今、まさにオリンピックの真っ最中です。
私も好きな選手を勝手に応援して興奮しています。
選手はそれぞれの思いを胸に4年間かそれ以上の時間と体力とお金のすべてをつぎ込んでたった一度のチャンスに賭けています。
それで本当に何が得られるのか、地位や名声や財産を築くことも出来るでしょうが、そんなことよりとにかく勝ちたいのか、いずれにしても何か分からない大きなものが手に入るのかもしれません。
ある人が言っていましたが、そこに立たないと見えないものがあると。
ある頂点に立ってみて始めて見えるものがあるのでしょう。それを得ようと必死で努力している姿は我利我利亡者と言えるのか、私はそうばかりとは言えないように思います。
どうしても彼らの努力は無駄ではないと思ってしまいます。何を得るか分からないが何かあるに違いない、本当は何も無かったことに気づくかもしれないがそれでも努力する姿は尊敬にこそ値する姿だと思います。
そんなことは分かっていると言われる方は多いと思いますが、やはり自分の人生と比較して我が身をもっと向上させたいと思わせてくれるのですから大事だなと改めて思います。ちょっと大げさに言えば日本人のアイデンティティを向上させるのではないかと思います。
翻ってご信心を頂きたい、後生の解決を人生賭けてしたいという思いはどうでしょうか。オリンピック選手ほど命がけの求道をしたのか、夜も寝ることが出来ないくらい悩んだのか、様々な思いが沸いてきます。私は私なりに人生を賭けて求めていると言われる方も多いと思いますが、私はオリンピックの選手を見て自分の求道を振り返ってみたとき甘ちゃんだな~と思わずにおれませんでした。
オリンピック選手の道は聖道門の道なのでしょう。
親鸞会において、活動を必死にされていた人は沢山います。私など嫌々参加していたくらいですからどうしようもありませんが、一生懸命活動されていた方は、それは本当に尊い姿なのかどうかを思い返してみたとき、一つ大事なことに気がつきます。正しい道か、そうでないかの違いです。
オリンピック選手の道は世間的価値から言えば正しい道です。親鸞会の活動は世間的な価値から言えば正しくない道です。
何が正しくて何が間違いかは言うまでもありません。
では、仏様の目から見たらどうでしょうか。
残念ながらオリンピック選手より親鸞会の方が阿弥陀様には近いと思います。あくまで比較の基準が後生の一大事の解決とした場合ですが。
しかし親鸞会にいてはいつまで経っても救われることはありません。なぜなら求める方向が違うからです。そうすると親鸞会の方が後生の一大事の解決について近道なのかどうか分からなくなります。オリンピック選手が無常に気づき後生の解決を求めて本山に駆け込んだなら一番近道になるかもしれません。
では、後生の解決は行き当たりばったりなのでしょうか。
答えはすべて阿弥陀様によるお導きでしょうが、この世にいるかぎり自分の意思で求めるべきだと私は思います。いかに軟弱な根性だとしても、最後は阿弥陀様のお力で必ず救って下さるとしてもです。自分の思いなど全く役に立ちませんが、後生の解決、気になってしまったのですからそれを放っておいてよいわけがありません。
求道の動機は、非常に打算的なものだったかもしれません。また、オリンピック選手のように必死に求道したのかどうか私については疑問符は付きますが、それでも求めずにはおれませんでした。
そして、たまたま、ほんとうに、たまたま、道を歩いていたら躓いて気がつかさせられた、そんな程度にしか思っていないのが私ですが、そこに阿弥陀様の願いがかかっているのではないかと思います。その一瞬をずーっと待っておられたのではないのか。
阿弥陀様はオリンピック選手の気持ちとは比較にならないお力で私と取り組まれていたのではと思います。負けても負けても今度こそ、今度こそ信を与えてやると何度も何度も私に向かってきたと思うのです。
それも何度も何度も生死を繰り返している私に対してです。
申し訳ないやら、もったいないやら。
私はそんなことも分からずにこちらがオリンピック選手になったようにうぬぼれて阿弥陀様に向かっているのですから。自力一杯求めているそのことが良いのか悪いのか分かりませんが、この大矛盾に気がつくのは大変な事です。
自力無効とはこのこと。
南無阿弥陀仏しかありませんね。