とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

当面読みについて

浄土真宗には当面読みという言葉があります。
あまり聞き慣れない言葉です。
調べてもあまり出てきません。
21世紀の浄土真宗を考える会 くらいです。
そこにも書かれていますがお聖教を普通に読む、書かれたままを通常の読み方で読むというものです。
英語ならば文法通りに読むということです。
親鸞聖人が経典を読み替えられたのは有名です。
読み替えるだけで無く、お釈迦様の御本意を独特に解釈するのが浄土門の根本的な、根源的な所です。
七高僧方はそれぞれ特徴が有ります。
たとえば龍樹菩薩は十住毘婆沙論にお釈迦様のみ教えに難行道と易行道の二つがあることを明確に表しました。
このように親鸞聖人もお聖教を読み替えています。

善導大師 散善義
「不得外現賢善精進之相」
普通に読むと、「外に賢善精進の相を現じて内に虚仮をいだくことをえざれ。」となりますが、

親鸞聖人は、「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、内に虚仮を抱けばなり。」と読まれました。
高森顕徹会でもよく引用されていました)

善導大師 二河白道の譬え
「能生清浄願往生心」
「生」を普通に「生ず」と読むと「白道」を自力と解釈してしまいます。
親鸞聖人は「能生清浄願往生心」の「生」を「生ぜしむ」と読み替えられ他力であると解釈されました。

意味がまるで変わってきます。
当面読みは、まず、そのまま読みます。
その上で不明な点があれば、たとえば書かれた時代背景を考える必要があります。
今の香港を考えてください。
7月1日に施行された香港安全法により言論の自由は厳しく制限されます。
それまでの香港で言われていた言葉使いが一気に変わっていくでしょう。
これが歴史です。

このようにお聖教の読み方も時代背景やその人の能力を推定しないと理解出来ないことが沢山有ります。
お釈迦様は三時を表し時代と共に我々の能力が劣っていくことをお示してくださいました。
そのことをそのまま受け取った上でお聖教を拝読するということが大事なのではないかと思います。
そうでない読み方をするとどう考えても今の自分と合わない所が沢山有ります。
それを親鸞聖人のように読まれると、「あー、そうか。」とうなずけることがあります。

そうは言っても当面読みをするほど沢山お聖教を読んでいるわけではありませんので言葉面だけを語っているのかもしれません。
いずれにしても私を超えた世界の言葉と思えば不思議とそのまま受け止められることがあります。

七高僧親鸞聖人のお言葉を解釈が異なっていても私は「ふーん、違うんだ」ぐらいにしか読めません。
ただただ、自分が凡夫であるところに軸を置くとすべてが違って見えます。
自分を仏に置くとこれは困ったことになります。

お聖教は勝手に読むので無くちゃんとした先生の解説を読むのが、まずは正しく教えを受け止めることが出来るのではないでしょうか。
そういう意味でも高僧と呼ばれた方の本はそのまま読むのが良いと思います。
分からないことは分からないとしておいた方が間違いないのではないかと思います。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏