とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

アジア大会

いろいろ悪い話題で盛り上がっているアジア大会ですが、今回縁あってボランティアに参加してきました。

外で見ているのと中に入ってみるのと大違いで大変大きなイベントということが実感できました。

それにほとんど日本人のボランティアによって支えられており、その皆が成功させようと本当に頑張っている姿を見るにつけ日本人のすばらしさを改めて実感することが出来ました。

また、選手たちのひたむきさには驚きます。

選手はお金や人生が掛かっているので真剣なのは分かりますが、それでも何かに真剣に取り組んでいる姿は素晴らしいです。

特に日本の選手たちについては思い入れが強くなります。

本当に真摯に努力し勝利にこだわり、それでも世界の壁に阻まれ負けて悔し泣きをしているのです。

当たり前なんですが負けて間近で泣いている姿を見ると冷静にその姿を眺めている自分との違いに驚きます。

自分の知らない世界、見たことの無い世界がそこにはあります。

プレーヤーは少数ですがそれに関わる人間が無数にいます。

その人たちに支えられてプレーが出来ているのですが、とても独りよがりな感覚で生きていく世界では無いような気がします。

選手は皆さんに常に感謝しています。

その気持ちが伝わってくるのです。

不思議です。

今まで感じたことの無い感覚です。

世の中にファン、いわゆる推し活の人たちがどれだけプレーヤーにとってありがたい存在か分かる気がします。

なぜか宗教の世界でも同じなのかなと思ってしまいます。

お釈迦様というスーパー宗教家に魅せられたファンが世界中にいます。

そこから多くのスーパー宗教家が次から次へと現れてきて今に続いています。

その方たちのおかげで今の私があります。

私もお釈迦様のファン、推し活の一人です。

スーパープレーヤーの姿を見て楽しむのがスポーツです。

同じようにスーパー宗教家の姿を見て自分を見つけることを楽しむのが宗教と言うと言い過ぎでしょうか。

結構こじつけですが自分の知らない世界が沢山あるものだと思いました。

スポーツの世界も広い、知らないことばかりです。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

 

 

 

 

勉強会のご参加ありがとうございました

無事勉強会を終えることが出来ました。

前線の影響で不安定な天気でしたが久しぶりの雨でちょっと涼しく感じることが出来て良かったかなとも思いました。

ご参加頂いた皆様、ありがとうございました。

今回は「桜嵐坊」さんのYOUTUBEに出ていらっしゃる「新人太郎」さんのお話を聞きました。

そのほかにも私を含め2名の感話をいただきました。

詳しくは書きませんが「新人太郎」さんのお話は大変おもしろかったです。

あまり追悼の気持ちは無かったですが、あえて勉強会に追悼という名前をつけましたのでいろいろS会のことも話題になりました。

S会の今後のことは正直どうでも良いのですが、いまだに会に残っている人たちのことを思うと複雑な心境になります。

すべては一人一人のご縁ですのでどうしようも無いのですが、正しい教えに出遭うことは本当に希有なことだなと思いました。

S会の会長に対しては様々な思いがありますが、一つの時代が終わったなと思います。

残った方たちがこれからどういう活動をされていくのか分かりませんが、無理だとは思いますが少しでも正しい方向に動くことを期待したいです。

特に会長が亡くなったらとても次の会長にはついていけないと言っていた講師たちはどうするのでしょうか。

私は結局お金の問題でやめないと思います。

仮に高齢の幹部が辞めても次に収入を得る方法がありません。

要するに生活できないからそのまま残るということです。

これからどんどん高齢化する会員と弱小化する組織、そして多くの借金をかかえ迷走する組織の姿が想像できます。

ひとりのカリスマで大きくなった組織は、そのカリスマが無くなった後は衰退していくのが常です。

後継者をしっかり育てないと組織の存続は難しい思います。

S会にはそういう人は見当たらないと感じます。

やはり一つの時代が終わった気がします。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

 

勉強会のご案内(S会会長追悼勉強会)

とくよしみね からのお知らせです。

今年も勉強会を開催したいと思います。

日にちは、8月29日(土)です。

時間は、午前10時から午後5時までです。

場所は、JR刈谷駅前の産業振興センターの会議室です。

今回はS会会長ご逝去に伴い、S会会長追悼勉強会とします。

去る7月8日、満97歳でお亡くなりになりました。

お話ししたいことがある方はメールをお願いします。

午前は有志による感話を、午後は参加者の皆さんとともにお話ししていきたいと思います。(お話ししてくださる人が現れましたので感話を入れたいと思います。桜嵐坊さんのyoutubeに出ていらっしゃる方です。)

どなたでも参加していただいて結構です。

出来れば参加予定の方は人数把握のためメール等頂けると有り難いです。

よろしくお願いします。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

「ありのままに」 と「そのまま来い」

世間でよく言われている言葉に「ありのままに」というのがあります。

非常に耳障りが良く、皆が納得しやすい言葉ですが、よくよく考えてみるととんでもない言葉です。

人間の存在を性善説でとらえている場合は良いかもしれませんが、人間はそんな甘いものではありません。

仏教用語を使うまでもなく、人間は社会的動物なのです。

・・・・・・

古代ギリシャの哲学者 アリストテレスの言葉

人間というのは、自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物には見られない)独特の自然本性を有する動物である、ということを述べた。

人間が単に社会を形成している、とか、社会生活を営む一個の社会的存在である、などと言ったのではなかった。

だが、原典を読み前後の表現を自分で確認しようともしない人々の間に誤解が生じた。生物学者や生物学を学ぶ学生などのなかには、アリストテレスが「人間は社会的動物だ」と言ったと信じていて、しかも独特の解釈をする人が多い。(wikiより)

・・・・・・

社会の中で共存し、その中で幸福を感じることができる生き物が人間なのです。

ですから自分勝手な行動を「ありのままに」という言葉が肯定しているわけではありません。

しかしながら勝手なもので自分独自の解釈をする人が蔓延しています。

欲望のそのままを「ありのままに」と誤解している人もいるかもしれません。

残念ながら法律は一般常識的なものしか定められておらず他人を顧みない行動について細かく規定されたものではありません。

昔のことはよく分かりませんが自分が幼かったころより今は非常識な人が増えいているように思います。

社会構造の変化も大きいと思います。

 

地方に生まれ、そこで育ち、生活し、そこで死んでいく、そのことに意味があるのかないのか分かりませんが近年は多くの若い女性が閉塞感を感じてそこから都会へ出ていることは人口統計から明らかになっています。

都会に幸せがあると思って出て行くのでしょう。

地方の田舎にいれば「ありのままに」生きることが出来ないと思っているのかもしれません。

あるいは何かを成し遂げたいために都会にいく人も多いと思います。

そこではしがらみの少ない自由な生活ができると思っているのでしょう。

しかし、実際はそんな甘いものではありません。

欲望渦巻く「ありのままに」生きている人たちに揉まれ傷つき都会を去る人が多くいるのも事実です。

そのことに関しては今も昔も変わらないと思います。

 

ちまたではYoutubeなどが爆発的に広がっています。

テレビでは放送できない刺激的な内容のドラマやドキュメントなどたくさんあります。

それこそ無法地帯と言ってよいと思います。

ある意味自由な世界で「ありのままに」を言葉通り実践している社会的実験と言っても過言ではありません。

私も好きであちこちを見ていますが倫理、道徳など無視したチャンネルが多くなったと思います。

それこそ五欲丸出しのチャンネルが増えているように思います。

恥という言葉が死語になりつつあります。

Youtubeによってこれから社会がどう変わっていくのか注視していく必要があります。

 

仮に浄土真宗で「ありのままに」という言葉を使うとき今のYoutubeの世界を想定しているとは思えませんが、阿弥陀様は「「ありのままに」来い」と言われていると使うのはちょっと使い方が間違っているように思います。

南無阿弥陀仏に込められた意味は「ありのままに」来いと簡単に説明できるものでは無いと思うのです。

「そのまま来い」も「「ありのままに」来い」も似たような意味だとは思いますが、しかし、「そのまま来い」と「ありのままに」には使い方に大きな違いがあると思います。

使う言葉の状況が全く違うと思うのです。

とは言うものの「そのまま来い」も考えようによっては誤解を生む可能性があります。

「そのまま来い」も「ありのままに」も使い方をよくよく考える必要があります。

危険な言葉だと私は思います。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

 

宿業、宿縁について

仏教的な考えからするとすべての物事は宿業であり宿縁によって起こされるといわれます。

宿業とは私の行いすべての結果であり、それは永遠の過去から今までの行為(通仏教的には私の行為であり、浄土真宗では行為及び私が考えたことなどを含みます)の結果によって引き起こされることで避けることのできないものと言われます。

宿縁は宿業により起こされる結果を引き起こす縁のことで、因が縁となるなどあらゆる因縁が和合して引き起こす原因の一つです。

ここで疑問なのが私に意思があるのかということです。

菩提心もそうですが私に意思があるのか無いのかによって変わってくると思うのです。

華厳宗の明恵は『摧邪輪』により法然が『選択本願念仏集』で浄土往生に菩提心が不要と説いたことを、「菩提心を撥去(はっきょ)する過失」であると批判しました。

つまり明恵は私に意思があるということを主張されました。

すべては因縁によって引き起こされるというものの、お釈迦様は人々に善をなすべきと説いていかれました。

その根本が法によって生きよといわれたことです。

お釈迦様最後の遺言である「自灯明 法灯明」です。

「自らを明かりとし、法を明かりとして生きよ」とお弟子たちに伝えられています。

つまり人には意思があるとおっしゃっています。

一方で浄土真宗では全分他力を教えられます。

すべては阿弥陀様のお力、御因縁によって救われていくと教えられています。

個人的にも過去無量劫、永遠の今を繰り返している私というものを考えたとき、本当に自分に意思があるとは思えないのです。

唯一あるとすれば仏様とのご縁により、仏さまからの働きかけによって勝手にこの頭が考え判断し行動しているとしか思えないのです。

そもそも私には煩悩という強い意志?があります。

それに対抗する意思は仏さまからの働きかけがなければ変わりようがないのです。

お釈迦様のみ教えとしては自ら奮い立たせて行動せよと説かれますが、結局はそれは他力の働きに他ならないのではないかと思うのです。

永遠の迷いから私を目覚めさせる力は私の中にはなく、外からの働きかけによって動かされているのではないかということです。

そう思うとお釈迦様がいろいろな予言されることはもっともだと思います。

あらゆる因縁を知ることが出来るからこれから起きることも予想が出来るということです。

とはいえこんなことを連休中に考えていたわけでなく、私はブログのことも忘れて世間ごとに流されていたのです。

これも私の宿業であり宿縁でしょうか。

まったくもって困ったものです。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

分かるわけがない

人間に何故生まれてきたのか、何故生きねばならないのか、これに明確な答えを出すことができる人はこの世の中に一体どれだけいるのでしょうか。

その答えも皆が平等に納得出来るものがあるのでしょうか。

お釈迦様が存命した当時でさえ、当たり前ですがお釈迦様のみ教えを信じるもの、信じないもの、それ以外のものがいました。

人の目で明らかに分かることは、人が女の人から生まれて老いて死んでいく、それを繰り返している姿だけです。

ではお釈迦様は何を悟られたのかといえば、諸行無常 諸法無我の世界です。

すべては移り変わり一つとして留まることのない、因縁により生まれては消えていくそういう世界であることに目覚められたといわれます。

明かりのない無明から生まれ、そして死んでいくこと繰り返し、果たして永遠の過去から永遠の未来に向かって有るのでもなく無いのでもないそんな世界をさまよい続けているのです。

ですから何が原因で今ここにいるのか、これからどこに向かうのかさっぱりわかりません。

ただ、死んでいくのを怖ろしく思うだけです。

私を明るく導く明かりは無い、そんな世界に生きているのです。

 

先日知り合いとこんなこと(冒頭部分ですが)を話していたのですが、「そんなことは考えたことがない」と言いました。

それを聞いて改めて私が変わっているのだと思いました。

ほとんどの人は一度限りの人生が終わったらそれでおしまいと思っているのです。

それに一切の疑問もなく年寄れば死んでいく、それまで元気で生きられれば良いと思っているのです。

私の言葉が通じるわけがないと思いました。

まして、お釈迦様のお言葉など「分かるはずがない」と改めて認識しました。

 

数日前、沖縄で数十人の高校生の乗った船2隻が転覆し船頭一人と女子高校生一人がなくなりました。

船は沖縄辺野古の米軍基地移転反対の活動家の船で何も許可など取っていない、保険も掛けていないいわば個人の船みたいなものでした。

楽しい修学旅行が悲惨な旅になってしまいました。

船は平和教育という名のもと左翼活動家による洗脳教育に利用されていたようです。

左翼活動家の無謀な活動の犠牲になった高校生がかわいそうでなりません。

詳細はおいおい分かってくるでしょうが、2隻の船のうち1隻が横波を受けて転覆し、それを助けようとした2隻目も転覆し、2隻目に乗っていた女子高校生が一人なくなったと記事にありました。

なんと運の悪いことか。

これも宿業のなせる業などと思えず憤りしかありません。

そんなことがこの世の中には山ほどあります。

世界ではいまだに戦争が続いています。

そこでもたくさんの方が亡くなって悲しみん打ちひしがれています。

残念ながら私は世界の多くの人の悲しみよりも身近な一人の死に心が動かされます。

どうしても将来のある一人の女子高生の死に心が惹きつけられてしまいます。

宿業という言葉で片付けるのは簡単ですが女子高校生の親御さんにしてみれば断腸の思いでしょう。

言葉も出ない悲しみに打ちひしがれていると思うとかわいそうでなりません。

 

お釈迦様のみ教えを聞かせていただいていても煩悩により心に怒りの炎が燃え盛っています。

どうしてこんなことが起きたのか分かるわけがないのですが、しばらくは左翼活動家に対する怒りがくすぶると思います。

私の執着心に思いが引きずられます。

諸行無常 諸法無我

分かる力がありません。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

 

 

大乗相応の地

衆議院議員選挙が行われました。

結果は自民党の歴史的大勝でした。

一方で野党の旧立憲民主党は壊滅的惨敗でした。

個人的にはいろいろな思いはありますが日本に大きな変化が起きると思います。

リベラル派と呼ばれる政党はほとんど今回議席を失いました。

今後しばらくは自民党の単独政治が続くのでしょう。

たぶん憲法改正も発議される気がします。

世界の流れを見ているとやむを得ない状況です。

すべては変化していきます。

どんな御因縁なのか分かりませんが戦争だけは避けていただきたいと思います。

そのために必要なことはどんどん実行して欲しいです。

 

しかし思うに議席を失った人たちはこれからどうやって暮らしていくのでしょう。

何期も議員をされた方は良いでしょう。

議員年金などがありますから生活は出来るでしょう。

ただ、議員の資格を失えばただの人になってしまいます。

うまく立ち回る人はいろいろな生き方が有るでしょうが、そうでないかたは大変だと思います。

命まで取られるわけではないので仕方ないですが選挙で負けるのは残酷です。

議員本人だけでなく周りの秘書の方々の生活もあります。

とはいえ野党の方は批判ばかりして建設的な意見はあまりありませんでしたので、有権者は選挙演説で批判ばかりしている候補者にはうんざりしていたかもしれません。

反対に高市総裁はわかりやすく自分の主張を話していました。

早苗フィーバーと言っても良いくらいの反応でした。

そのおかげで反高市の自民党議員も皆当選しました。

今後この人たちには注意が必要と思います。

しかしここまで勝つと次は落ちるだけです。

とにかく今は日本を正しい方向に持っていって欲しいと思います。

宗教法人に課税するとの意見もありますが、そうでなくても宗教団体は伝統教団を含め収入は減少の一途をたどっています。

とどめを刺すようなことは止めてもらいたいですが統一教会的な問題もありますのでちょっと不安な気がします。

個人的には日本の伝統、文化が守られるようにしていただきたいです。

 

すべては変化して一時として留まることがありません。

諸行は無常です。

この政権もこれからいろいろ変化することと思いますが、日本の平和と安全を確実に子孫につなげて欲しいです。

日本という国とその国民の生命と財産を守るべく活躍することを願います。

親鸞聖人はこの日の本を「大乗相応の地」※とおっしゃいました。

私もそう思います。

南無阿弥陀仏の火が相続することを願います。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

 

※佐藤弘夫氏の文章を引文

三重県の専修寺に、親鸞作とされる「三夢記」とよばれる文書が伝来している。

そこには六角堂の「行者女犯偈」の他に、建久二年(一一九一、一九歳)の磯長聖徳太子廟と正治二年(一二〇〇、二八歳)の二つの夢告が収められている。

このうち磯長の夢告では、聖徳太子が親鸞に対して次のような言葉を告げたという。

 我三尊化塵沙界 日域大乗相応地 諦聴諦聴我教令

 汝命根応十余歳 命終速入清浄土 善信善信真菩薩

この「三夢記」についてはその真作・偽作をめぐって議論がある。

 

現代語訳

我が三尊は、塵沙の界を化す

日域は大乗相応の地なり

諦に聴け諦に聴け、我が教令を

汝が命根は応に十余歳なるべし

命終りて速やかに清浄土に入らん

善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を