失礼しました。
書きかけの記事が何故かアップされました。
ご容赦下さい。
さて、仕事や学校の関係か日本の制度か4月は新しい年度の始まりとして気分が一心されます。
残念なことに武漢コロナも相変わらず消えることなく、今後はこの忌まわしいウィルスとの共存をしていかなければなりません。
そうは言っても春は桜が咲きほこり空気も温かく散歩などはいい気分になります。
人生は苦なりと言われますが、安らぐ一時は必要なものだと思います。
ご法話に関して言えばウイルス感染に注意しながら行えば特に問題が無いことが判りました。
これからはウイルス感染に注意しつつ開催していくことでしょう。
新年度の真新しい気分とは裏腹に世の中には常に無常の嵐が吹き荒れています。
それは私の周りでも同じです。
また、私自身にも起こっています。
そして、最後には我が身に必ず無常の現実が訪れてきます。
だからこそ気分新たに仏法に向かおうと思うのですが、根がずぼらですのでいつものように左の耳から右の耳へとすべてが流れていきます。(右から左が普通なのでしょうが逆は無いのでしょうか?つい考えてしまいます。)
それだけ自分の周りは何事もなく今は平穏なのでしょう。
後生の解決よりも今年一年の予定の方が大事なのですから。
今生の生き方は大事です。
生活が苦しいと仏法どころではありません。
また、仕事が楽しすぎたり忙しすぎるとまた聞くことが難しくなります。
あらゆるご縁が整って初めて聞かせていただくことが出来るのです。
そのご縁もすべて阿弥陀様がご用意されたものと私は頂いています。
そんなことは無い。
私は自分の意思で聞いていると思われるならそれはそれで良いでしょう。
しかし、そんな気持ちが本当にあるのかお聖経には逆のことが書かれています。
※参照
いずれにしてもたまたま阿弥陀様とのご縁を頂いたのです。
ずぼらな私もせめてお念仏だけは忘れずに称えさせていただくようにしたいと思います。
とりあえず書いてはみましたが、しばらくするとみな忘れて煩悩のなせるままに生きるのだろうな。
残念、斬り!!
※
一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。
一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。
(観無量寿経)
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
(浄土和讃)
問ひていはく、なんがゆゑぞ阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。
答へていはく、『弥陀経』および『観経』にのたまはく、「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし」
ただ念仏の衆生を観(み)そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。
(往生礼讃)
摂取
如来の光明の中に摂め取られること。
高田専修寺蔵国宝本の左訓には「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる
(オサメトル ヒトタヒトリテナカクステヌナリ セフハモノヽニクルヲオワエトルナリ セフハオサメトル シユハムカエトル)」
(註釈版571頁)