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とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

俺がっー、私がっー、この我執という心

この世の中は、段階的に物事を理解し、習得し、応用し、一人一人が自分の思う世界を作ろうとして成り立っています。

その中心にあるのが「私が今何を思い何をしたいのか」と言うことです。

そのことに価値があるか、無いかは、世間の物差しや自分の物差しで判断します。

大多数の意見が正しいと言い、現実の生活を楽にさせるものには、それを得ようと努力します。一般的に言われるお金や地位や名誉等、得ようとするものが大きければ大きいほど、努力の度合いは大きくなります。

そして、得ようと思っているときに邪魔が入ると、その邪魔者を排除しようとします。欲が邪魔されると怒りが起こり、「俺がっー、私がっー」という我執の心が燃えさかってきます。

「俺がこんなに努力しているのに、私がこんなに思っているのに」の次に出てくるのは「どうして私の思うとおりにならないの?」です。

そういう心と常に戦ってこの世の中を生きているのが、私の姿です。

ほとんどは私の思うとおりにならない世の中です。でも、どこかで「俺は頑張ってきた、私は耐えてきた」と成功体験を力に、それを支えに生きています。ところが、これをすべて否定されたらどうでしょうか。

全部否定です。私が努力してきたことも、貴方が耐えてきたことも一切役に立たないと否定されたらどうでしょうか。

プライドはずたずたで、極端な例かもしれませんが生きていけないか、開き直って無視するか、となると思います。

それでも生きて行くためには歯を食いしばって頑張ります。それがこの世の中です。

自分の目的を達成するため、生きて行くため、そのことに執着し、必死で頑張ります。

 

阿弥陀様の救いに対してはどうでしょう。

阿弥陀様に対しては、全部否定です。

私の行ってきたことすべて、無功徳です。阿弥陀様の救いに対して何一つ役に立ちません。

一切、私の思っていること、念じていること、やっていること、すべて、否定です。

何故でしょうか。

清浄の世界、嘘偽りの無い世界に対して、私は欲にまみれ、何一つ清浄の善と呼ばれるものが出来ないからなのでしょう。

たとえば、自分の命を差し出して人を救うということは私には出来ません。そんな大げさなことで無くても、困った人たちに自分の財産すべてを投げ出すことが出来るでしょうか。出来ません。

まだまだ、大げさなら、電車で困った人を見つけたら、我先に助けようとするでしょうか。しません。

ホームレスを見かけたらお金を握らせてあげるでしょうか。しません。

お店の店員の態度が悪いからといって気分を害することは一切しないでしょうか。しません、逆に怒ります。「あの店員はなっとらん、一度店に抗議してやる。」くらいしか思いません。

つぶさに私の心を見ていくと何が見えてくるのか。

常に「俺がっー、私がっー、この我執という心」にとらわれて逃げることが出来ません。

その心のまま、阿弥陀様のお浄土行こうとするのは、まるで、肥だめに落ちたまんまで、新築の座敷に上がろうとしているようなものです。

肥だめにおちたまんまの姿をしていながら、自分では着物を着飾って、香水をつけていると思っているとしたら、顛倒の妄念です。私の姿はそういうものですよと言われても、ピンともきません。大馬鹿者なのです。

 

 だから阿弥陀様のお目当てなんです。

 

大なり小なり最後、この我執に皆、ぶち当たります。阿弥陀様は、そのままだと言われているのですが、どうしてもこの「俺がっー、私がっー、この我執という心」が納得しません。この自力の心を無視してください。放っておいてください。そもそも納得などする心ではないのです。では、納得しなくてもいいんですか?という声が聞こえますがそれが必要ありません。自分の心の有り様は全く関係ないのです。そんなものは既にお見通しです。その私が目当てだという阿弥陀様の声を聞かせてもらうのです。

 

凡夫が仏になる、これは肥だめに落ちたまんま、そのまま、救われると言うことです。阿弥陀様がそう誓われているのです。そのまま受け取ってください。

そんなの恥ずかしくて受け取れませんと言われる方、一度私にメールしてください。

後は、不思議不思議の他はなしです。

こちらは、頭下げっぱなしです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

注:

某S会では微塵の善も出来ない自分が知らされないと救われないと言われています。その事は多かれ少なかれすでに人のそれぞれ感じていることなんですが、ことさら強調することにより無限ループに迷い混ませようとする詭弁です。そしてこの詭弁を判断するのがS会会長なので判断基準が明確ではありません。よってなおさら無限ループに陥ってしまいます。もう一度言いますが、微塵の善ではなく、清浄の善は出来ないよと仏様が言われていることに、自分はそうだなと理解すればそこからスタートです。教えをきちんと読めばそのことは自分のこととして受け取ることが出来ます。よく注意してください。

 

顛倒の妄念(四顛倒)

①常(すべてのものは変わらずに続くと思い込んでいる)
②楽(人生は楽しいところだと思い込んでいる)
③我(自分という変わらないものが存在していると思い込んでいる)
④浄(人間は純粋で清いものだと思い込んでいる)

これらはすべて誤り(思い込み、錯覚)で真実は以下の通りである

①無常(すべてのものは移り変わり固定不変なものなどない)
②苦(人生は楽しいところではなく、苦しみの世界である)
③無我(固定不変の自分というものは存在しない
④不浄(人間はどこを切っても醜くいエゴの塊である)