とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

群盲象をなでる

「群盲象をなでる」と言われるお言葉があります。

仏教経典だけでなく他の宗教でも扱われています。

簡単に書きます。

 

あるところに多くの目の不自由な方がいました。

その人たちが象をなでてその姿について話しています。

象の牙をなで「象は杵のようなものだ」と言います。

象の耳をなで「象は団扇のようなものだ」と言います。

象の鼻をなで「象は太い縄のようなものだ」と言います。

象の足をなで「象は柱のようなものだ」と言います。

象のおなかをなで「象は壁のようなものだ」と言います。

象のしっぽをなで「象は箒のようなものだ」と言います。

多くの目の不自由な方達が象をなでてその姿についてお話をするのですが、どのかたのお話も本当ですが、だれも本当の象の姿を分かっていないと言うことです。

※1

これを聞いて思うのが阿弥陀様から賜った御信心についても同じような味わいを皆さんしているのではないかと思うのです。

 

私は阿弥陀様とお会いした。

私は空を体験した。

御念仏が吹き出した。

私の業魂がハッキリ分かった。

地獄一定と定まった。

御念仏が証拠だ。

などなど

 

これらのことを主張することは、南無阿弥陀仏のほんの一部の気づきや目覚めをすべてと言っているように思います。

「私の体験は絶対だ」と思われている方も多いでしょう。

それはそれで「その人にとっては本当の事」であるのは間違いないことでしょうが、それがすべてではないということです。

阿弥陀様から賜った御信心について、親鸞聖人は以下のようにおっしゃっています。

 

阿弥陀様の御本願に疑いが無いのが御信心だ。

自分は落ちるに間違いない、阿弥陀様(南無阿弥陀仏)は助けるに間違いないのが御信心だ。

※2

 

 

このお言葉からも上記のように色々な味わいがあるでしょうが、それはあくまで味わいであり本当の御信心の姿ではありません。

今回私が言いたいのは、御信心を頂いたと言っても「私の体験が本当の御信心だ」と言い出すと大きな間違いを起こすと思うのです。

「あの人の御信心は間違っている」と言い出すもとになります。

当たり前のことなのですが人は自分が体験したことが100%だと思ってしまう傾向があります。

オウム真理教も一定の体験が修行によって得られます。

オウムだけでなく他の宗派でも実際に宗教的体験をした人が沢山います。

その方達がお聖教の深いところをどこまで理解しているか分かりません。

それでも「この私の体験が真実だ」と言うならば、相当のマインドコントロールかと思ってしまいます。

私という者はどこどこまでも妄念の塊であり、死ぬまで阿弥陀様(南無阿弥陀仏)のお話を聞かせていただくだけなのです。※3

 

私はそう思います。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

参考

※1

阿含経では鏡面王という人物が10人の盲人を集め、それぞれが鼻を曲がった轅、牙を杵、耳を箕、頭を鼎、背を丘阜、腹を壁、後ろ足を樹、膊(膝)を柱、跡(前足)を臼、尾を緪(綱)に例える話になっている。
大樓炭経も尾のたとえが蛇になっている他は長阿含経とほぼ同じである。

 

大般涅槃経では、衆盲各手以手触…衆盲不説象体亦非不説(衆盲各おの手を以て触る…衆盲象体を説かず亦(ま)た説かずとも非ず)などとの表現で、象が仏性の比喩として述べられている。
仏性は、仏以外の無明の衆生はもちろん十住の菩薩でさえも十分完全には知りえない仏教の究極の真理すなわち勝義である。
しかしながら、まったくの断善根であっても仏に成れる可能性があるとも説く。

(wikiより)

 

※2

親鸞聖人

唯信鈔文意
選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく。

顕浄土真実行文類
智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく、「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」と。

顕浄土真実信文類
かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。

・・・

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。

 

※3

源信僧都

横川法語
またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。