「後生の一大事」と言うと最近はあまり聞き慣れない言葉となっています。
高森顕徹会の関係者なら普通に理解出来る言葉でも世間一般ではあまり聞き慣れない言葉というのが近年の私の感想です。
お寺のご法話の演題にもなかなか「後生の一大事」と銘打ったものを見かけることはありません。
後生の一大事とはなんぞや。
死後の世界に大変な事があるということですが、どういう根拠ですかとなっていきます。
そもそも誰が言い出した言葉なんでしょうか。
蓮如上人の御文章(御文)には至る所に出てきますが、それ以前には「後世」と言われているようです。
しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば・・・(御文章 第三帖)
阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
(御文章 第五帖)
「後世」は数カ所出てきます。
また、別の言い方で「生死出べき道」(恵信尼消息)と言われています。
皆さんご存じだとおもいますが、あえて再度説明しますと「後生の一大事」とは浄土真宗独特のお言葉で、死んだ後の世界のことです。
一般的に二つの意味を持っています。
一つは、死後何処に行くのか分からないことを言われています。
大無量寿経には三悪道(地獄、餓鬼、畜生)に人は落ちると書かれています。
なぜ、落ちるのかというとそれだけの悪いことを行っているからです。
欲と怒りと愚痴にまみれて救い難いからです。
それが悪業と言われますが、そのせいで三悪道に赴かなければならないと言われています。
仏教思想は六道輪廻が前提の考え方ですので、それを全く信用していない人にとっては無意味な言葉となってしまいます。
もう一つは、浄土真宗では凡夫が仏に生まれることと言われています。
これは想像を絶する夢のような話ですので一大事と言われます。
ただし、阿弥陀様の救いにあずかった人が仏となります。
阿弥陀様が作られた南無阿弥陀仏にお任せすることによって仏となる身に定まります。
南無阿弥陀仏は、「我をたのめ、我が名を称えよ、必ず救う」という意味です。
ご法話において「後生の一大事(の解決)」などのタイトルを付けたとたん、後生の説明からその解決の方法まで話さなければなりません。
そうするとなぜ後生が問題になるのか、頭が今生のことしかない唯物論的な、あるいはキリスト教的な天国を夢見ている人にどうして話を理解させることが出来るでしょうか。
たぶん、絶望しかありません。
ですから「後生の一大事」を「人生を如何に生きるのか」とか「生きている今を大事にする」ための言葉に変換してごまかしている言い方もあります。
死んだ後の世界を話すのは、死後のことが分からないために脅しているように思っているのかもしれません。
本当の事は厳しい言葉になるので柔らかい言い方でごまかしているのでしょう。
実際、後生の一大事を検索し、お寺のブログなどを読んで見ると分かります。
そういう意味でいいますと高森顕徹会での使い方は極端で一面だけではありますが、
迷いの深い現代人にとっては響く言い方なのかもしれません。
「死んだら後生だ、その後生は一大事だ」と警鐘乱打することはお釈迦様のみ教えにかなっていることでしょう。
しかし、今後残念ながら後生の一大事という言葉が廃れていくことはあるのかもしれません。
このコロナ禍のなか、家族葬ばかりで仏様のみ教えに出遭う機会も減っています。
なおさら仏教の言葉が忘れ去られていくのではないかと危惧します。
そうならない為にもいろんな形でこの言葉とその解決の言葉が残っていくよう努力していかなければならないと思います。