とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

落ち機を知る、お慈悲を知る

落ち機を知る、お慈悲を知るとは、真宗独特の言い方です。
二種深信の言い換えですが、分かりやすく言い換えたものと言えます。

まず、落ち機を知るの方です。
別の言い方では、自力無功を知ることであります。
また、自他力廃立のことでもあります。
つまり、仏の覚りを開くために自分の能力で仏に成ることは出来ないことを自覚することです。あるいは、自分の力で後生の解決出来ると思っていたが、大きな間違いであった、すべて阿弥陀仏のお陰だったと全分他力になることです。

・・・そんなこと自覚していると思われる方もいるかもしれませんが、この自覚については仏様から教えて頂くことで自覚出来ることですので、「知った、覚えた」の自覚との違いがあります・・・

聖道門において仏の覚りを開くためには、八正道をしなければなりません。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つの実践的行動のことで、この行によって涅槃の位に入ることが出来ます。
当然ですが、聖道門系の宗教ではそれを目指しているのです。
聖道門の一番代表である比叡山では、八正道はじめ、常行堂で念仏三昧の行を行ったりしています。
また、ご存じの通り千日回峰行も行っています。
勿論、聖道系の方がすべてその行を行っているわけではありませんが、我が身の能力を考えたとき、とても出来るものではありません。

一方、浄土系の仏教、特に浄土真宗については聞法を勧めます。
仏に成ることを目指すのは同じですが、聞法により阿弥陀仏という仏様に帰依(帰命)することを目指します。
阿弥陀仏という仏に帰依することによって、今生は無理ですが死後必ず仏に成る身にさせていただくのです。
これを「後生の一大事の解決」や「信心決定」と言われたりします。

そこで阿弥陀仏の本願のいわれを聞法します。
蓮如上人は「後生の一大事」とか「信心決定」と言われました、このことを聞法によって解決していきます。
ところが後生の一大事(信前は、死後、地獄に落ちること)、信心決定がある、その解決は「聞く一つ」の言葉に誘われ聞法に励むのですが、その、「聞く一つ」がなかなか出来ません。

「聞く一つ」で後生の一大事が解決出来ると言われましたが、全く分かりません。

仏教の聞き始めは、自分が悪いことをしているとは思っていません。
ほとんどの人が自分の事を善人としか思っていないでしょう。
少し仏教が分かってくると、悪いかもしれないが聞法しているのだから死後、そんなに悪いところには行かないかもしれないと思います。
ところが自分の後生を考えると不安になりどうも落ち着きません。
忘れていても忘れられない。
困ったことになります。
また、聞法していれば何とかなると思う心はこびりついて離れません。
そうこうしていると何が何だか良く分からなくなります。
仏に成りたいなんて思わないし、そんなことどうでも良くて、今のこの苦しみ(何だかよく分からない漠然とした不安)を取ってくれとしか思いません。

そして、何が分からないかと言うと落ち機が分かりません。
自力無功が分かりません。
自他力廃立が出来ません。
自分が分かりません。
阿弥陀様に楯突いている自分が分かりません。
お慈悲を無下にしている自分が分かりません。
仏様を拒否している自分が分かりません。
仏教を信じていない自分が分かりません。
自分が地獄行きと思えません。
罪悪深重とも思えません。
今死ぬとは思えません。
これらの事に気付かされたとき、あるいは、何が何だか分からないことに気付かされたとき、駄目な自分に向き合うことになります。
ところが、これらのことは何度も何度も聞かせて頂いていいるのですが、分からない時は全く分かりません。

一体、何が分からないのか分からなくなってしまいます。

罪悪感や無常感をとりつめるのも一つの方法ですが、自分に合う人はやられたら良いでしょう。しかし、あまり自分を責めて辛くなるようなら止めた方が良いと思います。
さらに「身調べ」という方法もありました。最近はあまり言わないようですが「内観法」という方法で落ち機とお慈悲を知るやり方です。
具体的には、自分の生まれてから今までの出来事を一つ一つ確認していく方法で、段階的に行う方法と聞いたことがあります。

一方、「落ち機を知る」、これを仏教を説く人が、
「お前には力が無い」
「何をやっても駄目だ」
「罪悪の塊だ」
「地獄行きだ」
「だから、知識の言うことを真受けに聞け」
となると、機責め、マインドコントロールまっしぐらになってしまいます。

「お前には力が無い」
「何をやっても駄目だ」
「罪悪の塊だ」
「地獄行きだ」
これらの言葉には、主語を説明する言葉があります。
「仏の覚りを開くためにする修行」、「生きていることは命の犠牲の上に立っていること」、などがそうです。
その事をどれだけ聞かせていただいていても「ふーん」と言う位にしか思わない「その自分」に気付けと言われているのが、「落ち機を知る」ということだと思います。
人によって、深い、浅いはありますが、ここは二種深信の「機の深信」にあたり大事なところです。

他にもいろんな言い方はありますが、結局「自力無功」のことを知らせるためにいろんな言い方を昔からされています。
分かっているようで分かっていないのが自分のことであり、それが我が身の立ち位置です。
どこに自分が立っているのか、冷静に考えたら結構危ないところにいるのが分かります。
しかし、そんなこと全く関係なく、蛙の面にションベン状態で毎日生きています。
それが、そのまま、自力無功の姿です。
何一つ捨てることが出来ない自分、すべてを我が物にしたいと思っている自分と出会った時、無力感に襲われます。
その私が「落ちるそのまま」なのです。

ちょっと個人的感想も入っていますが、私はそう思います。

次にお慈悲を知るですが、あちこちのブログで阿弥陀様を讃談されていますのでここでは簡単に説明します。

ここでのお慈悲は、阿弥陀仏の慈悲の事です。
阿弥陀仏が地獄で苦しんでいる私を救う為に南無阿弥陀仏という名号を造られ、それをそっくりそのまま、私に回向してくださっていることです。
六道を何度も何度も経巡っている私に迷いの打ち止めをさせてやると誓われたのが、法蔵菩薩の願心であります。

南無阿弥陀仏の中にすべて封じ込めた、我が名を称えよ」と私に呼びかけられているのが南無阿弥陀仏です。
そして、阿弥陀仏は私を助けるためにあらゆる手立てを駆使して、南無阿弥陀仏を回向してくださっているのです。

簡単に言えば、人間に生まれさせ、南無阿弥陀仏を称えさせることです。
その力によって、現在私が南無阿弥陀仏を称える身にさせていただいています。

その事の一部でも、「そうだった」と知らされることがお慈悲を知ると言うことです。
これも人によって深い、浅いはありますが二種深信の「法の深信」にあたり大事なところです。

落ち機を知る、あるいはお慈悲を知るのどちらからでも後生の問題は解決出来ますが、共に知らされるものであり二種深信であります。

 

現在、ただ今、落ちるそのままです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏