「学仏大悲心」
行信教校の一枚看板です。
・・・仏様の大悲のお心を学ぶ・・・
賢い坊さんで無く、有り難い坊さんを育てる所と言われています。
大阪の高槻市にある真宗僧侶の為の学校ですが、私にとっては梯実圓師の出身校として畏れ多いところと思っています。
数年前、私のたまたま知り合った人がそこに入学しました。
最初は信心を獲られず悩んでいましたが、最後は南無阿弥陀仏しか無いと言われ自信を持って行信教校に行かれました。
まだ若い方だったので、これから梯先生みたいな人になって欲しいと願っていました。
今は全くどうなっているのか分かりませんが、きっとすばらしいお坊さんになっていると思います。
そして、行信教校そこは間違いなく行と信を学ぶところなのでしょう。
南無阿弥陀仏の教えを徹底させて頂ける場所としては、個人的には最高の場所ではないかと思います。
行信教校の行信は奥深い名前だなと思います。
行は当然「南無阿弥陀仏」のことです。
阿弥陀経を始め、善導大師の六字釈、法然上人の念仏為本および親鸞聖人の信心正因称名報恩など行についていろいろな解説がなされています。
行には称名と名号の二つの解釈がありますが、とりあえず南無阿弥陀仏と称えることが行とします。
また、行は大行とも言われ、最高の善でありこれ以上の行は無いと言われます。
一声称えるごとに罪が消えていくとも書かれています。
信は「南無阿弥陀仏のお心」と言うことになります。
阿弥陀様のお心とは、仏願の生起本末ですから南無阿弥陀仏のおいわれであり、第18願を中心としたお心と言うことになります。
さらに信は行と一体ですので信を離れた行も無く、行の離れた信もありません。
ですから信は「南無阿弥陀仏」そのものと言うことになります。
余談ですが、信心には空華派と石泉派がありますが、最近はごちゃ混ぜになっているようだと聞きました。
本願寺派はどちらかというと空華派が主流であると言われています。
行信教校は空華の流れをくんでいます。
三業惑乱で有名な安芸の大瀛は石泉派です。
空華派は絶対他力を基本として我が身は凡夫であると言われます。
石泉派は、称名に重きを置き、ご信心を頂けば心は清浄になると言っています。
実際はもっと複雑ですが、この違いが正直言うとよく分からないな~と言うところで、あまり首を突っ込まないようにしています。よく分かる方がいらっしゃったら解説お願いします。
いずれにしても信心を頂いたか頂かないかは自分と阿弥陀様の関係であり、それが三業にどう現れようが人それぞれかなと思います。
ついでに、三業惑乱にしても三業帰命説がすべてでは無く、そういう人もいるかもと言っていれば何の問題も無かったのですが、功存上人の願生帰命弁の一部を智洞がさらに本山中心に進めた結果混乱を極めたと書かれています。願生帰命弁はもともと無帰命安心を批判したものでしたので、それを利用して自分の勢力拡大をしたのかなとも思いますが今となっては何がなにやらさっぱりです。
三業惑乱を通して個人的に思うのは、三業帰命説的なのが高森顕徹会長の主張する信心(信ずる心一つと言いながらハッキリした体験が必要と強調する)であり、それは一念覚知の異安心的ではあるものの、それをすべて否定するのは本願ぼこり的でありどちらも違うなと感じます。(参考1)
また、宗教的体験は人それぞれにあり、それが上記のような考えに当てはまる場合もあるでしょう。そうすると右だ左だという議論になっていくのでしょうか。
その議論に答えを出すのが行信教校のような所ではないかと思っています。
まあ、議論されるのはどっちでもいいんですけど、現在、ただ今、落ちるそのままのお救い、南無阿弥陀仏が阿弥陀様の呼び声は変わりませんので私はそれで良いかなと思っています。
後は面々の御計らいです。
参考1
「覚もよし、覚えぬもよし、共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」と本山の解釈もあります。(鮮妙師:意業非意業之論)
大瀛師・道隠師の所論には信一念は非意業(離三業)であるとの主張がみられ、以後は大体これに倣って、信一念は非意業で不覚であるとの説がなされている。(紅楳英顕師)