人間は命を頂かないと生きていけません。
命のあるものを体に取り込まないと生命力を維持できません。
タンパク質を生成し続けていかないと有機体を保つことが出来ません。
とにかく命と呼ばれる物を毎日毎日死ぬまで体に取り込んでいます。
赤ん坊を見ているとものすごい生命力を感じます。自分の環境を常に最高に保とうと泣いたりわめいたりあらゆる手段を駆使して生きています。
そこには感覚とかでなくとにかく生きているという圧倒的な実感をこちらに与えてくれます。あ~、生きている、間違いなく生きていると赤ん坊を見ていると思います。
私が生きていることの実感よりも赤ん坊を通して私が生きていると思わされることの方が大きいような気がします。
では、阿弥陀様の救いはどうでしょうか。
私に実感があるのか、無いのか。
実感というと生きている実感、愛されている実感、嫌われている実感、恐れている実感、怒っている実感、憎んでいる実感、欲している実感などなど感情と呼ばれるものに心はころころと動いていることが分かります。
この感情の動きに関しては十分に実感があります。
そういうものには非常に敏感に反応するのですが、南無阿弥陀仏とか阿弥陀様と言われると「はて????」と考え込んでしまいます。
ところがこの仏様、私にあらゆる手段を使って何かを感じさせようとしてきます。
私の場合は、「死ぬのが嫌だ、人生何のために生きているのか」、などの命題を私に与え、この世の中の迷いの状態を知らせてきます。それに答えるように、また、何かに引きずられるようにボンクラな頭はいろんな物に興味を示し、自分が楽になれるものを掴もうと動き回らせられます。
そこでまた自分が楽になる世界を探し、示され、求めていきます。
そうこうしているうちに何処にも私の中に私を楽にさせる種がないことに気づかされ、手放しで自分を阿弥陀と呼ばれる仏様にお任せさせられます。
そこには自分から何かした実感は全く有りません。
しかし何かされた実感と言うよりも納得するなどという感覚に近い反応に気づかされます。
それでももっとハッキリした実感があるのではないかといろんな事をやってみたり思ってみるのですが、どうも無駄であることにまた気づきます。これは実感というのかどうか分かりませんが、気づきます。
たとえば彼女になぜ振られたのか分からなかったことが、あるとき「あ~、あれでは振られて当然だ。」と気づかされたようなものです。
さて、実感とは真にいい加減で有りながら普段無意識に感じていることかもしれません。
愛しているとか愛されている実感も実はいい加減な思い込みなのかもしれません。
そうすると実感とは一体何なのか、よく分からない感じしか残らないと思います。
そんな心の動きに一喜一憂することなく自分が今すべきことを冷静に考え行動できたらいいのにな~と思いますが、無理ですかね。