前回の続きです。
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地獄秘事
自己の内省において地獄一定と堕ち切ることを条件として、必堕無間の後に大悲が知れるのだとの主張は、これまた二種深信における信機自力・信機正因の轍を踏む路線が敷かれるのである。
二種深信における信機正因説とは、わが機は地獄一定と堕ち切ることを絶対条件とするのであり、助くる法は弥陀の手元に成就されているから、これを眺める必要はない。もし法を眺めんとせば、そのことは法に手をかけることであって自力である。かえって眺めぬことこそが本願を深く信じていることであり、地獄一定と堕ち切ることが即信心であるとの論法である。即ち地獄一定と堕ち切ったのが機の深信、その時こそ、法の深信は求めずして来たるというのである。
現代における異義の研究(一)伝道院紀要14 特に「浄土真宗親鸞会」について 山田行雄
土蔵秘事(秘事法門)
質問攻めと議論で疲労困憊した信者を善知識が本尊のまえへ連れて行く。紹介した二人が信者の両手を取り身体を三回前後に揺らし、善知識が「これで三願転入した、間違いなく信心が頂けた」と宣言するなどである。
社会生活に適応できないほど信心というものがらに迷っている場合には、その状態から抜け出させる為にある意味で有用な手法ではあるがお節介である。
信因称報説のみを強調し、救いの法である名号を軽視する立場、悪しき一念義から派生する教義で土蔵秘事とも呼ばれる。
秘事とは秘められた儀式の行事の意味であり、浄土真宗の正当な行信の理解とは異質なものである事、そして参加者がその儀式を秘密にする為に言われる。
無帰命安心
「無帰命安心」というのは、阿弥陀仏は私どもを救わねば仏にならぬとお誓いくだされ、すでに十劫のむかし仏となられたのだから、私どもはすでに救われているのである。だが、それを知らなかったために今まで迷うていたので、そのことを知りさえすればそれでよい。いまさら阿弥陀仏に帰命するなどということは無用である、という説である。これは阿弥陀仏のお救いを観念的にとらえ、いま法を聞いて信心決定させていただくということを無視した誤った主張であります。
「やさしい安心論題の話」灘本愛慈著より
本願ぼこり
歎異抄第十三条は、「本願ぼこり」の人びとを批判している。「本願ぼこり」とは、悪事を犯したものをたすける本願があるのだから、意図的に悪事を犯そうとする人びとのことである。
ところが、『歎異抄』著者の批判の焦点はそこにない。むしろ、「本願ぼこり」を批判している人びとにこそ焦点を当てている。「本願ぼこり」を「悪人」とし、「本願ぼこりを批判するひと」を「善人」と考えれば、「悪人」ではなく「善人」に批判の力点がある。これは私たちを戸惑わせる。なぜなら、私たちの発想が「善人」と同化していたことが炙あぶり出されたからである。「善人の毒」のほうが「悪人の毒」以上に深刻だ、と『歎異抄』の著者は見ている。悪人の毒は目立つが、善人の毒は目立たない。毒は常に「善」を装って浸食するからである。
善知識だのみ
初期真宗教団において、親鸞の信心は必ずしも門弟たちに正確に伝わっていたわけではない。親鸞の「御消息」に一念多念の諍論や、いわゆる造悪無碍などを止めるものが見られる通りである。
親鸞の信心を忠実に継承していない教えの一つに、知識帰命と呼ばれるものがある。これは「特定の人物を善知識と仰ぎ、善知識が現実に現れた如来であり、如来は具体的に善知識に代表されるとして、善知識をたのみ、善知識から信心が与えられるとする主張」(真宗新辞典)であり、善知識帰命、善知識だのみなどとも呼ばれる。親鸞においては言うまでもなく、帰依の対象は善知識ではなく阿弥陀如来である。親鸞は法然に深く帰依し、決して善知識を軽んじているわけではないが、善知識に帰依して阿弥陀如来を忘却しているのではない。信心は阿弥陀如来「からその名号のはたらきによって与えられるのであって親鸞の教えは善知識帰命とは異なる。
黒田義道師(京都女子大学准教授)
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今回はどうしても一言付け加えたいところがあります。「地獄秘事」や「本願ぼこり」も大事なところですが、やはり「善知識だのみ」です。
この「善知識だのみ」は本当に根が深いと思います。なぜなら「善知識」と言われるだけで説く人はのぼせ上がってしまいます。また、法を求める人がこの人に付いていけば何とかなると思い込んだら最後、なかなかその思いを捨てることが出来なくなります。
さらに、その状況を悪用できると「えせ善知識」に悪意が目覚めることもあるのでしょう。そうすると法を求めている人はいわゆるマインドコントロール状態にされてしまいます。
善知識が善知識であるためには、法を良く聞かなければならないのです。法を良く説く人ほど法を良く聞く人と言われます。人のご法話を聞くだけでなくお聖教を読むことも大事なことなのです。
また、善知識は一人しかいないと思うのも大きな間違いです。
正しく法を伝えて下さる方は基本的に皆善知識です。間違いない法を伝えると言うことは七高僧と同じと言えます。
歎異抄第十三条に宿業の事が書かれているとおり悪知識とのご縁は宿業としか言いようがないのですが、悪知識に出会ってしまうとお浄土ではなく三悪道に落ちていく事になります。
しかし、一度悪知識に出会ったとしても、今正しい教えを聞かせていただいているなら必ずはっきりさせて頂けます。何故なら阿弥陀さまは必ず救うと誓われているからです。恐れることなく法を求めて下さい。
阿弥陀様は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を呼んで呼んで喚び詰めです。