武漢コロナが変異してさらに猛威を振るっています。
連日、マスコミはコロナ対策の杜撰さを指摘し、政権の足を引っ張ろうとしています。
しかし、コロナによる死者は少なく、ほとんどが軽症のため若者は暗にコロナを無視しているようにも思います。
一部の心ある医者は、未承認ながら効果のある薬の使用を推奨していますが、製薬業界の絡みか何か知りませんがなかなか広まりません。
ワクチンについても陰謀説や恐怖説がはびこり反対者も沢山います。
これらのニュースを一年半見せ続けられほとほと嫌になっています。
とは言え自分に非難の火の粉が掛かるのは嫌ですから、毎年行っていた勉強会も今は見合わせています。
結局死ぬのが嫌、苦しむのは嫌、ただ、それだけなのはよく分かっていますがなんとかともがき苦しんでいる状態なのかもしれません。
そこから一歩踏み出したらどうなるのでしょう。
皆さんご存じの良寛さんには、以下のエピソードがありました。
「災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候」
1828年12月。良寛和尚が71歳の時、新潟県三条市付近で大地震が発生しました。
のちに三条地震と呼ばれる大地震です。
被害の全容は全潰12000軒以上、死者1500名以上。火災によって焼失した家屋も相当な件数にのぼったと言われます。
そんな三条市のすぐ南に位置する長岡市に、良寛和尚の父親が生まれた与板という町があります。
ここには良寛と親しい間柄にある知人が何人もいましたが、とりわけ酒造業を営んでいた山田杜皐(とうこ)は良寛和尚を「蛍」とあだ名でよぶほどの仲の良い間柄でありました。
三条地震が発生したとき、杜皐が暮らす与板もやはり甚大な被害に見舞われました。
しかも悲しいことに、杜皐はこの地震で子どもを亡くしていました。
しかし杜皐は、そうした自分たちの被害もさることながら、同じく被害に遭ったであろう良寛が無事でいるかを心配に思い、良寛に見舞いの手紙を送りました。
手紙を受け取った良寛は、幸いにも無事でした。
そこで自分が無事であることを伝えるため、すぐに杜皐へ返信の手紙を送るのですが、その末尾に添えられたのが上記の「災難に遭う時節には……」の言葉です。
ちなみに、手紙の前半は以下の通りです。
「地震は信(まこと)に大変に候。
野僧草庵は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。
「うちつけに死なば死なずに永らえて かかる憂きめを見るがわびしさ」」
地震に遭った杜皐の境遇を憐れみ、自分は無事でいることを伝え、そして歌を一首したためました。
人生を生きながらえてきてしまったことで、人々が悲しみに打ちひしがれる姿も多く目にすることとなりました。やるせない思いです。
そしてこのあとに件の言葉が続きます。
「しかし災難に遭う時節には災難に遭うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
かしこ 良寛」
ご縁とは言え良寛さんのお友達の杜皐さんはずっとこの手紙を大事に持っていたのですからこのエピソードは今に伝えられています。
心の支えになっていたかもしれませんし、ふざけるなと怒りもあったかもしれません。
しかし、仏教的に言えば今を受け入れると言うことです。
死の縁無量です。
人は死ぬときは死ぬのです。
そしてそれはたった今かもしれないのです。
今、死んで行けますか、どうですかと言われているようにも思います。
言い方を変えれば、今を生きるです。
ただ、精一杯生きるだけです。
生涯懶立身 生涯身を立つるにものうく(この生涯出世には興味が無かった)
騰々任天真 騰々と天真に任す(与えられた姿のままに過ごしてきた)
嚢中三升米 嚢中に三升の米(米袋には三升の米のみ)
炉辺一束薪 炉辺に一束のたきぎ(暖炉には一束の薪しかない)
誰問迷悟跡 誰か問わんめいごのあと(誰も私の法話に興味など無く)
何知名利塵 何ぞ知らんみょうりのちり(評判も財産も何もない)
夜雨草庵裡 夜雨草庵のうち(夜の雨の中この草庵で)
双脚等閑伸 双脚を等閑に伸ばす(両足をぼんやりと伸ばしたりしているだけである)
誰か私の法を聞いてくれと叫んでいらっしゃるように聞こえます。
アフガニスタンではとんでもないことが起きています。
アフガニスタンだけではありません。
中国は、アメリカは、ヨーロッパは・・・・。
今、世界で一番平和に暮らせる国はどこか。
私は、この「大乗相応の地」日本だと思っています。
阿弥陀様は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を、南無阿弥陀仏一つで救うと誓っていらっしゃいます。