とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

長者窮子の譬え

今回は、S会でも昔はよく話された「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」について書きたいと思います。
まずは根拠聖典である法華経から引文します。


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要約法華経
信解品(しんげほん)第四


そのとき、長老の須菩提と、摩訶迦旃延と、摩訶迦葉と、摩訶目犍連 は、釈尊が説く未曾有の法と、舎利弗が阿耨多羅三藐三菩提を授記されたことに 大変驚き、また歓喜し、立ち上がって衣服を整え、右の肩をあらわにし右の膝を地につけて、釈尊に申し上げた。

「われらはすでに年老い、悟りの境地に達していると思い込み、その上を望むことをしませんでした。
菩薩の法たる 仏国土を清くし、衆生を導こうとはしませんでした。
声聞に阿耨多羅三藐三菩提を 授記されて大変うれしく思いますとともに、 ただ今この時に、未だかって説かれたことのない稀有の法を聴いて、貴重な宝玉を自ら求めざるに得た心地がします。
世尊よ、 われらの気持ちを、たとえ話をもって語ることを許していただきたい。

 

ある人、若い頃に家出して、他国に住み、すでに五十年という年月が経った、と思っていただきたい。
衣食を求めて処々を放浪したが、 食うや食わずのその日暮らしの生活に疲れはて、故郷に帰ろうとしてある国に入った。その子の父は、出奔した息子を八方手を尽くして 探したが、行方が分からないまま、そのある国に住んでいた。
父は大長者となって、倉庫には金・銀その他の珍宝があふれ、 象・馬・牛・羊も数え切れず、手広く商売し、金を貸して金利を稼ぎ、大勢の使用人を使っていた。


たまたま貧乏な子は、大金持ちの父の住む町にやってきて、その邸宅の前に来た。
門の傍に立って中を見ると、長者は玄関前に 幔幕(まんまく)をめぐらし、獅子皮の椅子に座し、宝石を埋め込んだ足台 に足をのばし、両側から白い払子(ほっす)で扇がせ、高価な真珠の装身具で身を飾り、 大勢の婆羅門や王侯貴族や商人たちに囲まれて大きな 取引の話をしていた。その豪勢さに圧倒されて、子は驚くと同時に恐れをなして思った。


『突然、王か大臣に会ってしまった、 ここには私のようなもののする仕事はない。ぼやぼやしていると怖い目に遭いそうだ。貧しい地域に行って仕事を探そう』 子は急いで立ち去ったが、長者は男を一目見るなり、自分の息子であることに気がついた。
そして使用人にその子を連れて くるように命じた。使者は追っかけてその子を捕らえると、長者の処に引き立ててきた。
長者の前で、子は何をされるか分からない 恐怖のあまり、失神して倒れてしまった。
それを見て長者は、その子をいったん解放した。
自分の豪勢な暮らしぶりがその子の 憚(はばか)る処となり、またその子の志が低いことを知ったからである。
そこで長者は方便を使ってその子を引き寄せようと考え、浮浪者のような貧相な男二人を雇って、 こう言い聞かせたのである。


『お前達はあの男の処へ行って、こう言いなさい。あの屋敷に働き口があるぞ。給金は二倍もらえるそうだ。 仕事は便所の汲み取りだ。俺達もこれから行くので、一緒に行って雇ってもらおう』こうしてこの子は、近くの茅葺の小屋に住み、 長者の邸宅で働くようになった。

 

しばらくして長者は、自分の上等な衣服を脱ぎ装身具をはずし、身体に泥をぬりつけ、よごれた衣に着替え、糞壷を手にもって、 つまり息子と同じような格好にやつして、子に近づいて言った。


『お前はずっとここにいなさい、私をおいてよそへ行かないように。 お前は若く、私はもう年老いた。必要なものがあれば、何でも言いなさい。お前は他の使用人と違って、 愚痴を言わず正直でよく働く。今日から私はお前を実の子のように思おう』子は喜んだが、何かを欲しがることもなく、 長者の使用人として立場に満足していた。


そうして二十年が経ち、長者の処へも自由に出入りし、家事を執務するようになり、 財産のすべてを知るようになったが、欲はなく、相変わらず茅葺の小屋に住み、貧しい自分の境遇のなかで暮らしていた。
しかし長者はその子の志が少しずつ変化し、新しい境遇に適応してきたのを見ていた。 長者は死期が近づくと、親族・国王・大臣その他大勢の人々に集まってもらい、この子が自分の実の息子であることを初めて打ち明け、 財産の一切をこの息子に譲ると宣言したのである。


息子は大いに感激してこう思った、『わたしは自分から願うことはなかったけれど、 自然にこの財宝を得ることになった』

 

世尊よ、大長者とは如来のことです、そしてわれらは仏の子です。
われらは本当の阿羅漢になった心地がします。
世尊はわれらに諸々の戯論の糞(あくた)を除かしめ、われらは日銭を稼ぐように悟りを求め、その日の稼ぎを得て満足していたのです。
われらは自分に執着が強く、目先のことのみを求めて、大乗を求めなかった。
世尊はわれらが志の低いことを見られて、方便で、われらの機根に合わせて法を説かれていたのです。
今日、世尊がこの経を説くのを聴いて、われらは仏の子であるが故に、自ら求めずして自然に如来の宝蔵を得られたのです」

そうして摩訶迦葉は、重ねてこの意味を伝えようとして、詩句をもって唱えた。
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この話はもともと声聞の代表である舎利弗釈尊が記別(仏が、弟子たちの来世の悟りの内容を予言すること。仏となることの予言。)を与えたことを悦んで説かれたものと言われています。
小乗から大乗への釈尊による導き(ご方便)を説かれたもであり、五時の教判の根拠にもなっています。

個人的には、阿弥陀様にお会いするまでの私達の道程とも読むことが出来ます。
細かい説明はありませんので皆さんそれぞれ味わっていただければ良いと思います。
法華経も基本的には大乗仏教ですので似たような味わいが出来るのかなとも思います。
私はこのお話から摂取不捨、逃げる者を追いかけて捕らえる阿弥陀様の願力と味わいます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

群盲象をなでる

「群盲象をなでる」と言われるお言葉があります。

仏教経典だけでなく他の宗教でも扱われています。

簡単に書きます。

 

あるところに多くの目の不自由な方がいました。

その人たちが象をなでてその姿について話しています。

象の牙をなで「象は杵のようなものだ」と言います。

象の耳をなで「象は団扇のようなものだ」と言います。

象の鼻をなで「象は太い縄のようなものだ」と言います。

象の足をなで「象は柱のようなものだ」と言います。

象のおなかをなで「象は壁のようなものだ」と言います。

象のしっぽをなで「象は箒のようなものだ」と言います。

多くの目の不自由な方達が象をなでてその姿についてお話をするのですが、どのかたのお話も本当ですが、だれも本当の象の姿を分かっていないと言うことです。

※1

これを聞いて思うのが阿弥陀様から賜った御信心についても同じような味わいを皆さんしているのではないかと思うのです。

 

私は阿弥陀様とお会いした。

私は空を体験した。

御念仏が吹き出した。

私の業魂がハッキリ分かった。

地獄一定と定まった。

御念仏が証拠だ。

などなど

 

これらのことを主張することは、南無阿弥陀仏のほんの一部の気づきや目覚めをすべてと言っているように思います。

「私の体験は絶対だ」と思われている方も多いでしょう。

それはそれで「その人にとっては本当の事」であるのは間違いないことでしょうが、それがすべてではないということです。

阿弥陀様から賜った御信心について、親鸞聖人は以下のようにおっしゃっています。

 

阿弥陀様の御本願に疑いが無いのが御信心だ。

自分は落ちるに間違いない、阿弥陀様(南無阿弥陀仏)は助けるに間違いないのが御信心だ。

※2

 

 

このお言葉からも上記のように色々な味わいがあるでしょうが、それはあくまで味わいであり本当の御信心の姿ではありません。

今回私が言いたいのは、御信心を頂いたと言っても「私の体験が本当の御信心だ」と言い出すと大きな間違いを起こすと思うのです。

「あの人の御信心は間違っている」と言い出すもとになります。

当たり前のことなのですが人は自分が体験したことが100%だと思ってしまう傾向があります。

オウム真理教も一定の体験が修行によって得られます。

オウムだけでなく他の宗派でも実際に宗教的体験をした人が沢山います。

その方達がお聖教の深いところをどこまで理解しているか分かりません。

それでも「この私の体験が真実だ」と言うならば、相当のマインドコントロールかと思ってしまいます。

私という者はどこどこまでも妄念の塊であり、死ぬまで阿弥陀様(南無阿弥陀仏)のお話を聞かせていただくだけなのです。※3

 

私はそう思います。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

参考

※1

阿含経では鏡面王という人物が10人の盲人を集め、それぞれが鼻を曲がった轅、牙を杵、耳を箕、頭を鼎、背を丘阜、腹を壁、後ろ足を樹、膊(膝)を柱、跡(前足)を臼、尾を緪(綱)に例える話になっている。
大樓炭経も尾のたとえが蛇になっている他は長阿含経とほぼ同じである。

 

大般涅槃経では、衆盲各手以手触…衆盲不説象体亦非不説(衆盲各おの手を以て触る…衆盲象体を説かず亦(ま)た説かずとも非ず)などとの表現で、象が仏性の比喩として述べられている。
仏性は、仏以外の無明の衆生はもちろん十住の菩薩でさえも十分完全には知りえない仏教の究極の真理すなわち勝義である。
しかしながら、まったくの断善根であっても仏に成れる可能性があるとも説く。

(wikiより)

 

※2

親鸞聖人

唯信鈔文意
選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく。

顕浄土真実行文類
智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく、「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」と。

顕浄土真実信文類
かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。

・・・

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。

 

※3

源信僧都

横川法語
またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。

南無阿弥陀仏のお徳は分かるものではない

どうも最近の世の中はお念仏(阿弥陀様)のお徳についてあまり評価していないような気がしてなりません。

称名念仏の軽視や大行(阿弥陀様の行あるいは諸仏の行である称名)も働きを限定的に考えているような気がします。

お念仏の軽視については、高森顕徹会だけでなく世間一般的にも意味も調べずにただの呪文ぐらいにしか思っていない人がほとんどでしょう。

お釈迦様を始め七高僧方が言葉を尽くして阿弥陀様をそして称名念仏を讃談していらっしゃる内容は体験のない私には理解出来ないことが沢山あることでしょう。

分からないことは大したことが無いと勝手に判断するのは凡夫の性でしょうが、その感覚がそのまま時代と共に阿弥陀様を讃談しなくなる原因かもしれません。

 

結局、宗教的体験者が少なくなっていると思います。

いわゆる妙好人と呼ばれる方だけでなく僧籍にある人たちもあまり体験を語らなくなっていると思います。

宗教的体験者として七高僧方のお言葉をそのまま受け止められている方がいないのでしょう。

現実に親鸞聖人のお言葉でさえ矮小化している場合があります。

たとえば「地獄一定住処ぞかし」についてどれだけ深い認識から出ているのか、それとも単なる大げさな表現ととらえているのか議論がいろいろあるようです。

私が思うに我が身の罪深きことを本当に嘆き悲しみ己の行く末を案じたときとても救われるような者ではないと懺悔の涙されたところから出てくるお言葉であると受け止めています。

ところがそうでないと言う方も中にはいらっしゃるのですからあきれてしまいます。

同じ阿弥陀様から頂いた御信心についても人それぞれの味わいがありますが、妙好人の味わいと同じ味わいが出来ないからと言って同じ御信心ではないとは言えませんが、御信心を頂いたと思っているなら妙好人と同じ味わいが出来ないことに真宗門徒として恥ずかしいとか尊敬の念があるべきと思うのです。

それについても分からないからと言って矮小化することは本当に残念です。

 

称名念仏についても同じです。

比叡山では南無阿弥陀仏の称名は行の一つとして現在も行われています。

常行堂で行われているのがそれです。

悟りの為の行の大事な一つなのです。

ところが最近は真宗門徒でさえ余りお念仏を称えなくなりました。

本山ではさすがに良く聞こえていますが末寺のお寺ではどうでしょうか。

また、ネットの中でもお念仏を教学的な扱いをして行として敬っている感じがしない場合があります。

信前の称名の軽視がその典型です。

 

上記にも書きましたが高森顕徹会だけでなく教学的な観点か真宗の信心において信を重視する余り称名をどうしても軽視しているように感じるのは私だけでしょうか。

お念仏は最強の説法でもあり聞法でもあると私は思っています。

臨終間際の人に何を勧めるのか、お念仏しかありません。

「どうか称えてくれ、必ずたすける」このお心が「南無阿弥陀仏」です。

阿弥陀様の叫び声が南無阿弥陀仏になられているのです。

大行についても信前のお念仏は大行ではないと理由のないいわれから軽視するひとも多くいます。

これについては私の中で自力、他力があるだけで、私の口から出た時点で南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏であってそこに自力、他力の区別は意味が無くなります。

また、親鸞聖人は自力のお念仏は嫌われていますが、称名は大行とおっしゃっています。

これについては行巻を読めば一目瞭然です。

南無阿弥陀仏を判断する能力が本当にあるのか聞きたくなります。

南無阿弥陀仏の何を知っているのでしょうか。

 

地球の歴史、もっと言えば宇宙の時間軸のなかで、今、南無阿弥陀仏と人類が称えている人がどれだけいると思うのか。

そして数万年後には人類は滅亡し、南無阿弥陀仏を称える人はいなくなっているでしょう。

経典に依れば人類は退化していくと書かれています。

地球の生滅と共に一旦は滅亡するのか、一度滅亡した後また人類が発生してくるのかもしれませんが、次に人類が発生し進化して佛の出現と共に南無阿弥陀仏衆生の口から出てくるのはどれだけの時間が経過してからになるでしょうか。

それこそ弥勒菩薩は56億7千万年後です。

この地球が生まれ人類が生まれお釈迦様がお生まれになりようやく今お念仏が称えられるようになりましたが、一体どれだけの時間がかかったことでしょう。

そして、その時代に運良く生まれている私はなんと希有なことでしょう。

南無阿弥陀仏と人類が称えられる時間はほんの一瞬であり、その一瞬に生きている人類のほんの、本当にほんの一部が称えているだけなのです。

今、極難信の法に遇い称名出来る人は大いに幸せでしょう。

そうでなくてもどこからか流れてくる音として南無阿弥陀仏を聞く人もどれだけの人が聞くことが出来ていることか。

阿弥陀様のお気持ちに立ったらどんな形であれ衆生南無阿弥陀仏を届けたい一心しかありません。

そう思うに付け称名念仏の軽視は本当に残念です。

信心正因、称名報恩

これについてはその通りでしょうが、だからお念仏を軽視する理由にはなりません。

なぜなら南無阿弥陀仏によって私は救われていくのです。

三悪道に落ちるしか無い、そんな業しか作っていない私が南無阿弥陀仏によって救われていくのです。

信前、信後関係なく称えるべきです。

称えたものを私が聞くのです。

聞即信

南無阿弥陀仏を聞くのも聞です。

私はそう思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追加です。

当たり前のことですが自力念仏で信は獲られません。

また、大行の解釈と信心を同時に考えると石泉や空華などになってしまうと思います。

その例が自力の称念は大行で無いという判断です。

私は衆生の口から出たお念仏は、お念仏として衆生の毒に染まらない大行としての働きがあると見ています。

 

・・・参考・・・

御文章 五帖目十三通

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。

されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
 そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。

しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。

それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。

されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。

このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。

されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。

かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。

自分の心の壁を乗り越える

宗教をやっていて思うのは、現代はあまりに偏見に満ちているということです。

カルト宗教と呼ばれるものだけでなく既存の宗教についても無批判に受け入れ信じている姿は愚か者に見えるのでしょう。

宗教に頼っている人は弱い人であり、また、愚か者という印象が否定出来ません。

過去に沢山の人と出会い別れて来ました。

私のことを理解してもらおうとしたこともありましたが、最近は半ば諦めています。

縁あれば話そうと思いますが積極的にこちらから宗教について話すことはありません。

そういう中でも縁あって話した人も結局疑いの眼でこちらを見てそれで終わってしまう人がいます。

残念だなと思う反面、心の壁は自分が作っているのだということがわかります。

こちらはニュートラルに接しようとするのですが、相手が騙されるものかと構えています。

それが本当に良く分かるのです。

「そうだよなー」と感じてしまいます。

「縁無き衆生は度し難き」と言われますが本当にそう思います。

自分に置き換えて見ればその通りなのですから。

 

偏見に凝り固まって頭ががんじがらめになっているのです。

大したことのない能力しかないのに自惚れて、また、臆病になって自分の殻に閉じ籠っているのです。

本当は誰かに頼りたいのに誰も信用していない哀れな存在が私の姿です。

常に何かに脅えてビクビクしている小さいものなのです。

そんなものをお天道さんの元へ引きずり出すのは大変なことです。

 

結局自分の問題なのだと思うのですが、とてつもない無力感を感じます。

 

翻って、阿弥陀様はそんな私を哀れんでご本願をお建てくださいました。

そのお陰でまず仏法に出遭うことが出来ました。

これが最初の壁です。

ここを乗り越えさせていただく事がどれだけ大変なのか本当にしみじみ思います。

それだけ迷いの深い世界に沈んでいると言うことです。

そして、阿弥陀様のご本願とのご縁により自分の心の壁を乗り越えさせて頂きました。

この不思議は不思議の中の不思議なのですが越えてみないと分からない世界です。

  いつつの不思議をとくなかに
  仏法不思議にしくぞなき
  仏法不思議といふことは
  弥陀の弘誓になづけたり
  親鸞聖人 高僧和讃

私が何か世界の全てを知っているわけではありません。

ただ、自分の心の壁に振り回されているのは今でも同じですが、少なくとも南無阿弥陀仏については越えさせて頂いたと思うのです。

南無阿弥陀仏による自由で平等な世界が本当にあるなんて思ってもみませんでした。

世間虚仮 唯仏是真

とても信じられる世界ではありません。

自力で分かる世界では無いのです。

すべて阿弥陀様から賜る世界なのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

新年度

失礼しました。
書きかけの記事が何故かアップされました。
ご容赦下さい。

さて、仕事や学校の関係か日本の制度か4月は新しい年度の始まりとして気分が一心されます。
残念なことに武漢コロナも相変わらず消えることなく、今後はこの忌まわしいウィルスとの共存をしていかなければなりません。
そうは言っても春は桜が咲きほこり空気も温かく散歩などはいい気分になります。
人生は苦なりと言われますが、安らぐ一時は必要なものだと思います。
法話に関して言えばウイルス感染に注意しながら行えば特に問題が無いことが判りました。
これからはウイルス感染に注意しつつ開催していくことでしょう。

新年度の真新しい気分とは裏腹に世の中には常に無常の嵐が吹き荒れています。
それは私の周りでも同じです。
また、私自身にも起こっています。
そして、最後には我が身に必ず無常の現実が訪れてきます。
だからこそ気分新たに仏法に向かおうと思うのですが、根がずぼらですのでいつものように左の耳から右の耳へとすべてが流れていきます。(右から左が普通なのでしょうが逆は無いのでしょうか?つい考えてしまいます。)
それだけ自分の周りは何事もなく今は平穏なのでしょう。
後生の解決よりも今年一年の予定の方が大事なのですから。

今生の生き方は大事です。
生活が苦しいと仏法どころではありません。
また、仕事が楽しすぎたり忙しすぎるとまた聞くことが難しくなります。
あらゆるご縁が整って初めて聞かせていただくことが出来るのです。
そのご縁もすべて阿弥陀様がご用意されたものと私は頂いています。

そんなことは無い。
私は自分の意思で聞いていると思われるならそれはそれで良いでしょう。
しかし、そんな気持ちが本当にあるのかお聖経には逆のことが書かれています。
※参照

いずれにしてもたまたま阿弥陀様とのご縁を頂いたのです。
ずぼらな私もせめてお念仏だけは忘れずに称えさせていただくようにしたいと思います。
とりあえず書いてはみましたが、しばらくするとみな忘れて煩悩のなせるままに生きるのだろうな。

残念、斬り!!

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏



一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。
一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。
観無量寿経

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
浄土和讃

問ひていはく、なんがゆゑぞ阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。
答へていはく、『弥陀経』および『観経』にのたまはく、「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし」
ただ念仏の衆生を観(み)そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。
(往生礼讃)

摂取
如来の光明の中に摂め取られること。
高田専修寺蔵国宝本の左訓には「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる
(オサメトル ヒトタヒトリテナカクステヌナリ セフハモノヽニクルヲオワエトルナリ セフハオサメトル シユハムカエトル)」
(註釈版571頁)

東日本大震災

2011年3月11日

この日は本当に大変な日でした。

大きな地震に加え津波、その後、福島第一原子力発電所の爆発事故による放射能汚染被害が発生しました。

この地震津波により多くの命がなくなりました。

中でも大川小学校の児童と先生のほとんどが津波にのみ込まれて亡くなったことは本当に心苦しく思います。

先生の対応が良かったのか悪かったのかいろいろ言われています。

裁判では県と市が住民の訴訟に対して最高裁まで戦いました。

結果、住民が勝ちましたが、個人的には何か空しさを感じてしまいます。

裁判記録を読むと「どうして」と思うことが沢山有ります。

しかしながら結果としてかわいい子供達が先生と一緒に亡くなりました。

親の立場に立てば本当に残念でならない気持ちで一杯でしょう。

数人の子供と先生一人が生き延びましたが、この先生も生き地獄だなと思います。

 

沢山の知り合いが支援のため東北に行きました。

放射線線量計を見せてくれました。

仕事だけで無くボランティアの人も沢山いました。

残念ながら私は行く機会がありませんでした。

 

仏教的な言葉で言えば、宿縁、宿業と言えるでしょうが、その言葉で片付けることが出来ません。

いろいろ調べてみると本当に残念な気持ちになります。

子供達はどうして死ななければならなかったのか真実が知りたいと思われるやるせない気持ちは心が痛みます。

しかし、その姿は訴える方も反論する方も共に仏教的に言えば煩悩具足の凡夫の姿です。

非難しているように思われるかもしれませんが、どちらの立場も理解出来るし、自分がその立場に立ったら同じ事をするかもしれません。

そうは言っても裁判をされている人たちは、そんな言葉だけで納得できるとは思えません。

残念ながら裁判に勝ったところで子供は帰ってきません。

泣くしかないのです。

こういうとき仏教は本当に厳しいです。

 

※1

諸行無常

是生滅法

生滅滅已

寂滅為楽

  

生きていて欲しいと思う気持ちもなくならないと思います。

※2キサーゴータミーの例もあります。

死の縁、無量とは言え幼い子供達が今死を迎えるのはどうしても必然とは思えません。

納得できるはずがありません。

こんな時、阿弥陀様は貴方の後生を救うと言われても耳に届くとは思いませんが、

ただ、後生というものを多くの死を通して知らせて下さっているのは間違い有りません。

それは被害に遭った方たちだけでなく私も全く同じ立場なのです。

 

死んだらどうなるのか、何のために生きているのか、どう生きたら良いのか、苦しみから逃れたい。

この苦しみから逃れる方法はあるのか。

受け入れるしか無いのか。

救われたい、誰か助けてくれ。

分からない、でも、生きるしか無い、とにかく前を向いて生きるしか無い。

・・・そんな叫び声が聞こえます。

 

南無阿弥陀仏は響き渡っています。

 

今、救われなくていつ救われるのか。

今、救われなかったら後生はどうするのか。

放っておけない問題が大きく立ちはだかっているのです。

 

 

阿弥陀様は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を南無阿弥陀仏一つで救うと誓っていらっしゃいます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

※1涅槃経

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。

 弘法大師空海が作ったとされる「いろは歌」はこの偈を詠んだものであると言われている。

(wikidharmaより)

※2キサーゴータミーという母親がいました。
ようやくよちよち歩きができるようになったばかりの一人息子を失い、悲しみに打ちひしがれます。
彼女は、息子を生き返らせ、治す薬を求めて釈尊のもとを尋ねます。
釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言いいます。
町中の家々を尋ねたキサーゴータミーは、
「ああ、なんと恐ろしいこと。
私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたのだわ。
でもどうでしょう。
町中を歩いてみると、死者のほうが生きている人よりずっと多い。」
と死はどこの家にもあることに気づかされました。

 そこで釈尊が彼女に、

子供や家畜 財産に
気を奪われて とらわれる
人を死王は さらいゆく
眠りに沈む 村々を
大洪水が のむように

と詩をうたいました。
死が、生きる者の逃れられない定めであることを教えられたキサーゴータミーは、出家して生死輪廻の苦しみの世界を超えた、仏の悟りの世界を求めていきました。
こうして尼僧となった彼女に、釈尊

不死の境地を 見ることなしに
百年間も 生きるより
たとえ刹那の 生であれ
不死の境地を 見られれば
これより勝る ことはない

と詩をおくりました。

 

『ダンマパダ・アッタカター』パーリ語の文献(本願寺のホームページより)

梵天勧請(ぼんてんかんじょう)

お釈迦様はお悟りを開かれた後、しばらく悟りの境地を楽しまれました。

そして、この悟りの内容は迷いの世界にいる衆生にとても信じられるものではないと思われ、解脱(涅槃)に入ろうとされました。

私には全く自覚がありませんが、それほど私達に絶望されたのです。

別の言い方をすれば、お釈迦様が悟られた内容は「世の中の流れに逆らうもの」だから人々に伝えるのは困難であると判断されたと言われています。

 この「世の中の流れに逆らうもの」をお釈迦様が悟られたと聞くと、ああ、そうなんだと納得してしまいます。

仏教上の正しいことと言われるものの一つに、八正道があります。

しかし、これらのうち一つでも出来るものがあるかと言えば、私は何一つ出来るものかありません。

確かに普通に賢く能力がある人だったら、こんな私に教え説く気は出て来ないでしょう。

「こんな馬鹿に言っても分かるわけが無い」と思われたでしょう。

 

四十九日がその期限でした。

そこに梵天が現れお釈迦様に悟りの境地を説くよう請求されます。

(請求経や阿含経の中でも書かれているそうです。三度請われたと言われています。)

苦しみ悩む者を救って下さいと請求(しょうぐ)されたのです。

 

次元は違いますが御信心を頂いた人の中には、この法を伝えなければと燃える使命感を持つ方が見えます。

故近藤智文師、故嶋田久義師方はそういう方でした。

梯先生も加茂先生も皆そうです。

今も浄土真宗の御信心が本当にあり、阿弥陀様のお誓いが本当であることを叫んでいらっしゃる方が沢山います。

 

日本は宗教の自由が保障されていますが、世界はそうではありません。

宗教の自由を求めて戦争になります。

戦争は良くありませんが、この浄土真宗のみ教えを破壊するものが現れたらどうするでしょうか。

過去の大陸の歴史は、民族間の紛争で常に勝った方が負けた方を根絶やしにする戦いです。

このことはちょっと調べてみれば分かる事ですが、そういう歴史から目をふさがれた教育をずっと受けています。

中国でも文化大革命で沢山の僧侶が殺害されました。

今、この日本の平和はどうして守られているのでしょうか。

残念ながら隣国の人たちは私達日本人に対して怨みをもって今も子供達に教育して洗脳しています。

そのことに目を背けていて日本を守ることが出来るのか疑問に思うことがあります。

私はこの仏法を破壊する人が来たらどうするのか考えてしまいます。

前回のブログで石山戦争について触れました。

この戦争は仏法を守るための戦いでした。

自分の子供や孫や子孫が救われる教えに出遭うことが出来なくなるのは耐えられません。

お釈迦様ならどうされたか。

梵天はどう言葉をかけてくださるのか。

そんなことを考えると心がざわつきます。

平和な世の中が続いて欲しいのですが、残念ながら過去の歴史を見ると長続きしていません。

いますぐどうなることは無いでしょうが、近い将来何が起きるか分かりません。

それについての備えは本当は必要なのでしょう。

ある意味、今まさに戦争状態なのかもしれません。

経済戦争と言われる状態は、常態化しています。

 

 

真実は、この世の中は苦しみの世界なのです。

それでも仏法を伝えて行かなければならないとしたら大変な使命をお釈迦様は引き受けられたのでしょう。

そして、お釈迦様に続くお弟子方は命がけで法を伝えて下さいました。

そのお陰で今の私があります。

申し訳ないことです。

 

私は残念ながら自分さえ良ければいいと思っています。

この世の中をうまく渡って行ければそれで満足です。

でもどこからか「それで良いのか」という声が聞こえます。

耳をふさいでも聞こえてきます。

南無阿弥陀仏にそんな意味があるとは思いませんが、困ったものです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

・・・参考・・・

「困苦して我證得せる所も今また何ぞ説くべけん。
貪・瞋に悩まされたる人々は此法を悟ること易からず。
これ世流に逆らひ至微にして甚深・難見・微細なれば欲に著し黒闇に覆はれし者は見るを得ず。」


「世尊、願わくは法を説きたまへ
善逝、願わくは法を説きたまへ
有情にして塵垢少き者あり、若し法を聞かずばた退堕するも、聞かば法を悟り得べけん。」

 

「甘露の門は開かれたり
耳ある者は聞け、己信を棄てよ
梵天よ、人々を、女堯惑せんかと思ひて
微妙の正法を説かざりき」 

 

 

苦労して会得したものを、なぜ私が説かなければならないのか。
貪と瞋に支配された人々が、この法をよく悟ることは難しい。
これは「流れに逆らうもの」で、見がたく甚深であるものだから。
貪に支配され、暗闇に覆われた者には見ることができないのだ。

 

どうか教えを説いてください。
穢れの少ない者たちもおり、彼らは教えを聞かなければ堕落してしまうが、
教えを聞けば法を悟ることができるでしょう。

 

 梵天よ、私は不死, 涅槃の門を開くこととした。
耳を持つ者は聞け、私心を捨てよ。
説法では、皆の恐れを買わないよう注意深く言葉を選ぶので、
人々は高貴な言葉を得るであろう。

南伝大蔵経