とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

厳粛な事実

新年を迎え、今年も命のある限りよろしくお願いします。

さて、この世の中の事実とは何か。
私のこの濁った二つの眼で見ているものが本当の事実なのか。
二つの眼は事実を正確に把握することが出来るのか。

一体事実とは何か。
もともとはラテン語からで、「神がなしたこと」という意味らしいです。
想像出来ない突拍子のないことも、起きている理不尽なことも神が成したことなのかと思われたのかもしれません。
辞書には、実際に起こった事柄、現実に存在する事柄と書かれています。
では、今現実に起こっていることを考えてみます。

まず、私は呼吸をしています。
物を食べ、活動し、排泄して、寝ています。
いわゆる生存活動を行っています。
人とコミュニケーションを行っていますが、中には人以外とコミュニケーションを行っている人もいます。
そして、思考しています。
世界中ではあらゆる事が同時に進行しています。
地球だけでなく宇宙全体であらゆる事象が同時進行しています。
私の知らないことが、知らないところで無数に起きているのも事実です。
生きている間はこのような事象に影響され続けます。

では仏教的に考えてみます。
「空」だとか考えると訳が分からなくなるので実際にあったことは、お釈迦様を始めとして七高僧方が阿弥陀様という仏様の実在と救いの言葉を語っています。
そのお言葉を過去から現在まで引き継がれています。
そして、日本においては親鸞聖人始め高僧方や多くの妙好人南無阿弥陀仏を讃えておりその記録が残っています。

ところがこの私は南無阿弥陀仏とご縁があるにも関わらず、命ある限り阿弥陀様を讃談する覚悟があるかと言われると自信がありません。
また、私に意思があるのかどうか分かりませんが現実には今、南無阿弥陀仏と称えされられます。
この事実は否定出来ません。
今、落ちるに間違いないと「思っている私」に南無阿弥陀仏が届いて居ることだけは厳粛な事実です。



・・・摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ・・・



妄想の世界にいるのかもしれません。
お餅を食べながら新年を味わっています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏