阿弥陀様におまかせと言われてもどうしたらよいかさっぱり分かりません。
かといって自力かなわで流転せりとなるのも嫌です。
でも、やっぱり分からない、どうしたら・・・、このどうしたらが何ともなりません。
ひとつの譬えです。
あくまで譬えなので100%ではありませんが、譬えの奥を考えてもらいたいです。
まかせるとは、たとえば以下のようなものです。
船で航海中に海に投げ出されて始めて泳いだ人がどうしていいか分からずに海の中でもがき続けています。
時間が来れば間違いなくおぼれて死んでしまいます。
ところがどこからか「身体の力を抜け」と何度も声がかかります。
誰かは分かりませんが、何度も何度も声がかかります。
それでも「おぼれてしまう、沈んでしまう、嫌だ、嫌だ」ともがき、さらに苦しくなってきます。.
「死んじゃう、死んじゃう、嫌だ、嫌だ。」
それでもどこからか「力を抜け、海に身をまかせよ」と何度も何度も声がかかります。
「海に身をまかせたら沈んでしまう、嫌だ、嫌だ、嫌だ~!!」
それでもどこからか「まかせよ、まかせよ、間違いないからまかせよ」と声が届きます。
「もう、駄目だ、もう、駄目だ、もう、死んじゃう」
そして、なぜかしらふっと身をまかせたら、最初は沈んでいきますが、後でぽっかり浮かんで自分の目の前に青空が広がっています。
沈むそのままが、浮かぶのです。
沈むは自性、ところが沈ませてなるものかと海が貴方を支えているのです。
何を例えているのか分かると思います。
南無阿弥陀仏はそのまま来いなのです。落ちるそのまま来いなのです。
信心決定など出来る出来ないは問題ではない。
阿弥陀様の思いを、呼び声を聞くか聞かないかの方が問題です。
阿弥陀様の思いは、呼び声は、「お前は落ちる奴だぞ、だからまかせよ、心配するな」と南無阿弥陀仏になって叫び通しなのです。
南無阿弥陀仏が呼び声なのです。
それをそっくりそのまま聞くことが一番大事なのです。
まかせる、そのまま、落ちるそのままです。