺悔です。

結局、ある程度この頭で理解出来るまでは聞法を重ねなけれならないということだと思います。

それも人それぞれの道があり、これが正しいというものは無いのです。

そして、絶対に忘れていけないのは、

「現在、ただ今、堕ちるそのままの私を南無阿弥陀仏一つで必ず救ってくださる」と言うことです。

「我をタノメ、我が名を称えよ、必ず救う」

これが全てなのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

ウクライナとロシアの戦争はまだ続いています。

本当に残念でなりません。

早く終わることを祈っています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※1

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転

唯除五逆 誹謗正法

 

生死の一大事よりロシアや中国の方が怖い!?

ロシアがウクライナを2月24日から攻撃しています。
大々的な戦争が始まっています。
多くの人も既に亡くなっています。
どうしてこんなことが起きるのか。
プーチン大統領一人が悪いのか。

全ての物事は縁起の法によって引き起こされます。
そこに人の意思が加わっているのかどうなのか私にはよく分かりませんが、間違いなくプーチン大統領の煩悩は活発に働いていることでしょう。

そう思うに付けても人間はいつ死ぬかもしれないのにロシアや中国がいつ襲ってくるのかの方がより不安です。

明日をもしれない命なのにそれよりも戦争の恐怖を先に考えるのは迷っている証拠です。
しかし、どうしてもそう思ってしまうのです。
それが人間だと言われればそれまででしょうが、どうしてそう思ってしまうのか。
本当に迷いのまっただ中の人生です。
むしろその事に疑問を持つ私達仏教徒の方が極少数派なのでしょう。

ロシアは北海道に攻め込むかもしれません。
北海道の漁業関係者は拿捕される恐れがあります。
中国は台湾を攻めながら沖縄に攻撃してくるかもしれません。
日本の自衛隊が頑張っても大量の武器と兵隊で攻めてきたらひとたまりもありません。
当然アメリカに頼りますがまずは日本が頑張ってロシアや中国の攻撃を防がなければなりません。
当たり前ですがヨーロッパ諸国が日本に軍隊を派遣して守ってくれるわけがありません。

政治の事を話すのは本意ではありませんが、ことこの後に及んでは考えざるをえません。

しかしです。
仏教的に考えるとどうでしょう。
お釈迦様の民族、釈迦族は滅ぼされました。
日本も抵抗しなければロシアや中国に滅ぼされて民族は抹殺されるでしょう。
それも宿業と受け止めて家族や親戚が殺されたりしていくのを黙って見ているのでしょうか。

このことを考えるに付け信長の本願寺との戦争、石山戦争を思い起こします。
仏教を守るための戦争に荷担するのか逃げるのか。
皆さんならどうしますか。
石山戦争は結局日本人同士の争いですので最後は門徒虐殺ということは起こりませんでした。
しかし、ロシア人や中国人は民族が異なります。
ロシアとは日露戦争、中国とは日中戦争を日本はしています。
負けたらどうなるのでしょう。

私はだまって奴隷になるのは嫌です。
欲しいのは安心と安全です。
そのためには他国から攻められない準備が必要と思います。
日本の軍備を増強することによって他国からの攻撃を牽制することが出来ると思います。
必要悪だと思いますがそうしなければ自国の民族を守ることが出来ないと思うのです。

ウクライナの歴史を見ると本当に悲惨です。
ソビエトによってホロコーストまがいの虐殺や兵糧攻めによる餓死、ホロドモールが起きています。
まるでユダヤ人の様に迫害を受けています。

日本は幸いにも島国で他国からの侵略戦争は多くありませんでした。
しかし、これだけ兵器の進歩が進んだ今、あっという間に日本が侵略される可能性が出てきました。
大乗相応の地と言われた親鸞聖人のお言葉を守るためにもこれからの日本の在り方を考える時期に来ていると思います。

阿弥陀様のみ教えが末永く続く日本であって欲しいと思っています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

男女平等?

今回はかなり私見が入っていますが、ちょっと気になっていることですので書いていきます。
男女平等やジェンダーフリーという言葉を最近特によく耳にしますが、その言葉の捉え方は人それぞれだと思います。
そもそも男と女の違いはなんでしょうか。
決定的に違うのは身体的相違と女性には出産があります。
次に仕事が頭にきますが、さらにはスポーツでしょうか。
それ以外には何があるのでしょう。
趣味や嗜好でしょうか。

やはり進化の過程において性別が分かれる理由があると思います。
種族存続と繁栄を目的として性別ができたのだろうと想像できます。
性別の無い生き物も一部にはいますがその殆どがごく少数です。

いやいやミミズはそうだとか蟻だってと言われるでしょうが、両方とも性別があります。(正確にはミミズは雌雄同体)
アリの世界では働き蟻はほとんどメスと言われています。
役割分担がされています。
畜生界(自然界)においてもそうなのですから、人間界はなおさらです。
私は心も体も生物学的に言えばオスですので基本的に他の性別について心と体がどういう関係なのか興味がありません。
つまり、好みのメスには煩悩(色欲)を起こしますがそれ以外は心も体も拒絶します。
私はそういうふうに出来ています。
それをそうではないように私を変えようとしても全身全霊を持って拒否するでしょう。
そして男と女に別れた性別の人がこの世のほとんどです。
では一体とれだけの人が性別に違和感を持たれているのでしょう。
以下の記事がありました。

..............
北海道文教大の池田官司教授(精神医学)らの研究。厚生労働省医療機関に対する2011年の調査で、国内の患者数を少なくとも約4千人と推計しているが、10倍以上の患者がいる可能性がある。
日本経済新聞 2013/4/21
...............

国内で多く見積もって4.6万人です。
この数字をどう捉えるかです。
約2.8千人に一人となります。
その事で本当に苦しんでいる人はいるでしょう。
また、受け入れて生きている方もいるでしょう。
仮に私の回りに誰かいたとして、単なる病人がいるのと同じです。
また、私が聞いたところでどうしようも出来ません。

残念ですが何ともならないことは何ともならないのです。

民主主義であり多数決の世界で尚且つ資本主義においてはあまり相手にされません。
ガンや他の病気、さらには身体障害の人が沢山いらっしゃいます。
ガン患者は約100万人です。
身体障害は約370万人、精神障害は約320万人、さらに知的障害などの障害の有る方を含めると全体で約740万人です。(厚生労働省の調査より)
ですからジェンダーについてことさら取り上げる問題なのかと思うのは冷たいのでしょうか。

ほとんどのサイレントマジョリティは何も言わず黙っているのです。
騒いでいるのはマスコミくらいです。

仏教的に言えば、苦しみの一つというだけです。
生きていくだけで大変なんだという声が聞こえてきます。
苦しみは人それぞれです。

男女平等だジェンダーフリーなどと声だかに言うのは性別により差別されていることを問題としています。
しかし差別の無い世界は何処にあるのでしょう。
また、差別の無い状態はどういう状態をいうのでしょう。
その形も示すことができずに目先の利益のみで判断しているのではないのかと思います。
確かに100年程前はそうだったのかもしれません。
しかし本当に全ての女性が蔑視されていたのか疑問です。
時代に応じて単に仕事の役割が違っただけなのではないかと思います。
それを差別と言うのは一面的な見方と思います。
現代の日本はどうでしょう。
ほとんど権利としては平等と思います。

現代の社会のおいても、それぞれの役割に応じて力を合わせて生き抜くだけなのです。
特に日本において女性はどんな生き方をしても自由だと思います。
ただ、仕事の上では男性優位の会社が多いと思いますがどうしてそれがいけないのでしょう。
女性優位の会社も沢山あります。
ヨーロッパはアメリカは?アフリカは中国は?アジアやロシアはどうでしょう。
アフガニスタンはかなり女性を虐げているようですがそれが世界の趨勢でしょうか。
この日本において、私が生きてきた上で、男女平等ともの心ついたときから育てられてきました。
ですので女性が虐げられていると感じることは一切ありませんでした。
むしろしたたかに女を利用して生きている人がほとんどです。
「女は強いなー」といつも思っていました。
ほとんど私の偏見かもしれませんが。

日本において、男女平等でないと叫ぶのは嘘ばかりですね。
そういうことを主張される方には別の目的が有るのではないかと思ってしまいます。
もっと非難すべき国が沢山有るのではないかと思います。
言葉に騙されます。

世間虚仮 唯仏是真
聖徳太子

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

お浄土とは

新しい年が始まりました。

中国で始まったコロナは人類をあざ笑うかのように変異し翻弄します。

この先どうなるかは、それこそ神のみぞ知るでしょうか。

さて、そんな暗い話ばかりでは嫌になってしまいますので今回はお浄土について考えてみます。

 

まず、地獄と極楽と言うと地獄の話が多いのは皆さん地獄に行きたくないかなのか、それとも昔いたところだから懐かしいのか分かりませんが、結構興味を持たれます。

ところが極楽、あるいはお浄土となるとピンときません。

行ったことも無いし、そもそもお浄土の話を聞いても「ふーん」で終わってしまいます。

死んだ先がどちらかのかは本当に大事な問題なのですが、ほとんどの人はさほど気にしていないのでしょう。

振り返って私自身についても、ただただ、「死にたくない」とか「苦しいのは嫌」という感情が先に来てしまうのは、私の阿頼耶識がうすうす地獄は苦しいと思っている証拠かもしれません。

 

浄土真宗では御信心を頂いた人は正定に等しい人となり一息切れたその先は阿弥陀様のお浄土に生まれ仏の悟りを開くことになります。

このお浄土は阿弥陀経によれば苦しみは無く、楽のみうける誠に有り難い所のようです。

 

まず、七重の玉垣と並木があります。

それらは金や銀、宝石などの宝から出来ています。

また、七つの宝で出来た池がありまことに功徳のある水が充ち満ちて、池に咲く蓮の華は、車輪のような大きさで青色、黄色、赤色、白色などに光り輝きまことに不思議な良い香りを放っています。

さらに妙なる音楽があふれており、地面は黄金に光り輝き昼夜六字には曼陀羅の華が天から降ってきます。

そしてそこの住人はあふれんばかりの華で多くの他の仏様を供養するのです。

食事の時間までには帰ってきて皆さん極楽を散歩されます。

空には沢山の鳥たちが昼夜六字に優雅な声で鳴きます。

この声を聞いて仏を念じ、法を念じ、僧を念じます。

この鳥たちは畜生ではなく阿弥陀様が姿を変えられたものです。

この世界ではそよ風に合わせて美しい音楽が流れてきます。

そして皆さんが仏を念じ、法を念じ、僧を念じるのです。

 

とまあこんな調子で阿弥陀仏のお浄土およびお徳が説かれています。

説かれていることが何を指しているのか分かりませんが、素晴らしい世界であるのは間違いないことでしょう。

何故ならお釈迦様はその世界を見た上で書かれているのですから。

正直、私には訳が分かりません。

浄土論や浄土論註も読んでみましたがさっぱりです。

とにかくお徳がすごいというのは何となく分かります。

それと親鸞聖人の教行信証にも書かれている通り、徃相回向、還相回向が説かれています。

お浄土はいろいろ煩うことがないため修行に適しているのだと言う話を聞いたこともあります。

親鸞聖人は、お浄土に長居はせず、すぐこの世に還ってくるぞと言われています。

 

個人的にはこの世には還ってきたくありません。

次に来たらどんな人生が待っているのか怖ろしくて仕方ありません。

お浄土がどんなところが分かりませんが、楽のみ受けるのが良いと思っています。

 

「そんな奴が行ける所では無いぞ」という声が聞こえてきますが、私の意思とは無関係に阿弥陀様が連れて行ってくださるのです。

「じゃあ、本当に御信心頂いたの?」という声も聞こえてきますが、まあ、どうでも良いのです。

やはり、単に苦しいのは嫌だだけが私の姿ですね。

そんな私をまるまる救うと言われるのですから、やっぱり私の意思とは無関係です。

さてさて、どこへ行くのやら。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

舎利弗、かの土をなんがゆゑぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく。

 また舎利弗、極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。みなこれ四宝周帀し囲繞せり。このゆゑにかの国を名づけて極楽といふ。

 また舎利弗、極楽国土には七宝の池あり。八功徳水そのなかに充満せり。池の底にはもつぱら金の沙をもつて地に布けり。四辺の階道は、金・銀・瑠璃・玻瓈合成せり。上に楼閣あり。また金・銀・瑠璃・玻瓈・硨磲・赤珠・碼碯をもつて、これを厳飾す。池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。 舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

 また舎利弗、かの仏国土には、つねに天の楽をなす。黄金を地とし、昼夜六時に天の曼陀羅華を雨らす。その国の衆生、つねに清旦をもつて、おのおの衣裓をもつて、もろもろの妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。すなはち食時をもつて本国に還り到りて、飯食し経行す。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

 また次に舎利弗、かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。このもろもろの鳥、昼夜六時に和雅の音を出す。その音、五根・五力・七菩提分・八聖道分、かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この音を聞きをはりて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。舎利弗、なんぢこの鳥は実にこれ罪報の所生なりと謂ふことなかれ。ゆゑはいかん。かの仏国土には三悪趣なければなり。

 舎利弗、その仏国土にはなほ三悪道の名すらなし、いかにいはんや実あらんや。このもろもろの鳥は、みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して、変化してなしたまふところなり。舎利弗、かの仏国土には微風吹いて、もろもろの宝行樹および宝羅網を動かすに、微妙の音を出す。たとへば百千種の楽を同時に倶になすがごとし。この音を聞くもの、みな自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず。舎利弗、その仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

仏説阿弥陀経

 

 

 

 

 

 

善知識とは

善知識という言葉があります。

正しい道を教えてくださる知識のことであり善友とも言われます。

また、反対に間違った道に導くものを悪知識と言います。

当たり前ですが正しい道とは仏教で言う悟りに導くための道であります。

悟りとは、これも簡単に説明できませんのでとりあえず仏の悟りのこととします。

浄土真宗では、悟りを開くためにまず阿弥陀様のお浄土に行き、そこで仏の悟りを開くことになります。

お浄土とは仏が作った悟りの世界であり、この世の穢れた世界である穢土とは反対に清らかな世界という意味です。

清らかな世界についてはいろいろあると思いますが、とりあえず仏の作られた世界とします。

と言うか、凡夫の智恵では本当のことは死んでみないとわかりませんので。

その世界、阿弥陀様のお浄土に正しく導く人が善知識となります。

また浄土真宗では、先生をたのみにして阿弥陀様をたのみにしない人を「知識帰命の異安心」とか「善知識だのみ」といい排除しています。

さらに門徒からものを多く取りそれで往生出来るなどと言う僧侶や、僧侶に沢山ものを出せば往生出来るとする門徒は地獄に落ちると言われています。

どうもそのような組織が結構あります。

 

さらに一人の先生を絶対視するのはある意味危ない姿勢です。

そもそも浄土真宗のみ教えは仏教、つまりお釈迦様のみ教えが元です。

それを七高僧方が支えられているのです。

その七高僧がたを讃談された多くの先達方のお言葉も善知識のお言葉となります。

その方達のお言葉を総合的に見るべきなのです。

 

確かに私を真実に導いてくださった先生はいますが、それは一人ではありません。

鍵となる先生は、沢山いらっしゃいます。

 

それに浄土真宗では当たり前ですが南無阿弥陀仏以上の教えはありません。

南無阿弥陀仏の「我をたのめ、我が名を称えよ、落ちるそのまま、必ず救う」をあらゆる根拠と証言によって先達が著されているのです。

今、善知識に遇わせていただいたなら、そこからさらに一歩進んで阿弥陀様を帰命するのです。

これを後生の一大事の解決とか信心決定と言います。

こういう世界に今ここで導く人を善知識と言います。


 

今年もあと少しで終わります。

一年があっという間に過ぎていきます。

武漢コロナも変異を繰り返しウィルス特有の現象が現れています。

自分の意思とは無関係に無常は待ったなしです。

皆さんにおかれましてどんな一年だったでしょうか。

身体に気を付けて南無阿弥陀仏と共に今を生きていきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸:

今回は参考にしたものがちょっと長いですが以下に引文しておきますので気になる人は読んでみてください。

 

知識に三種あり、一には外護。二には同行。三には教授。『摩訶止観』
「外護の善知識」外護者。在俗にあって三宝(仏・法・僧)を護持する者で、真宗では法を説く僧侶を外護するいわゆる門信徒。
「同行の善知識」同じ教えを聞いて同じ行業の道を歩んでいる者。真宗では、本願に選択された「同一念仏 無別同故」の御同行・御同朋のこと。
「教授の善知識」往生極楽の道を往け、この法(なんまんだぶ)を修せよと教え勧めてくれる者のこと。
なお親鸞聖人は、「化身土巻」で、第一真実の善知識として、菩薩・諸仏を挙げられる。

大涅槃に近づく因縁は真の善知識に遇うことであると「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり」とされる。真の善知識である所以は、一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり、といわれ、衆生の機に応じて巧みな手立てをもって救済していくのが真の善知識であるとされる。
ここでいう善知識の菩薩とは、初地以上の菩薩であり真理の一分を明らかに体得している菩薩である。
究極的には、真理の全分を悟っているのは諸仏であるから、第十七願において阿弥陀仏の名号の徳を讃嘆する諸仏が第一真実の善知識であり、その諸仏の咨嗟讃嘆を通して、

十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。

と、阿弥陀仏の名号讃嘆と阿弥陀仏の信心を歓喜せしめるのが「第一真実の善知識」なのである。  
wikiarcより

 

正しい道理を教える者を善知識(善友ぜんぬ、親友しんぬ、勝友しょうう、善親友ぜんしんぬ)、誤った道に導く者を悪知識(悪友あくう、悪師)といい、単に知識というときは善知識の意とする。

例せば、華厳経入法界品には善哉童子の求道の過程に五五の善知識(一般に五三善知識という)に遇うことを説くように、どんな姿の者でも仏道に導くものは善知識であり、四分律巻四一には善親友は与え難いものを与えるなど七つ条件を具えている(善友七事)とし、智顗の摩訶止観巻四下には、外護(そとから見つめてまもる)、同行(行動を共にする)、教授(教え導く)の三善知識を説き、円暉の倶舎論頌疏巻二九には法を与えるものを上の親友、財と法を与えるものを中の親友、財を与えるものを下の親友とする(三友)。
真宗では念仏の教えをすすめるものを善知識というが、その人をただちに如来になぞらえて善知識は如来であるから善知識のみをたのめ、と主張する異計(異安心)は、「善知識だのみ」、「知識帰命」といって排撃する。また法主を、正しく法灯を継承した人として善知識ということもある。

『仏教学辞典』(法蔵館)より。

 

蓮如上人
 御文章二帖目
 五重の義
 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。 これおほきにあさましき次第なり。
そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。

これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。
またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。
これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明六年五月二十日]


 御文章一帖目
 電光朝露・死出の山路
 それおもんみれば、人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。

しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明五年九月中旬]

今、臨終の人に何と声をかける?

今、臨終を迎えようとしている人に何と声をかけるか。
ちょっと考えてみます。

キリスト教イスラム教はどうでしょう?
「アーメン」でしょうか?「アッラー」でしょうか?
その言葉で救われていくのでしょうか。
神をアッラーを「信じなさい」と言われています。
信じ切れない人はどうするのでしょう。
詳しい方がいらっしゃたら教えてください。

仏教はどうでしょう。
天台宗法華宗曹洞宗は「悟り」を求めています。
自力聖道門の教えです。
「南無観世音菩薩」あるいは「南無大師遍照金剛」などと称えることでしょうか。
臨終に「悟り」を得られていなければ「救い」はありません。
「悟り」を得られていなければ六道輪廻を繰り返すことになります。

浄土宗ではどうでしょう。
浄土宗は多念と思われる人が多いと思いますが、必ずしもそうではありません。
私の知り合いは称名をどう感じるか、どう頂いているかと言われます。
称名念仏をされるのでしょうか。

浄土真宗はどうでしょう。
「仏願の生起本末を聞く」という人がいます。
称名念仏」と言う人がいます。
阿弥陀仏をタノメ」と言う人がいます。

「今、臨終を迎えようとしている人に何と声をかけるか」
今、まだ阿弥陀様をタノメていない人に、次の瞬間に死んでしまう人に何と声をかけるのか。

一念往生が真宗の肝要です。(※1)

そして、善導大師の六字釈では、南無阿弥陀仏は願行具足と言われます。(※2)

私は今、臨終を迎えようとしている人には、耳元でお念仏を称えます。
本願招喚の勅命です。
聞即信です。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

追伸
現実には浄土真宗を信じていない人、ご縁の無いには無理でしょうね。

※1
そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。
もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

口伝鈔 覚如上人


※2
いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。
阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

観経疏 玄義分 六字釈 善導大師