とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

犬の葬式

最近我が家の犬が死にました。

犬に対して亡くなりましたとは言いませんが、どうもペットブームのせいか犬が死んでも亡くなりましたと言う人もいるようです。

犬の葬式をどうしようかと思いましたが結局自分で行いました。

一通りのやり方は知っていましたので人間の所を犬に変えて行ったのですが、なんとも不思議な気持ちでした。

ただ、何も行わないでそのまま斎場に持って行くのもどうかと思い「とりあえずやってみるか」と思った次第です。

やってみてやはりけじめがつくというか気持ちの整理はある程度出来る気がしました。

しかし、最近は人の葬式でも直葬を行うと聞きます。

実際私の後輩は親の死に際してそれを行いました。

本人はそれで良いのかもしれませんがその話を聞いたときなんだか寂しい感じがしました。

 

ペットブームという訳ではありませんが犬は家族の一員として大きな存在であることは間違いありません。

また、最近ではほとんどの家が家の中で犬を飼っています。

昔は番犬としての役割が大きく外で飼っているのがほとんどでしたが、今はステータスというのか癒やしなのかしりませんが家の中での飼育がほとんどです。

また、鳴き声が近所迷惑なのかもしれません。

なんとも世知辛い気がします。

 

テレビ番組でもyoutubeでもペットの動画は本当に多いです。

私は犬の毛に対してアレルギーがあったので外で飼っていました。

また、犬は外で飼うのが当たり前と思っていましたので家の中で飼うなどもっての外でした。

アメリカのような大きな家に住んでいるなら家の中でも良いかもしれませんが日本のように狭い家に犬が一緒にいるのはなんだか滑稽な気がするのは私だけでしょうか。

 

ところで我が家の犬は18年近く生きていたので、いるのが当たり前の感覚が抜けなくて死んだあとでも時々犬のいた場所に面影を感じています。

寂しい気持ちになるのですが、人について同じように思うのかちょっと疑問に思います。

最近の世の中は親の面倒を自分の家で最後まで見ることはしません。

犬は最後まで面倒見るのにです。

人間の場合は大変だから面倒を見ないのでしょう。

犬は面倒見るのが楽だからでしょうか。

いやいや面倒見れなくなってペットを捨てる人は沢山います。

結局人間も面倒が見られないから捨てられているのではないかと思います。

いずれ私も家族に捨てられ運が良ければ施設に入ることが出来るのでしょう。

「施設に入って面倒見てもらえて良かったね。」

そう言われるような気がします。

その時が来るまでとにかくやりたいことをやり残すことがないよう、後悔しないよう生きるだけだと思っている人は多いでしょう。

果たしてそんな人生で良いのか。

 

時々ですが思います。

もし、仏教に出会えていない人生だったらどんな生き方をしていただろうかと。

そんなに大差は無いのかもしれませんが私の場合は仏教に出会えて生きる力をもらいました。

人生に生きる意味があると教えられたことは本当に力になったのです。

生きる意味に悩み死がすべてをぶちこわすそんな人生に意味があるのか本当の分からず悩んでいました。

ところがそんなことを思う人間は一部でしかないこともだんだん分かってきました。

ごくごく個人的な悩みなんだと。

そうは言いながらもNHKでは心の時代というテレビ番組をずうっと作成しています。

一定数の人間が人生に悩んでいると想像できます。

 

犬よりも人間の方が大事だと思うのですが、犬をかわいがり親をないがしろにしているのはいったい何なんだろうと思ってしまいます。

人生についてもどう考えているのか疑問に思います。

結局は自分が良ければそれが一番なのでしょう。

所詮私も同じなのでしょう。

我が身が一番かわいいと仏教で教えられるとおりです。

我執の心です。

 

歎異抄

・・・煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏