とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

たとえ天地がひっくり返っても、阿弥陀様のお慈悲だけ変わりはない

「たとえ天地がひっくり返っても、阿弥陀様のお慈悲だけ変わりはない」
常にそう言っていたお寺の住職がいたそうです。
お寺で子供たちが遊んでいても何かあるたびに言われていたようで子供たちの記憶に残っていました。
子供たちは「何を訳の分からないことを言っているのか」と思っていました。
何年か経って子供たちが大人になって集まったとき住職の話が出ました。
色々人生の苦労を味わって来て、あらためて住職の言葉を思い出したとき「本当にその通りだな」と言われたそうです。


この話を聞いたとき余程ご縁のある人たちだなと思いました。
小さいときから知らず知らずのうちにお育てにあずかっていなければ大人になったところでそうは思わなかったでしょう。
人生の辛酸を舐めさせられ、嫌でも苦しみを感じながらも生きていかねばならないとなったとき何が支えになるのか。


今の時代は不幸な時代です。
嫌でも何でもとにかくお寺に行かされていた人は身を通して仏教が染み込んでいくのです。
ところが今はお寺はただの景色になっています。
人生の苦しみを解決してくれるところでは無くなっているのです。


大草原の小さな家」というテレビ番組がありました。
日曜日になると家族揃って日曜日礼拝に行くのです。
帰り道に村の皆とおしゃべりをしながら夜はディナーを食べます。
当然神に祈ることを忘れません。
映画「ワイルドスピード」にも食事の前に祈る場面がよく出てきます。

町中のレストランで食事の前にいただきますの挨拶をしている姿をあまり見かけません。
そう言う自分も時々忘れています。
五濁悪世の時代です。
煩悩濁です。
政治の世界も嘘を平気についている人が沢山います。
近隣諸国では世界に嘘を撒き散らして平気です。
ある指導者が戦争の時、「我が国は人口が多いのだから多少死んでもどってことない」と言われたという話を聞いたことがあります。
とんでもないことです。
他人の命など何とも思っていないのです。
今日一日の糧を頂いたことに感謝している人はどれだけいるでしょう。
自分も含め、自分さえ良ければそれで良いと思っている人ばかりです。
まことは何処にあるのか。
私たちはそんな世の中に生きています。

「たとえ天地がひっくり返っても阿弥陀様のお慈悲だけは変わりはない」

有り難い言葉です。
このご縁に遭わせていただいた幸せを本当に希有なことと思っていない自分は情けない限りです。
それでも今この呼び声は私に響いているのです。
そして、皆様お一人お一人にも同じように響いているのです。

「仏心とは、大慈悲これなり」
観無量寿経

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

どうしたら信心決定できるのか(愚問だが大事な問題)

浄土真宗の教義がある程度分かってくるとどうしても出てくる疑問があります。

「どうしたら信心決定できるのか?」という疑問です。

 

いまさら言うことでもありませんが、浄土真宗は「後生の一大事の解決」が目的でもあります。

後生の一大事は、私が死んだ後苦しみの世界に行くかもしれない事です。

もう一つは信後の往生浄土の一大事がありますが、これは慶びですので問題になりません。

死後、苦しみの世界に行くかもしれないというその不安な気持ちを抱えたまま生きて行くのは辛いと思われる方は(ほとんどの方はそんなこと思ってもいません)、その解決がどうしてもしたくなります。

その解決のために信心決定が必要と言われています。

蓮如上人は御文章に何カ所も信心決定せよとか信を獲れとおっしゃっています。

後生の一大事の解決と信心決定の内容については、簡単に言えば「私の後生は阿弥陀様にお任せする」と言うことです。

ですが、そう簡単にいきませんので、いまだ信心決定出来ない人に出てくる気持ちは以下のようなものです。

なぜ、私は信心決定出来ないのか。

他の人は簡単に御信心を賜っているように思える。

私はお念仏もしている。

 しかし、私のお念仏は自力だから駄目だ。

聴聞もしている。

阿弥陀様の誓いも理解出来る。

仏願の生起本末も理解出来る。

私は煩悩具足も理解している。

阿弥陀様はそのまま救うと言われるが、そのままが分からない。

・・・

それに阿弥陀様が信じられない。

阿弥陀仏を信じよと言われるが本当に信じる事が出来るのか。

いや、信じよとは言われていない、任せよと言われている。

では、信じなくて良いのか。

中には信ずる心も念ずる心も求める心も無いと言う人がいるのに、どうして信心決定したような顔をしているのか。

・・・

信心を頂いた気がしない。

何が違うのか。

どうしたら信心決定出来るのか。

親鸞聖人が最も苦しまれたのは、仏の悟りを自力で開こうとしてもとても我が力が及ぶ世界ではないことに絶望されたのです。※1

それでも諦められず山を下りられ法然上人の所へ向かわれました。

そして、今まで修行してきた称名念仏(名号)が救いの証拠などと言われても絶対に信用できなかったことでしょう。

自力が当たり前の聖道門を捨てて初めて浄土門(他力)に入るわけですから。

そこで再度知らされたのは自力無功なのです。※2

親鸞聖人のような方でさえ我が身の力の無力さを思い知らされているのです。

まして仏の悟りを開くなど私達がとても太刀打ちできる世界ではないのです。

親鸞聖人は阿弥陀様に駄目だしをされて初めて我が身の自力を捨てさせられたのです。

その事に気付かれた親鸞聖人は本当に驚かれたと思います。

※3

いままで好相行(仏を見るため五体投地を行う行)や常行堂(不眠不休で不断念仏の行)で行っていた称名念仏(名号)に任せるなど思いもよらなかったことでしょう。

どうするもこうするもない、ただただ仰せに従っていくだけだと。

その事に気付かれた聖人は驚天動地の思いがあったと想像出来ます。

あまりの簡単さにとても信じられるものではないとも思われたことでしょう。

そのままの救いには言葉もなかったと思います。

※4、5

 

どうしたら信心決定出来るのか。

愚問ですが真剣に聞法すれば必ずぶち当たる思いです。

しかし、愚問は愚問です。

なぜなら、「どうしたら」という言葉には時間の長さがあります。

それは阿弥陀様の勅命に反しています。

「汝一心正念にして直ちに来たれ」

阿弥陀様はおっしゃっていらっしゃるからです。

 

「現在、ただ今、堕ちるそのまま

我をタノメ、我が名を称えよ、必ず救う」

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※1

嘆徳文

「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ。しかるに一息追がざれば千載に長く往く、なんぞ浮生の交衆を貪りて、いたづらに仮名の修学に疲れん。すべからく勢利を抛ちてただちに出離を悕ふべし」

 

※2

正像末和讃

自力聖道の菩提心 

こころもことばもおよばれず 

定没流転の凡愚は 

いかでか発起せしむべき

 

 

※3

歎異抄
聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。 さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。

 

※4

御消息集

・・・・・・(前略)

念仏往生の願(第十八願)は如来往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそ、きこえて候へ。また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。

 かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。

・・・・・・(後略)

   二月九日             親鸞

  慶西御坊 御返事

 

※5

顕浄土真実教行証文類
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

 

 

 

この世は平等でない

残念ながらこの世の中は全く平等ではありません。

美醜や賢愚、強弱貧富の差、更には長命短命、貴賤等々はどうしようもありません。

特に美醜に関しては瞬間的に各自が判断しますのでどうしようもありません。

いろいろ判断基準はありますが不思議なことに好き嫌いは別としてほとんどの人が美人と思う人は誰が見ても美人であり、そうで無い人はそうでは無いのです。

そういう能力(本能)が私達に共通してあると言うことは本当に不思議に思います。

他にも若い人は好きで年寄りは嫌いなのです。

ハッキリしています。

今はコロナでマスクがあり多少はごまかせますが、テレビやネットの世界ではマスクなしの映像です。

それに最近はやたら化粧品や美容に関するCMが多い気がします。

CMにもほとんど美しい男女しか出てきません。

世間でも美人は多少ア○ポ○タンでも許されますが、そうでないと優しくはされないのが顕著と思います。

特に女の人は大変だなと思います。

生まれたときから大きな差が付いてしまっているからです。

たとえ美人だとしてもそれで本当に幸せになるのかどうかは分かりませんが、少なくとも子供から少女時代は大変でしょう。

それは男でも同じだと思いますが、男はぶさいくでも力(体力や頭脳など)があれば何とかなりますが、女の人は力があったら避けられることが多くなるでしょう。

しかし、美しくなろうと自分の人生の多くの時間を割いても、なんともならないことは何ともなりません。

最後は整形に走って行く人もいます。

お釈迦様は心のきれいな人が本当に美しい人だと言われましたが、残念ながらお釈迦様のような人はほとんどいません。

表向きの多様性をどれだけ叫んでも差別は変わらないと思います。

人を差別することは、人間の自己防衛本能かもしれません。

口に出さないだけで皆思っていますし、そういう態度をするのでより陰湿になるのかもしれません。

関西のテレビで吉本新喜劇のように笑いにすることもそのうち出来なくなるかもしれません。※1

では、仏教ではどう言われているでしょう。

・・・・・・・・・・・・・

『小業分別経』(しょうごうふんべつきょう)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第135経。『鸚鵡経』(おうむきょう)とも。

ある時、釈迦は、サーヴァッティー(舎衛城)のアナータピンディカ園(祇園精舎)に滞在していた。

そこに婆羅門トーデッヤの息子である青年スバが訪れ、釈迦に、人間に長命と短命、肥痩、美醜、強弱、貧富、貴卑、賢愚といった区別・優劣が生じる原因を問う。

「ゴータマよ、どのような因、縁で、人々には優劣が見られるのでしょうか?
ゴータマよ、(世の中には)短命な人が見られる一方で、長命な人が見られます。
多病な人が見られ、健康な人が見られます。
醜い人が見られ、美しい人が見られます。
無力な人が見られ、影響力のある人が見られます。
貧しい人が見られ、財の多い人が見られます。
低い家系の人が見られ、高い家系の人が見られます。
愚かな人が見られ、智慧のある人が見られます。

ゴータマよ、どのような因、縁で、人々には優劣が見られるのでしょうか?」

 

「青年(スバ)よ、衆生は、業を自分のものとし、業を相続し、業を胎とし、業を親族とし、業をよりどころとする。
業が衆生を分類し、優劣をつける。」

 

wikiより引文

・・・・・・・・・

全てその人についた業(宿業とも言います)によるといわれています。

自分では分からない過去世の因縁によるのです。

残酷な話です。

「そんなこと知らない、誰も教えてくれない、どうして私はこんなに・・・・。」

「親ガチャ」という言葉が流行りました。

こんな親の元に生まれたからなんだと親のせいにします。

しかし、そんなことを言ったところで空しいだけです。

 

阿弥陀様のお慈悲は、たとえ天地がひっくり返っても変わりありません。

一人一人について離れません。

必ず救うと誓っていらっしゃります。

 

しかしです。

ここで美醜をなんとかしてくれる訳ではありません。

あくまで後生の一大事、生死出べき道をハッキリさせていただけるのです。

 

全くこの世の幸せ(煩悩)とは関係ないのです。

ここ(美醜など煩悩で悩んでいる方に)をどう折り合いを付けられるのか私には分かりませんが、そこには今生だけで後生永遠の問題については本当に小さな問題なのだということに気付いてもらうしかないのです。

後生こそ人生の大問題であるということです。

 

人生はあっという間です。

美しい人もすぐに老婆になります。

そこに拘るよりもこの無常の世の中に拘ってもらいたいのですが、煩悩は強力ですから。

 

一人一人のご縁とは言え電車に乗車したとき、きれいに化粧をして澄ましている人を見るたびに思ってしまいます。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※1

吉本新喜劇などでは美醜を笑いの種にしています。

たとえば「ぶっさいくやなー」などと言われています。

そのままと言われても・・・

阿弥陀様の救いについてよく使われるのが「そのまま」という言葉です。

「そのまま」の意味は、手を加えることなく現状のままという意味です。

現状と言うことは「今」の状態と言うことで、その「今」とはいつまで経っても「今」となります。

つまり死ぬまで「今」ということです。

当たり前ですが私達人間界に生を受けて「今」を生きています。

過ぎ去った過去は、今ではありませんし、まだ来ぬ未来も今ではありません。

過去世と未来世の接点がこの「今」現在世と言うことになります。

そしてただ「今」救うと言われた根拠が願成就文となります。※1

 

しかしです。

御信心がハッキリされていない方は「そのままと言われても・・・」となります。

「そのまま」なら聞法も必要ないのか。

称名念仏」も「勤行」も何もしなくても良いのかという事になりますが、これは大きな聞き違いとなります。

さらに「聞く一つと言われて、何度も何度も同じ事を聞いているが一向に何も変わらないじゃないか。」と言われます。

ここで矛楯が生じます。

「そのまま」と言われ、それを「そのまま」受け止めることが出来ない状態があります。

それを解決するために、その人その人に応じた「道」があります。

その「道」は人それぞれですので、聞法や勤行や称名念仏などそれぞれです。

しかし必ずその「道」を皆さんが通って御信心の世界に出られるのです。

この「道」を「求道」と言うと間違いになりますが、傍から見たら「求道」以外の何ものでもありません。

でも浄土真宗では「求道」という言葉は「そのまま」の救いと矛楯するため使いたがりません。

・・・・・・

浄土真宗のご法義は「信心正因」です。

ですから「絶対他力、無条件の救いなら、どうして、信心という条件があるのか」という疑問が出てきます。

(私は読んだことはありませんが)『増一阿含経』という経典には、仏教とそうでないものとを見分ける、三つの指標が説かれているそうです。

「こうなったら仏教ではない」という目印です。

一つは「宿命造」いわゆる運命論・宿命論です。

「自分の人生は、すでに運命によって決定している。」

こうなったら仏教ではありません。

お釈迦さまは、精進・努力によって自らの未来を切り拓く教えを説いてくださいました。

二つめは「尊裕造(そんゆうぞう)」神意論のことです。

この世界は唯一絶対の神によって造られ、全知全能の神によって支配されているという、ちょうどキリスト教のような考え方です。

阿弥陀さまが全知全能の創造主であるのなら、いやでもおうでも浄土へ引きずり込むということもあるかもしれませんが、こうなったら仏教ではありません。

三つめが「無因無果」偶然論のことです。

当然のことながら、仏教は因果の道理を説きます。

私のさとり(仏果)には、私の側に仏因がなければなりません。

それが正しい因果の道理というものです。

おなかがすいたからといって、代わりに食事をしてもらっても、私は満腹になりません。

私の仏果には、私の側に仏因がなければなりません。

それが仏教の原則で、浄土真宗では、それを「信心正因」とするのです。

しかしながら、私の側の仏因といっても、私の側には迷いの元ばかりで、仏因になるようなものは、何ひとつ持ち合わせておりません。

私の迷い心でつくった信心ならば、仏因になるというような厚かましいことはいえないのです。

「かつて一善もなし『無量寿経』、『註釈版聖典』六九頁」といわれる身において、仏因になりうるものは、阿弥陀さまからの真実が届けられる他力回向の信心のみです。

喚び声のままの信「信心」は、「心」という字があるように、私の心に起こるものです。(なぜなら阿弥陀様からご信心を賜るからです)

私の心に起こることについて、私のはたらき(自力)が関わったのでは、迷いのもとが雑じることになり、仏因とはなりえません。

私の心に起こることでありながら、私の心のはたらきをさせないあり方とは、どういうことになるでしょう。

それが、聞くままがそのまま信となる、「聞即信」のあり方です。

「聞く」という行為は、先手の音声があって、初めて成立します。

私か講義をたのまれても、日時を間違えて一日遅く行ったら、せっかく集まってもらった受講生にとっては、私か到着してないので「聞く」という行為は成立しません。

阿弥陀さまが「喚び声」の仏さまとなられたのは、私の心に起こる信心について、私の心のはたらきをさせず、先手の「喚び声」がそのまま信となる、まさに「他力回向」の信となる救いの構造を完成されたからです。

光明寺 浄土真宗本願寺派(西本願寺) of 光明寺 (komyouji.com)より引文

・・・・・・・

先手の阿弥陀様の南無阿弥陀仏が届いて居るから、それを受け取ることによって因が私に宿ることになります。

届いて居ても受け取っていなければ私に因は出来ません。

では、「どうしたら」という考えが出てきますが、そもそもそこが間違いなのです。

摂取不捨と言われる所以です。

一生懸命求めていることが実は真逆の事だったと気付かされたときの驚きは言葉では表現出来ません。

ただただ懺悔です。

結局、ある程度この頭で理解出来るまでは聞法を重ねなけれならないということだと思います。

それも人それぞれの道があり、これが正しいというものは無いのです。

そして、絶対に忘れていけないのは、

「現在、ただ今、堕ちるそのままの私を南無阿弥陀仏一つで必ず救ってくださる」と言うことです。

「我をタノメ、我が名を称えよ、必ず救う」

これが全てなのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

ウクライナとロシアの戦争はまだ続いています。

本当に残念でなりません。

早く終わることを祈っています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※1

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転

唯除五逆 誹謗正法

 

生死の一大事よりロシアや中国の方が怖い!?

ロシアがウクライナを2月24日から攻撃しています。
大々的な戦争が始まっています。
多くの人も既に亡くなっています。
どうしてこんなことが起きるのか。
プーチン大統領一人が悪いのか。

全ての物事は縁起の法によって引き起こされます。
そこに人の意思が加わっているのかどうなのか私にはよく分かりませんが、間違いなくプーチン大統領の煩悩は活発に働いていることでしょう。

そう思うに付けても人間はいつ死ぬかもしれないのにロシアや中国がいつ襲ってくるのかの方がより不安です。

明日をもしれない命なのにそれよりも戦争の恐怖を先に考えるのは迷っている証拠です。
しかし、どうしてもそう思ってしまうのです。
それが人間だと言われればそれまででしょうが、どうしてそう思ってしまうのか。
本当に迷いのまっただ中の人生です。
むしろその事に疑問を持つ私達仏教徒の方が極少数派なのでしょう。

ロシアは北海道に攻め込むかもしれません。
北海道の漁業関係者は拿捕される恐れがあります。
中国は台湾を攻めながら沖縄に攻撃してくるかもしれません。
日本の自衛隊が頑張っても大量の武器と兵隊で攻めてきたらひとたまりもありません。
当然アメリカに頼りますがまずは日本が頑張ってロシアや中国の攻撃を防がなければなりません。
当たり前ですがヨーロッパ諸国が日本に軍隊を派遣して守ってくれるわけがありません。

政治の事を話すのは本意ではありませんが、ことこの後に及んでは考えざるをえません。

しかしです。
仏教的に考えるとどうでしょう。
お釈迦様の民族、釈迦族は滅ぼされました。
日本も抵抗しなければロシアや中国に滅ぼされて民族は抹殺されるでしょう。
それも宿業と受け止めて家族や親戚が殺されたりしていくのを黙って見ているのでしょうか。

このことを考えるに付け信長の本願寺との戦争、石山戦争を思い起こします。
仏教を守るための戦争に荷担するのか逃げるのか。
皆さんならどうしますか。
石山戦争は結局日本人同士の争いですので最後は門徒虐殺ということは起こりませんでした。
しかし、ロシア人や中国人は民族が異なります。
ロシアとは日露戦争、中国とは日中戦争を日本はしています。
負けたらどうなるのでしょう。

私はだまって奴隷になるのは嫌です。
欲しいのは安心と安全です。
そのためには他国から攻められない準備が必要と思います。
日本の軍備を増強することによって他国からの攻撃を牽制することが出来ると思います。
必要悪だと思いますがそうしなければ自国の民族を守ることが出来ないと思うのです。

ウクライナの歴史を見ると本当に悲惨です。
ソビエトによってホロコーストまがいの虐殺や兵糧攻めによる餓死、ホロドモールが起きています。
まるでユダヤ人の様に迫害を受けています。

日本は幸いにも島国で他国からの侵略戦争は多くありませんでした。
しかし、これだけ兵器の進歩が進んだ今、あっという間に日本が侵略される可能性が出てきました。
大乗相応の地と言われた親鸞聖人のお言葉を守るためにもこれからの日本の在り方を考える時期に来ていると思います。

阿弥陀様のみ教えが末永く続く日本であって欲しいと思っています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

男女平等?

今回はかなり私見が入っていますが、ちょっと気になっていることですので書いていきます。
男女平等やジェンダーフリーという言葉を最近特によく耳にしますが、その言葉の捉え方は人それぞれだと思います。
そもそも男と女の違いはなんでしょうか。
決定的に違うのは身体的相違と女性には出産があります。
次に仕事が頭にきますが、さらにはスポーツでしょうか。
それ以外には何があるのでしょう。
趣味や嗜好でしょうか。

やはり進化の過程において性別が分かれる理由があると思います。
種族存続と繁栄を目的として性別ができたのだろうと想像できます。
性別の無い生き物も一部にはいますがその殆どがごく少数です。

いやいやミミズはそうだとか蟻だってと言われるでしょうが、両方とも性別があります。(正確にはミミズは雌雄同体)
アリの世界では働き蟻はほとんどメスと言われています。
役割分担がされています。
畜生界(自然界)においてもそうなのですから、人間界はなおさらです。
私は心も体も生物学的に言えばオスですので基本的に他の性別について心と体がどういう関係なのか興味がありません。
つまり、好みのメスには煩悩(色欲)を起こしますがそれ以外は心も体も拒絶します。
私はそういうふうに出来ています。
それをそうではないように私を変えようとしても全身全霊を持って拒否するでしょう。
そして男と女に別れた性別の人がこの世のほとんどです。
では一体とれだけの人が性別に違和感を持たれているのでしょう。
以下の記事がありました。

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北海道文教大の池田官司教授(精神医学)らの研究。厚生労働省医療機関に対する2011年の調査で、国内の患者数を少なくとも約4千人と推計しているが、10倍以上の患者がいる可能性がある。
日本経済新聞 2013/4/21
...............

国内で多く見積もって4.6万人です。
この数字をどう捉えるかです。
約2.8千人に一人となります。
その事で本当に苦しんでいる人はいるでしょう。
また、受け入れて生きている方もいるでしょう。
仮に私の回りに誰かいたとして、単なる病人がいるのと同じです。
また、私が聞いたところでどうしようも出来ません。

残念ですが何ともならないことは何ともならないのです。

民主主義であり多数決の世界で尚且つ資本主義においてはあまり相手にされません。
ガンや他の病気、さらには身体障害の人が沢山いらっしゃいます。
ガン患者は約100万人です。
身体障害は約370万人、精神障害は約320万人、さらに知的障害などの障害の有る方を含めると全体で約740万人です。(厚生労働省の調査より)
ですからジェンダーについてことさら取り上げる問題なのかと思うのは冷たいのでしょうか。

ほとんどのサイレントマジョリティは何も言わず黙っているのです。
騒いでいるのはマスコミくらいです。

仏教的に言えば、苦しみの一つというだけです。
生きていくだけで大変なんだという声が聞こえてきます。
苦しみは人それぞれです。

男女平等だジェンダーフリーなどと声だかに言うのは性別により差別されていることを問題としています。
しかし差別の無い世界は何処にあるのでしょう。
また、差別の無い状態はどういう状態をいうのでしょう。
その形も示すことができずに目先の利益のみで判断しているのではないのかと思います。
確かに100年程前はそうだったのかもしれません。
しかし本当に全ての女性が蔑視されていたのか疑問です。
時代に応じて単に仕事の役割が違っただけなのではないかと思います。
それを差別と言うのは一面的な見方と思います。
現代の日本はどうでしょう。
ほとんど権利としては平等と思います。

現代の社会のおいても、それぞれの役割に応じて力を合わせて生き抜くだけなのです。
特に日本において女性はどんな生き方をしても自由だと思います。
ただ、仕事の上では男性優位の会社が多いと思いますがどうしてそれがいけないのでしょう。
女性優位の会社も沢山あります。
ヨーロッパはアメリカは?アフリカは中国は?アジアやロシアはどうでしょう。
アフガニスタンはかなり女性を虐げているようですがそれが世界の趨勢でしょうか。
この日本において、私が生きてきた上で、男女平等ともの心ついたときから育てられてきました。
ですので女性が虐げられていると感じることは一切ありませんでした。
むしろしたたかに女を利用して生きている人がほとんどです。
「女は強いなー」といつも思っていました。
ほとんど私の偏見かもしれませんが。

日本において、男女平等でないと叫ぶのは嘘ばかりですね。
そういうことを主張される方には別の目的が有るのではないかと思ってしまいます。
もっと非難すべき国が沢山有るのではないかと思います。
言葉に騙されます。

世間虚仮 唯仏是真
聖徳太子

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

お浄土とは

新しい年が始まりました。

中国で始まったコロナは人類をあざ笑うかのように変異し翻弄します。

この先どうなるかは、それこそ神のみぞ知るでしょうか。

さて、そんな暗い話ばかりでは嫌になってしまいますので今回はお浄土について考えてみます。

 

まず、地獄と極楽と言うと地獄の話が多いのは皆さん地獄に行きたくないかなのか、それとも昔いたところだから懐かしいのか分かりませんが、結構興味を持たれます。

ところが極楽、あるいはお浄土となるとピンときません。

行ったことも無いし、そもそもお浄土の話を聞いても「ふーん」で終わってしまいます。

死んだ先がどちらかのかは本当に大事な問題なのですが、ほとんどの人はさほど気にしていないのでしょう。

振り返って私自身についても、ただただ、「死にたくない」とか「苦しいのは嫌」という感情が先に来てしまうのは、私の阿頼耶識がうすうす地獄は苦しいと思っている証拠かもしれません。

 

浄土真宗では御信心を頂いた人は正定に等しい人となり一息切れたその先は阿弥陀様のお浄土に生まれ仏の悟りを開くことになります。

このお浄土は阿弥陀経によれば苦しみは無く、楽のみうける誠に有り難い所のようです。

 

まず、七重の玉垣と並木があります。

それらは金や銀、宝石などの宝から出来ています。

また、七つの宝で出来た池がありまことに功徳のある水が充ち満ちて、池に咲く蓮の華は、車輪のような大きさで青色、黄色、赤色、白色などに光り輝きまことに不思議な良い香りを放っています。

さらに妙なる音楽があふれており、地面は黄金に光り輝き昼夜六字には曼陀羅の華が天から降ってきます。

そしてそこの住人はあふれんばかりの華で多くの他の仏様を供養するのです。

食事の時間までには帰ってきて皆さん極楽を散歩されます。

空には沢山の鳥たちが昼夜六字に優雅な声で鳴きます。

この声を聞いて仏を念じ、法を念じ、僧を念じます。

この鳥たちは畜生ではなく阿弥陀様が姿を変えられたものです。

この世界ではそよ風に合わせて美しい音楽が流れてきます。

そして皆さんが仏を念じ、法を念じ、僧を念じるのです。

 

とまあこんな調子で阿弥陀仏のお浄土およびお徳が説かれています。

説かれていることが何を指しているのか分かりませんが、素晴らしい世界であるのは間違いないことでしょう。

何故ならお釈迦様はその世界を見た上で書かれているのですから。

正直、私には訳が分かりません。

浄土論や浄土論註も読んでみましたがさっぱりです。

とにかくお徳がすごいというのは何となく分かります。

それと親鸞聖人の教行信証にも書かれている通り、徃相回向、還相回向が説かれています。

お浄土はいろいろ煩うことがないため修行に適しているのだと言う話を聞いたこともあります。

親鸞聖人は、お浄土に長居はせず、すぐこの世に還ってくるぞと言われています。

 

個人的にはこの世には還ってきたくありません。

次に来たらどんな人生が待っているのか怖ろしくて仕方ありません。

お浄土がどんなところが分かりませんが、楽のみ受けるのが良いと思っています。

 

「そんな奴が行ける所では無いぞ」という声が聞こえてきますが、私の意思とは無関係に阿弥陀様が連れて行ってくださるのです。

「じゃあ、本当に御信心頂いたの?」という声も聞こえてきますが、まあ、どうでも良いのです。

やはり、単に苦しいのは嫌だだけが私の姿ですね。

そんな私をまるまる救うと言われるのですから、やっぱり私の意思とは無関係です。

さてさて、どこへ行くのやら。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

舎利弗、かの土をなんがゆゑぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく。

 また舎利弗、極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。みなこれ四宝周帀し囲繞せり。このゆゑにかの国を名づけて極楽といふ。

 また舎利弗、極楽国土には七宝の池あり。八功徳水そのなかに充満せり。池の底にはもつぱら金の沙をもつて地に布けり。四辺の階道は、金・銀・瑠璃・玻瓈合成せり。上に楼閣あり。また金・銀・瑠璃・玻瓈・硨磲・赤珠・碼碯をもつて、これを厳飾す。池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。 舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

 また舎利弗、かの仏国土には、つねに天の楽をなす。黄金を地とし、昼夜六時に天の曼陀羅華を雨らす。その国の衆生、つねに清旦をもつて、おのおの衣裓をもつて、もろもろの妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。すなはち食時をもつて本国に還り到りて、飯食し経行す。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

 また次に舎利弗、かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。このもろもろの鳥、昼夜六時に和雅の音を出す。その音、五根・五力・七菩提分・八聖道分、かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この音を聞きをはりて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。舎利弗、なんぢこの鳥は実にこれ罪報の所生なりと謂ふことなかれ。ゆゑはいかん。かの仏国土には三悪趣なければなり。

 舎利弗、その仏国土にはなほ三悪道の名すらなし、いかにいはんや実あらんや。このもろもろの鳥は、みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して、変化してなしたまふところなり。舎利弗、かの仏国土には微風吹いて、もろもろの宝行樹および宝羅網を動かすに、微妙の音を出す。たとへば百千種の楽を同時に倶になすがごとし。この音を聞くもの、みな自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず。舎利弗、その仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

仏説阿弥陀経