とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

逃げるものを捕まえる

信心を求めていろいろなブログを通して、最後にぶち当たるのが「どうして救われないのか、ただ今の救いが分からない、阿弥陀様が分からない」あたりではないかと思います。

阿弥陀様は現在、ただ今、落ちるそのままの私を救うと言われているのに、

どうして今の私は救われていないのか、又、救われていないと思うのか。

 簡単に言えば救いの手の中にいながら、そのことを拒絶しているのです。

よく言われることですが、妙好人庄松同行にある人が摂取不捨とはどういうことかと聞かれたときです。

以下は、有名な話です。

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庄松さんがあるお寺に泊まっていたとき、住職が「摂取不捨ということばがあるが、あれはどういうこころじゃ」とたずねると、庄松さんはいきなり立ち上がり、「それは、こういうことじゃ」とさけぶと、両の手を広げて、住職につかみかかろうとしたそうです。
 ビックリした住職は、あまりにもむつかしいことをたずねたので、庄松さんがのぼせたと思い、その場を逃げ出したそうです。
 しかし庄松さんは両手を広げたまんま、そのあとを追いかけます。
 本堂から後堂へ、後堂から庫裡(くり)へ、逃げても逃げても庄松さんは追いかけてくるので、いよいよ気味が悪くなって、とうとう一番奥の行灯部屋(あんどんべや)へ逃げ込み、戸を閉めてかくれていました。

ところが後を追ってきた庄松さんがそれに気づき、戸を引きあけるなり、部屋一杯になるほど両の手を広げると、逃げ場を失って、小さくなっている住職に「もう逃げ場はないぞ。摂取不捨とはこれなり」といったと聞きます。
 そのとき初めて住職は、逃げて逃げて、逃げまくるわたしを、ついに追い詰め逃がしたまわぬのが「摂取して捨てず」とおおせられたことかときづいて、大いによろこび、庄松にあつくお礼をいったということです。

妙好人のことば」梯實圓師著 法蔵館

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ようするに自分では法を求めていると思っているのに、実は逃げている。

簡単なのが「どうして自分が救われないのか。」とか、「なんとか成らないのか。」とか、「どうしても分からない。」とか・・・。

これらはすべて阿弥陀様の救いを疑っている姿そのもので、自力の心一杯の状態です。

自力一杯の状態は、自分の心をなんとか変えようとしている状態です。

たとえば、法を聞いて何とかするとか、お念仏を称えて何とかするとか、あるいは心静かに黙想をして仏を思うとか、なんとかすればなんとか成るだろうと思って行う行為すべてです。

これは、20願の状態とも言えます。

18願に対して、20願の状態でどれだけぶつかったとしても得られるものは、20願で誓われたものです。しかし、その20願もどこまですれば20願で得られる状態まで行けるのかどうか分かりません。

20願は化土往生出来ると言われていますが、正念往生あるいは臨終来迎が条件だと

言われています。つまり死んでみなければ分からないということです。

それでもやはりこの心何とかしたいという思いは消えません。

いろいろな思いが出ては消え、出ては消えを繰り返し結局何も変わっていないではないかと振り出しに戻るのですが、そもそも自他力廃立が要なのですからそこは全く変わらないのです。

何か変わるかと思ったら私は何も変わらなかったと言うことです。

仏法を知る前と知った後の私は何も変わらず、ずーっと凡夫のままなのです。

人は成長はしますが凡夫の本性は変わりません。そのことを阿弥陀様から教えて頂いています。

その何も変わらない凡夫の私がお目当てなのです。

だから、落ちるそのまま、と言うのですが、・・・・・・・。

それでも分からないと言う、その姿が逃げていると言われると「は?」と成るのでしょうね。

阿弥陀様は今も現在ただ今落ちるそのままの私を救うと呼んでおられます。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏