とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

機法二種一具の深信

機法二種一具の深信という言葉があります。
いわゆる二種深信と言われるものです。
機と法が一つに備わった深信ということです。
深信については、観無量寿経の中に深信という言葉があります。

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。(観無量寿経)

そして、その中の深信を善導大師が解釈されたお言葉が散善義に以下のようにあります。
また、それを親鸞聖人は教行信証に引文されています。

深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。(散善義 ),(教行信証 信巻)

観経のお言葉は、阿弥陀様のお浄土に生まれるものは三つの心をおこすといわれ、その二つ目に深信といわれています。
本願の信楽と同じです。※1
ご信心は深信とおなじであり、それに二つのお心があるといわれています。
一つを機の深信と言い、もう一つを法の深信と言います。
これは信心に二つの面があると思っていただいた方がわかりやすいです。
片方だけではなく、二つが一つ、紙の裏と表のような関係です。

この二つがそろって初めて真宗のご信心ということができます。
言い換えれば片方だけでは、真宗の御信心とは言えません。
このことは、本願寺が出している安心論題に明らかです。

『やさしい安心論題の話』灘本愛慈 から少し引文します。

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 機実を知らされるということは、罪悪生死の凡夫で出離縁あることなき私であると知らされることであり、出離の縁あることなき私であると知らされることは、私のカが出離のために役に立たないと知らされることであり、私の力が役に立たないと知らされることは、私のはからいを捨てるということであります。ですから、信機は捨機であるといわれます。

 法実を知らされるということは、如来の願力のひとりばたらきで救われると知らされることであり、願力のひとりばたらきで救われると知らされることは、すっかり願力にお任せするということであります。ですから、信法は託法(たくほう)であるといわれるのであります。

 わがはからいを捨てたのでなければ、如来の願力にお任せしたとはいえませんし、如来の願力にお任せしたのでなければ、わがはからいを捨てたとはいえません。いいかえますと、自力を捨てたのでなければ他力に帰したとはいえませんし、他力に帰したのでなげれば自力を捨てたとはいえません。こういう意味において、捨機即託法であり、捨自即帰他であります。
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以上からも分かるように機の深信は、私の力は後生の解決に全く役に立たないだけでなく、罪悪生死の凡夫であることが知らされると言うことです。
法の深信については、阿弥陀如来の一人働きで救われるのであり、阿弥陀様にお任せした状態であると言うことです。
また、任せるというのはこちらの計らいはいらないと言うことができます。
ここから推察できるのは、私には何一つ証拠は無い、すべて阿弥陀様にあると言うことができます。
だから安心できるのです。

この機法二種一具の深信をバランスよくお話をしてくださる先生はなかなかいないような気がします。
阿弥陀様のお慈悲だけ話していた方が人から攻められることも少ないからでしょう。
少し昔(たぶん戦争前後のころと思います)「御説法に法を持ち出したら負け」と言われていたと聞きます。
なぜそう言われるかというと阿弥陀様のご本願が証拠ということを握ってしまって、機の方がおろそかになるからです。
ですから、蓮如上人の「信心を獲れ」という言い方の方が間違いが無いのです。
御信心をいただいたか、いただいていないかを問題にすべきだということです。
御信心は結局二種深信に他ならないからです。
これについても最近はあまり言わなくなっているような気がします。
機だけでも間違いですし、法だけでも間違いですから、
「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」であるべきと思います。
仏願の生起は私の機のことであり、本末は法のことと言えます。

三河のお園さん」は以下のように言われています。

機を見ればどこをとらえて正定衆
法に向かえばうれしはずかし

機の罪あるなしの詮索は必要ないとはいえ、御信心をいただけばこの二つのお心が一つとなり味わいとして出てきます。



現在、ただ今、落ちるそのまま
我をたのめ、我が名を称えよ、必ず救う

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


※1
教行信証』信巻の「三心一心問答」には、第十八願の「至心・信楽・欲生我国」が「信楽」におさまり、それが「一心」であり、「真実の信心」であると述べられている。

今三心の字訓を按ずるに、
真実の心にして虚仮雑ること無し、
正直の心にして邪偽雑ること無し、
真に知んぬ、
疑蓋間雑無きが故に、是を「信楽」と名く。
信楽は即ち是れ一心なり。
一心は即ち是れ真実信心なり。