どうも最近の世の中はお念仏(阿弥陀様)のお徳についてあまり評価していないような気がしてなりません。
称名念仏の軽視や大行(阿弥陀様の行あるいは諸仏の行である称名)も働きを限定的に考えているような気がします。
お念仏の軽視については、高森顕徹会だけでなく世間一般的にも意味も調べずにただの呪文ぐらいにしか思っていない人がほとんどでしょう。
お釈迦様を始め七高僧方が言葉を尽くして阿弥陀様をそして称名念仏を讃談していらっしゃる内容は体験のない私には理解出来ないことが沢山あることでしょう。
分からないことは大したことが無いと勝手に判断するのは凡夫の性でしょうが、その感覚がそのまま時代と共に阿弥陀様を讃談しなくなる原因かもしれません。
結局、宗教的体験者が少なくなっていると思います。
いわゆる妙好人と呼ばれる方だけでなく僧籍にある人たちもあまり体験を語らなくなっていると思います。
宗教的体験者として七高僧方のお言葉をそのまま受け止められている方がいないのでしょう。
現実に親鸞聖人のお言葉でさえ矮小化している場合があります。
たとえば「地獄一定住処ぞかし」についてどれだけ深い認識から出ているのか、それとも単なる大げさな表現ととらえているのか議論がいろいろあるようです。
私が思うに我が身の罪深きことを本当に嘆き悲しみ己の行く末を案じたときとても救われるような者ではないと懺悔の涙されたところから出てくるお言葉であると受け止めています。
ところがそうでないと言う方も中にはいらっしゃるのですからあきれてしまいます。
同じ阿弥陀様から頂いた御信心についても人それぞれの味わいがありますが、妙好人の味わいと同じ味わいが出来ないからと言って同じ御信心ではないとは言えませんが、御信心を頂いたと思っているなら妙好人と同じ味わいが出来ないことに真宗門徒として恥ずかしいとか尊敬の念があるべきと思うのです。
それについても分からないからと言って矮小化することは本当に残念です。
称名念仏についても同じです。
比叡山では南無阿弥陀仏の称名は行の一つとして現在も行われています。
常行堂で行われているのがそれです。
悟りの為の行の大事な一つなのです。
ところが最近は真宗門徒でさえ余りお念仏を称えなくなりました。
本山ではさすがに良く聞こえていますが末寺のお寺ではどうでしょうか。
また、ネットの中でもお念仏を教学的な扱いをして行として敬っている感じがしない場合があります。
信前の称名の軽視がその典型です。
上記にも書きましたが高森顕徹会だけでなく教学的な観点か真宗の信心において信を重視する余り称名をどうしても軽視しているように感じるのは私だけでしょうか。
お念仏は最強の説法でもあり聞法でもあると私は思っています。
臨終間際の人に何を勧めるのか、お念仏しかありません。
「どうか称えてくれ、必ずたすける」このお心が「南無阿弥陀仏」です。
大行についても信前のお念仏は大行ではないと理由のないいわれから軽視するひとも多くいます。
これについては私の中で自力、他力があるだけで、私の口から出た時点で南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏であってそこに自力、他力の区別は意味が無くなります。
また、親鸞聖人は自力のお念仏は嫌われていますが、称名は大行とおっしゃっています。
これについては行巻を読めば一目瞭然です。
南無阿弥陀仏を判断する能力が本当にあるのか聞きたくなります。
南無阿弥陀仏の何を知っているのでしょうか。
地球の歴史、もっと言えば宇宙の時間軸のなかで、今、南無阿弥陀仏と人類が称えている人がどれだけいると思うのか。
そして数万年後には人類は滅亡し、南無阿弥陀仏を称える人はいなくなっているでしょう。
経典に依れば人類は退化していくと書かれています。
地球の生滅と共に一旦は滅亡するのか、一度滅亡した後また人類が発生してくるのかもしれませんが、次に人類が発生し進化して佛の出現と共に南無阿弥陀仏が衆生の口から出てくるのはどれだけの時間が経過してからになるでしょうか。
それこそ弥勒菩薩は56億7千万年後です。
この地球が生まれ人類が生まれお釈迦様がお生まれになりようやく今お念仏が称えられるようになりましたが、一体どれだけの時間がかかったことでしょう。
そして、その時代に運良く生まれている私はなんと希有なことでしょう。
南無阿弥陀仏と人類が称えられる時間はほんの一瞬であり、その一瞬に生きている人類のほんの、本当にほんの一部が称えているだけなのです。
今、極難信の法に遇い称名出来る人は大いに幸せでしょう。
そうでなくてもどこからか流れてくる音として南無阿弥陀仏を聞く人もどれだけの人が聞くことが出来ていることか。
阿弥陀様のお気持ちに立ったらどんな形であれ衆生に南無阿弥陀仏を届けたい一心しかありません。
そう思うに付け称名念仏の軽視は本当に残念です。
信心正因、称名報恩
これについてはその通りでしょうが、だからお念仏を軽視する理由にはなりません。
なぜなら南無阿弥陀仏によって私は救われていくのです。
三悪道に落ちるしか無い、そんな業しか作っていない私が南無阿弥陀仏によって救われていくのです。
信前、信後関係なく称えるべきです。
称えたものを私が聞くのです。
聞即信
南無阿弥陀仏を聞くのも聞です。
私はそう思います。
追加です。
当たり前のことですが自力念仏で信は獲られません。
また、大行の解釈と信心を同時に考えると石泉や空華などになってしまうと思います。
その例が自力の称念は大行で無いという判断です。
私は衆生の口から出たお念仏は、お念仏として衆生の毒に染まらない大行としての働きがあると見ています。
・・・参考・・・
御文章 五帖目十三通
それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。
されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。
しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。
それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。
されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。
このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。
されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。
かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。