称名念仏とは、南無阿弥陀仏と口で称える口称念仏であり、阿弥陀様を讃談するお言葉です。
阿弥陀様の御本願は、簡単に言えば私に称名をさせてみせるというお約束です。
その称名によって私が救われていくのです。
ただ、そこには大事な「聞」があります。「聞」の抜けたお念仏は聖道門のお念仏と成ってしまいます。
経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る。(『歎異抄』第十二条)
「お経やその注釈を読んで学ばない人たちは、往生することが定まっていないということ。これはまったく言うに足らない理屈である。他力真実を明らかにしている諸々のお経や注釈は、阿弥陀さまの本願を信じ、念仏を称えるなら、仏となることができると説かれている」
(私釈)
お経や注釈を読むだけでしっかり学ばない人は信心が無いというのは全く問題外の理屈である。お聖経には阿弥陀様の御本願を信じて、お念仏を称えるなら仏に成らせていただくとしか書かれていないのだから。だから勉強していない人は信心がないと思うのは間違いで、本願を信じてお念仏する人は必ず仏に成る。
ここに称え心は「本願を信じ」と説かれています。
どんな気持ちでお念仏を称えたら良いのか、などという疑問は自力一杯の姿そのものです。
では、どう称えたら良いのか。
それも自力の心です。
「本願を信じ」称えるお念仏とは、阿弥陀様の御本願をそのまま受け入れて称えさせていただくお念仏なのです。
ですから沢山称えたお念仏で何とかなるというものとは異なります。
また、お念仏に自力も他力もありません。自分で自力、他力と区別を付けているだけで真実の塊がお念仏であり、それが南無阿弥陀仏です。
だから、善導大師から法然上人、親鸞聖人、そして蓮如上人も称名念仏を勧められています。
観無量寿経には称えることにより私の罪科が消えると書かれています。
不思議のお念仏です。
蓮如上人は御文章でも御一代記聞書でもお念仏を勧められています。
ただし、御文章で勧められているお念仏は信後の報恩のお念仏ばかりです。
ただ、信心から沸いてでるお念仏は真実の塊であり自然法爾のお念仏であり、私の計らいを超えたあるがままの自然のお念仏なのです。
信心とは私の信心では無く阿弥陀様のご信心が私に印現されたものです。
たとえば太陽を私のものにすることは出来ませんが、太陽の光に当たっているわたしは太陽の光を受け、太陽そのものの働きをそのまま受けていると言えます。
その姿を俯瞰したとき、太陽と私は同期していると見えないでしょうか。
光がお念仏だとすると、私が光を受けてお念仏をしている姿は信心を頂いている姿そのものと言えます。
ところが私が称えているお念仏にけちをつけているのが自力です。
光の元にいながら、お念仏を称えながら「このお念仏は違う」と自分で思っているだけなのです。
だから、その心「自力」を捨てよと言われているのです。
創価学会では題目をとにかく称えろと言われています。
題目を称えれば幸せになると教えられます。
浄土宗も同じように称名を重要視します。
真宗は、称名念仏も大事ですが一番大事なものは信心と言われます。
信心正因のいわれです。
だから真宗ではとにかくお念仏をしなさいと言う人とそうで無くまず信心を頂きなさいと言う人が出てきます。
どちらも大事なことですが、お念仏を沢山称えてもそれで救われると思うのは大きな間違いであることはご承知の通りです。
そうは言ってもお念仏(=南無阿弥陀仏)によって救われるのですからお念仏をおろそかにすべきものではありません。
御本願も「乃至十念」と誓われています。
ですから、個人的には称え心など気にせず称えさせていただく事が大事だと思います。
松並松五郎さんのことを思い出してください。
お念仏を称えさせていただくところに「聞」のお心があり、そのお心を聞かせていただいたお礼が南無阿弥陀仏となっているのです。
阿弥陀様のお心聞かせていただくとは、南無阿弥陀仏を称えさせていただく事と同じだと思うのです。
阿弥陀様のお心とは南無阿弥陀仏のお心であり、「現在、ただ今、落ちるそのままの私を必ず救う」と「南無阿弥陀仏」となって私に届いている呼び声なのです。
お念仏は、私の想像を絶する世界からの呼び声なのです。
その世界から私に届いている御念仏と出会わせていただいたら、称えずにいられなくなります。
注:下品下生(観無量寿経)
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
御一代記聞書
勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。