とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

臨終間際にお念仏を称えたら本当に往生できるのか?

みそみそさんからご質問を頂きました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

みそみそ

以前、瓜生崇さんの法話を聞いて 下下凡の凡夫は臨終に南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できると聞きました 今際の際に南無阿弥陀仏と唱えるだけでホントに浄土に往生できるものなのでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
みそみそさんが苦しまれていることはよく分かります。
どうしてもハッキリしない。信じ切れない。信心頂いた感じがしない・・・。
ならば、臨終に念仏を称えれば何とかなるのかと思うのも無理ないことです。
「下品下生の凡夫は臨終に南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できる」は観無量寿経に説かれていますので間違いないことです。
しかし、いつ臨終になるか分かりませんし、臨終の時頭がハッキリしているとも限りません。
 
解脱の光輪きわもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ
 
ここでは、阿弥陀様の光にあったものは有無の見から離れることになると言われています。言い換えれば、お浄土がある、無い、の考えをはなれると言うことです。
あろうが無かろうが問題では無いところにお浄土があると大峰顕先生も言われています。
 
個人的には、そうかもしれないな~くらいです。
この間風邪を引いた夜、鼻が詰まって息苦しくなって目が覚めたとき、このまま息が出来なければ死んでいくのかと思ったら行き先が真っ暗でどうしようかと思いました。阿弥陀様はどこにおられるのか一生懸命探しましたが、ああ、お念仏かと思い出したぐらいです。
私には何も無いのだとあらためて思いました。
「そんなんで本当に信心決定していると言えるのか」とおしかりの声が聞こえてきます。
済みません、こんな程度で。
死にたくない、苦しいのは嫌だと思いました。
しかし、このまま死んで行くだけなんだと受け入れざるを得ない自分がいました。
結局、苦しいのは嫌なので死ぬならぽっくり死にたいと思ったのですが、これも煩悩かもしれません。
死は生と裏腹で常に表裏一体、生死一如です。
「そんなこと知っている」と言われるでしょうが、やはり私は忘れっぱなしです。
まして、お浄土など考えも及びません。
 
江戸時代、臨済宗に仙厓義梵和尚という高僧がいらっしゃいました。
亡くなる間際に檀信徒や弟子たちから、辞世の言葉を求められたので、すると仙和尚は「死にとうない」という一言だったのです。
名僧の最期の言葉がこれでは困ると思い、弟子たちがもう一度うながすと、やはり「死にとうない」という言葉が返ってきます。
あわてた弟子たちが、「いえ、ご冗談ではなく、どうか本当のお言葉を......」と、さらにしつこく念を押すと、仙和尚は、繰り返し「ほんまに、ほんまに死にとうない」と言ったという逸話が残されております。
 
これが本当に死にたくないと恐怖で言っているのか、それとも、分かった上で言っているのかは分かりませんが、死の縁無量です。どんな死に方をするか分かりませんが、個人的感想ですが自分の行き先を分かった上で言われていると私は思います。
嶋田さんは「思い残すことは無い」と言われて亡くなっていきました。
それでも臨終はどうだったのか分かりません。
その時は死にたくないと思われたかもしれません。
行き先とは別に、死苦は逃れられない苦しみの一つなのです。
 
死に際して、自分がどうなるかなんて全く分かりません。自分の意思で生まれてきたという自覚はありません。まして、いつ死ぬかも分かりません。
だからこそ阿弥陀様が今私に呼びかけておられるのです。
自分には信じる心も、念じる心も、求める心さえ無いのです。
その私が何の御因縁かお念仏を称えさせていただいています。
お念仏は捕まえようと思っても捕まえることは出来ません。
なにせお浄土から届いているのですから。
お念仏にお任せしたら、そのままお浄土行き決定、正定聚不退の身となります。
お浄土行きの一番近道はお念仏です。
お任せするしか有りませんね。