とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

自分の信心は間違いない!?

高森顕徹会を退会後は、ご信心が早く欲しくて欲しくて仕方ありませんでした。

どうしたらご信心がいただけるのがあちこちのご法話を聞きに行ったり、御著書を読みあさりました。

とにかく早くハッキリしたいと思っていましたが、知らされたのは自分の力ではなんともならない世界だったということ、そしてすべて阿弥陀様とのご縁だったということに気付かされたときから、自分の周りの世界が変わって見えてきました。

しかし、しばらくして何も変わっていない自分に気付き、どうしようもない思いになってきました。

結局、悪業しか出来ない、何一つ善行など出来ない自分に阿弥陀様のお念仏が届いていることが不思議でしかたありませんでした。

そうこうしているうちに何人かの退会者と話すご縁がありました。

彼らと話していると以前の私と同じように迷っているのが分かりました。

なんとかしなければと思いあれこれ話をしました。

当然、本人もなんとかしなければと思いあちこち聞いて回ります。

すると不思議なことにご信心を頂いていく人が現れてくるのです。

不思議としか言いようが有りません。

そして皆、一様に一味の世界を語り出すのです。

これはとんでもないことでした。

そのうち自分には何か不思議な力があるのではないかなどど自惚れ出します。

さらに自分の信心は間違いないと思い込みます。

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阿弥陀仏は絶対真実だ、それが今自分に届いている。

善も悪も何一つ分かっていないこの自分という存在も事実。

真実のかけらもないのが自分。

これが真実信心だ。

仏凡一体だ、南無阿弥陀仏

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しかしです。

頭がぼけたら南無阿弥陀仏さえ忘れてしまうかもしれません。

それに本当に阿弥陀様を信じているのか分からなくなりました。

法話を聞かせていただいても、有り難いのですが、さて後生はと考えるとこちらには何も確かなものは無い。

自分はそんな確かな頭脳の持ち主なのか。いやいや、いい加減な能力しかありません。

それどころかこの頭は腐っている、迷っている、信用できない。

疑問がどんどん広がっていきます。

 

信心とは何か、本当に分からなくなります。

信心よりも今の生活をきちんとしなければなどと、今生第一主義になっています。

楽しく毎日過ごしたいと思うのです。

美味しいものが食べたい、財産が欲しい、楽しく一日を過ごしたいなどなど物心ついたときから何一つ変わっていません。

どこどこまでも煩悩具足の凡夫です。

 

確かな信心なんて私にはどこにもありません。ちょっと仏教の知識がついただけです。

それまでがひどすぎただけですので、皆さんに教えて頂いた本当の阿弥陀様の御本願をお話しすれば、後は阿弥陀様のお力で信の花が開いていくだけなのです。

最近は、そう思っています。

赤尾の道宗の言葉が今に響きます。

 

かへりみすこしやうの一大事ゆたんしてくれ候な。わかこころへ(下段に現代語訳等)

 

それでも以前の自分には戻れません。

以前の自分がどれだけ暗闇にいたのかさえ忘れてしまっています。

自分の後生、本気で心配していたのか今では怪しく思います。

不思議ですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

尾道宗二十一箇条覚書

現代語訳
二一、思えば、嘆かわしいわが心だなあ。後生の一大事を成し遂げ得ることならば、一命を ものの数 とも思わず、善知識の仰せなら、「何処の果て へ も 行け」と申されても、背きますまい という決心をし、また、唐や天竺まででも、仏法を求め、お訪ね申したい と 思う覚悟でいるのに・・それ程までに 思い切ったわが心 であるのに、それに比べてみれば、如来様の仰せに従い、一心一向になって法義をたしなむという事は、さて さて たやすいことではないかい。よくよく考えてくれよ、わが心よ。この世は、しばらくの仮の世で、久しくおれる所ではない。そうしてみれば、この世においては、飢え死に しても かまはぬ、また、凍え死に しても かまわぬ。それを省みずに、ただ 後生の一大事に油断をしてくれるな。わが心よ。返す返すも、今 申すところに、違わず、わが身を責めて、たしなみぬいてくれよ。どこ どこまでも 国や所の掟 や 規則に背かず、しかも内心に一念帰命の信心の頼もしさ、ありがたさ を しっかり持って、外相は、深く謹むように仕向けてくれよ。わが心よ。
 
原文
二一 あざましのわかこころや、こしやうの一大事をとけへき事ならは、いちめいをももののかすともおもわず、おうせならは、 いつくのはてへなりとも、そむき申ましきしんちうなり。又たうてんちく(唐天竺)へなりとも、もとめたつねまいらせ候はんとお もふ心にてあるものを、これなとはおもひきりたるにか心たてあるに、おうせにしたかい、うしろくらくなくほうき(法鏡)をた しなみ候はん事は、さてやすきことにてはなきかとよ。かヘすかへすわかこころこんしやうは、一たんなり。いまひさしく もあるへからす、かつひてもし(死)に、又はここヘもしね、かへりみすこしやうの一大事ゆたんしてくれ候な。わかこころへ かへすかへすいま申ところちかわす、身をせめてたしなみをきり候へく候。かへすかへす御おきて、はつと(法度)をそむかすして、 しかもないしんには、一ねんのたのもしさ、ありかたさをたもち候て、けさう(外相)にふかくつヽしめ申てくれ候ヘ。わか心ヘ。