とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

新型コロナウィルス

新型コロナウィルスが猛威をふるっています。

現在生きている私達にとって、新型コロナウィルスはこの世で初めて経験する大きな災難と言えるでしょう。

何故なら現代日本人の多くは戦争の経験も、疫病や飢饉の経験もほとんどありません。

だから、このウィルス感染はほとんどの人が初めて直面している大変な問題と言えましょう。

それも、高度に発達した文明のせいで、ウィルスが一気に世界に広まってしまいました。

中国発のとんでもない爆弾が世界中に落ちているのと同じと言ってもいいでしょう。

それくらい沢山の方が亡くなっています。

全人類が死の恐怖に直面しています。

そう言いながらも社会は意外に普通に回っているとも言えます。

なんとも致し方ないのでしょう。

だからじわりじわりと日本国内でも感染が広まっています。

まるで映画のようです。

バイオハザードという映画がありますが、ウィルスに感染するとゾンビになってしまいます。

それが世界に一気に広まり人類を滅亡の危機に陥れます。

そんな映画を彷彿とさせる出来事です。

 

以前も書きましたが人類の歴史上、疫病は幾度となく発生しています。

そのたび人類は免疫を獲得しながら生存し続けています。

親鸞聖人の時代にも同じ様に疫病が流行していました。

それでも生き残っているのだからなんとかなるのではと楽観視している人も多くいることでしょう。

ところが自分が感染し、死ぬかもしれないとなったら「しまった」しかありません。

 

親鸞聖人が門弟に宛てた最晩年八十八歳の時のお手紙が残っています。

 

「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。(略)」

文応元年十一月十三日

親鸞聖人御消息」

・・・去年も今年も多くの人が(疫病や飢饉で)亡くなっているが悲しいことです。しかし、お釈迦様のおっしゃるとおりで無常の世の中であります。驚くこともありません。親鸞は臨終の姿は問題にしません。信心決定の人は命つきなば極楽浄土の人であるから、凡夫でも死ぬのは素晴らしいことなのです。

(現代語訳は以下の例文がありますがちょっとどうかと個人的には思います。:愚かで智慧のないわたしたちであっても尊い臨終を迎えるのです。 )・・・

 

 平安時代の疫病は麻疹(ましん、赤疱瘡:あかもがさ=はしか)と言われています。

そのほかにもマラリア(瘧疾:ぎゃくしつ)などが流行したと言われています。

それ以外にも飢饉もあり京の都で数万人が亡くなったと言われています。

現代も同じです。

いつ死が訪れるのか分かりません。

 

今死んでも後悔ないのか、死んでいけるか。

 

死ぬのは嫌です、死んでいけませんと言われても、死を受け入れることが出来るのか。

何一つ分からない自分ですが、それでも死と直面させられています。

そこに自分なりの回答があるのか。

それとも何一つ回答が無いのか。

 

人それぞれですが新型コロナウィルスだけでなく他の病気や事故でも亡くなります。

死の縁無量です。

 

妙好人の庄松同行は本山にお参りしたとき、御門主に対して「覚悟はよいか」と尋ねられました。

このウィルス感染により、一人一人が庄松同行から「覚悟は良いか」と問われていいるのではないかと思います。

 

皆さん、覚悟は良いですか。

 

・・・お前こそどうだ・・・

 

うーん、どうかな。覚悟はありません。

嫌だ、嫌だと言いながら死んで行くのでしょうか。

そうなりたくはありませんが。

死んだ先は阿弥陀様にお任せですかね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

近年、毎年行っている勉強会を8月29日に刈谷駅の近くで行いたいと思っているのですか、このような状況ですので迷っています。

(8月29日 刈谷 アイリス中央生涯学習センター 502)

今回は飛雲さんと私の感話を考えています。

 

状況を見ながら判断したいと思います。

参加ご希望の方はメール等で連絡してください。

参加人数を把握したいと思います。

また、ご意見等あればよろしく願いします。