とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

本山(龍谷山本願寺)

最近は本山と言えば、京都の西本願寺の本山をイメージします。

残念なことに一番最初に行ったのが、例の座り込みですので次に行くまでに相当時間がかかりました。

次の機会は、750回大恩忌の時ですので5年くらい前でした。その前にも一度行ったのですが、ちょっと入っただけで、大恩忌の時は御影堂と阿弥陀堂でたまたまおつとめがあったので一緒に聞かせていただいたのです。しばらく阿弥陀堂でお勤めをじっくり聞かせていただいていると、なんというか本当に有り難いと思いました。

歴史の重みと阿弥陀様を感じることが出来ました。

それまでの垢を流すことが出来たような気がしました。「ここまで来るのに長かったなあ~。」としみじみしたことを思い出します。

とにかく来るものは拒まず、去る者は追わずは親鸞聖人の姿勢なのだなと感じさせていただきました。

日本に浄土真宗がある限り大丈夫だと変な安心感もありました。

一方で、名札とセキュリティーチェックの親鸞会の本部会館を思い出します。

退会後、何度か高速道路から見かけたことがありますが、懐かしさより違和感の方が最近は大きくなってきました。やはり、邪教の臭いがぷんぷんなのかもしれません。

もっとオープンにすれば変わるのにと思いながら、いろんな思いが頭の中を通り過ぎていきます。

親鸞聖人から始まり、蓮如上人さらには何代も連綿として続いている本願寺を見るたびに聖人が言われた大乗相応の地という言葉を思い出します。

本山があることは心のよりどころとなるわけですから、本当に大事な存在であり未来永劫続いて欲しいと思います。

また、以前はそんなこと少しも思わなかったのですが、本山のおかげで今の私があるのだなとも感謝いたします。

ところがどこかの会長が若い頃この本山を焼こうとして本山から僧籍を剥奪されたという噂を聞きました。本当かどうか知りませんがとんでもない人だったんですね。

退会出来て良かったと本山に行くたびに思い出します。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

私と阿弥陀様の関係

私と阿弥陀様の関係は図で表せば以下の通りです。

親鸞会を辞めて本当の阿弥陀様の御本願のいわれを聞かせていただいたそのころの私は、阿弥陀様を自分に取り込もう、取り込もうとしていました。

ですのでいつも中心は私でした。阿弥陀様が中心になることはありませんでした。

私の中の知らない私も、私の小さな一部としか思っていませんでした。

それでも取り込もうとする気持ちはいつまでも変わりませんでした。

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ところが、いつからかその関係が以下の図のようになってしまいました。

これはこれで驚きでした。そうか、自分の知っている自分はほんの一部で自分の知らない自分が本当かもしれないと。そして、いままで取り込もうと思っていた阿弥陀様はどうもそうではない。自分にずっと働きかけて下さっていたのかと。

私には、信じる心も、念じる心も、求める心も無いのだと、そして、何一つ分かっていないのが私だと。

結構衝撃でしたね。

今でもそうだなと思います。

でもね、上の図、これ今でも私なんですよ。そして下の図も私なんです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

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これで良しとする。

私はもうご信心はハッキリさせていただいたから、私はもう良いんです。

それよりも今だご信心がハッキリされていない方を何とかしたいと思っています。

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ある意味ありがたいお言葉であります。そんな心は今まで無かったのに、なぜか信心と言う物を知らされて言わずにおれなくなるのは、私から出てくる言葉では無く阿弥陀様のお心と知らせていただいています。

ところが、本当に私はご信心を頂いたのか、嘘じゃないのか、そして今出て行く私の後生はどうなのかと聞かせていただいたなら、どうでしょうか。

私が何を頂いたのか、そして、何を人に伝えたいのか、私は一体何を知らされているのか。

反省しきりです。

自分をこれで良しとするほど傲慢な事はないと思います。

阿弥陀様は真実、私は虚仮不実、これが真実ですから。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

御念仏を称えること・・・十住毘婆沙論より

十住毘婆沙論

易行品 第5巻第9品 龍樹菩薩

 

これしか読んだことはありませんが何が書いてあるかというと仏様を念じなさいということ、これは易行道ですよ、海の上を行くがごとしです。聖道門である陸路は難行道で大変ですから、出来の悪いものはこちらの道がありますよと教えてくださいます。

特に阿弥陀様についてはすべてのものが念じなさいと書かれています。

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弥陀章

阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。

偈をもつて〔阿弥陀仏を〕称讃せん。

無量光明慧あり、身は真金山のごとし
われいま身口意をもつて、合掌し稽首し礼したてまつる。
金色の妙光明、あまねくもろもろの世界に流れて、
に随ひてその色を増す。このゆゑに稽首し礼したてまつる。
もし人命終の時に、かの国に生ずることを得れば、
すなはち無量の徳を具す。このゆゑにわれ帰命したてまつる。
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 この後、阿弥陀様の讃談が続きます。

龍樹菩薩様が阿弥陀仏を礼拝せよ、御名を称えよと言われているのです。

すごいことです。

他の仏様の名前も沢山出てきますが、阿弥陀様だけ弥陀章をもうけて讃談されておられるのです。このことだけでも南無阿弥陀仏のお徳がどれだけすごいことか分かります。

凡夫の浅知恵で計るものではないですね。

今回はこれだけです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

九品の人

観無量寿経の中に九品の往生が書かれています。

 

辞書によっていろいろ書かれていますが、以下の文章が短くて的確なので引用しました。

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極楽浄土に生まれるのに、この世で生活した仕方によって9種類の生まれ方があることをいう。

観無量寿経』に説かれ、非の打ちどころがない善人は臨終のとき、仏が迎えにきて即座に極楽に往生(おうじょう)できるのを上品上生(じょうぼんじょうしょう)という。

以下、上品中(ちゅう)生、上品下(げ)生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生と続き、最後の下品下生は、極悪非道の行為を繰り返した者が、臨終のとき、念仏を唱えたことによって往生できることをいう。この思想に従って、阿弥陀仏(あみだぶつ)にも九つの印相(いんぞう)(手に結ぶ印の形)があるという考えが一般化し、鎌倉中期以降、とくに九品の阿弥陀仏の造像が行われた。また、仏が迎えにくるとき、それに座る蓮台(れんだい)も違うと考え、九品の蓮台があるとさえいうようになった。

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この中で一番気になったのが、下品下生の説明です。

そもそも九品の往生は、臨終来迎を説かれたものですが、最後の下品下生の人でさえ往生できると説かれているわけです。

臨終に善など出来る術も無く、ただ、御念仏を称えることができれば大成功なのだと言われているのです。

ならば今から御念仏を称えればいいのではないでしょうか。自力であろうが何であろうが南無阿弥陀仏が私を救ってくださるのですから、疑い一杯でもいいじゃないですか。

臨終に善知識が現れなくたって、今、南無阿弥陀仏で救われるという教えを聞かせていただいているなら、既に善知識にお会いしていることと同じわけだし、臨終は今かもしれないのですから。

結局、往生できるかどうかは阿弥陀様にお任せするしか無く、自分は御念仏を称えよと阿弥陀様から言われているわけですので、そのまま称えたら良いだけなんだと思います。

それで行く先はどこかさっぱり分かりません。

それでも間違って往生浄土に行ったら、下品下生の人はそこで十二大劫の修行をしないと仏には成れないと言われています。

下品下生の人は以下のように書かれています。

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五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者。

臨終の時に善知識に遇い、仏の微妙なる法を聞いて、仏を念じようとしても、苦しみに喘ぎ念じることができない、ただただ十念を心から具足して阿弥陀の名号を唱える(称名念仏)と、念々に80億劫の生死の罪業を滅除し、金の蓮華を見て往生することができ、12大劫を経て蓮華が開敷し、観音や勢至の説法を聞いて、無上の菩提心を起すという。

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ちなみに上品上生の人は一日、又は七日で仏様になるそうです。

私は、どう考えても下品下生ですね。

お迎えは金の蓮の花だそうです。素晴らしいじゃないですか。

本当に来るのかな?死んでみないと分かりませんがね。

それと仏像の九つの印相はそういうことなんだなと始めて知りました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

以下、参考 wikiより

上品上生

至誠心、深心、廻向発願心の3種の心を発して往生する者。

これには3種類の者がいるという。

  • 慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者
  • 大乗方等経典を読誦する者
  • 六念処を修行する者

上品中生

大乗方等経典を読誦せずとも、よく大乗第一義の義趣を理解し、心に畏怖驚動ことなく、因果律を深く信じ大乗を誹謗しない者。

上品下生

因果律を信じ大乗を誹謗せず、ただただ無上道心を起す者。

中品上生

五戒、八戒など諸々の戒律を具足し尽くして悪業を所作しない者。

中品中生

1日1夜に五戒・八戒を具足し、また沙弥戒(年少の僧侶が受ける戒律)や具足戒を持ち、威儀端正にして欠くことが無い者。

中品下生

父母両親に孝行し養い、世間に仁義して慈しみ行う者。

下品上生

大乗方等経典を誹謗せずとも、多くの悪事を行って恥じ入ることのない者。

下品中生

五戒・八戒・具足戒を犯し、僧祇物(そうぎぶつ)を偸盗し、不浄の説法をして恥じ入ることのない者。

下品下生

五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者。

 

無宿善の機

いろんな人とご縁があります。
ご存じの方もおられるでしょうが、最近創価学会の会員とおぼしき人からコメントで罵詈雑言を浴びせられました。
最初から話したくなかったのですが、ちょっとくらいご縁があるかもと思ったのが駄目だったと反省しています。
普通、話せば何とかなると思ってしまうのですが、考えてみれば話して分かる相手はすぐに分かります。
最初からこちらを説得ならまだしも、お前達は馬鹿だみたいな言い方で話をしてくる訳ですから、怒りよりも拒絶反応をしてしまいます。
まず、どれだけ話しても分からないと思った方がいいのかもしれません。こちらが下手に出ていると頭を踏みつけるようなことを言い続けます。
こういう方とはつきあわないのが一番で時間の無駄かもしれません。親鸞会の人もこういう人が多くいました。といいますか自分もそうだったのでちょっと恥ずかしいのですが。
お釈迦様が亡くなられたとき、お釈迦様のお葬式というかお別れの式に出なかった弟子もいるそうですので、まことにご縁とは言いながら残念なことと思わずにおれません。
やはり現在、たまたま浄土真宗に出会い、そこで南無阿弥陀仏を出会わせていただいたことをどれだけ喜んでも足らないと思います。今、南無阿弥陀仏とご縁のある人を宿善の人と言わずしてだれを宿善の人と言えるでしょうか。
また、蓮如上人は、「無宿善の機においては力及ばず」と言われていますが、無宿善かどうかは別として創価学会顕正会、オーム真理教、幸福の科学統一教会などなどこれらの方を退会させるために時間を使ったら自分の人生すぐに終わってしまうような気がします。これらの人を相手するより、有縁の人とご縁を結んだ方が賢いでしょう。
お釈迦様も話して分からない相手には、指摘したり叱るよりも相手しない、話さないことが一番と言われています。
いずれにしても考え方が違う人と話すときは注意しなければと反省しました。

ここで創価学会の教義の間違いを一応分かる範囲で書いておきます。

念仏無間:立正安国論日蓮が書かれたが、経典上の根拠は何処にもなく善導大師の浄土教を選んだことを法華経非難の原因とし、結果として承元の法難などが起こったことが証拠だと言い、法華経を非難するものは仏教の敵と見なしたことに始まる。
当然、法華経には念仏により地獄に行くなどと言うことは何処にも書かれていない。
日蓮は、浄土宗だけでなく他の宗派も同じような理由で非難している。

未顕真実:無量義経の中に「四十余年には未だ真実を顕わさず」と書かれているため、法華経釈尊の一番説かれたかった教えであると主張する。四十年間今までは方便の教えを説いてきたが、これから真実の経を説くと言われたと主張する。
しかし、無量義経の原典には 、「四十余年 未曾顕実」と書かれ「未顕真実」とは書かれていない。四十年間真実を説いてきたが、これからいままで説かなかった教えを説くと言われたもので、以前に教えたものが真実では無いとは言われていない。

当たり前のことを言ったまでです。
また、法華経の説法の途中に席を立たれて、観無量寿経を説かれたわけですからどちらが真実だとか嘘だとかいう問題ではないということです。何度も書いていますが、人を機に応じて九品に分けているわけです。
東大に入れる人用に説かれた教えもあり、小学生用に説いた教えもあるわけです。

五時の教判:教相判釈とも言われお釈迦様の経典の成立時期を時代別に区分けしたもの。法華経が最高真実の教えとするために天台宗の智顗が表したもので、それを日蓮が引用して他の経典を否定する根拠としたもの。
これにより他宗派はすべて間違いであると非難する根拠としているが、前述のとおり観無量寿経法華経の説法の途中で座を離れられて説かれている。その根拠は、観無量寿経に「耆闍崛山より没し、 王宮に出でたまふ」とある。

よって五時の教判が他の宗派を非難する根拠にはなりません。

そして一番大事なのが信心なのですが、日蓮宗の信心は、現生利益と言うか、信心することが大事と言われます。信心することによって極楽に往生すると言われます。
自力の信心です。
では、具体的にどうするかというと、折伏する、題目を称える、そのことによって奇跡が起きると教えられます。
今生が幸せに暮らせるという教えが創価学会というか日蓮宗の教えなのです。また、念仏者には特に厳しく折伏をしてきますが、日蓮さんがせよ言われているからです。ただし、どこにも根拠の無い日蓮さんの思い込みなんですけど。

ほかにもありますが興味のある方は探してみてください。


最後に信長の時代、浄土宗と法華宗が法論を行って法華宗が負けて処罰されています。
それを「安土宗論」(あづちしゅうろん)と言います。法華宗の僧侶が浄土宗の僧侶に法論をふっかけ、負けてこれ以降法論はしませんと約束をしました。
これ以後、法華宗は浄土宗に法論を挑むことは無かったのです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

苦を苦とみる。

四聖諦の最初に書かれているのが苦諦です。

お釈迦様は人生苦なりと四聖諦の最初に教えてくださいます。

この世は苦しみであると。

では、苦しみとは何か。

そもそも苦しみが何であるのか分からないから迷うのです。

皆さん良くご存じの四苦八苦をお釈迦様は教えてくださいます。

生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会(おんぞうえ)苦・求不得(ぐふとく)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦です。

このうち一つも味わったことの無い人はいないと思います。

皆さんは何が一番苦しいと思われるのでしょうか。

私は死苦が一番気にかかっていたのですが、本当の自分が欲していたものは求不得苦が一番ではないかと思います。死苦の解決を求めながらも結局は自分だけ幸せになりたいの思いが本心だったのではないかと。死の不安や恐怖はあまりにも漠然としてつかみ所が無く、それより今、幸福であるという実感が欲しいだけだったのではないかと。

また、自分の心はころころ動き詰めで本当の自分が何を思っているのかさっぱり分からないのです。

自分のことは自分が一番知っていると思っていたのですが、一番分からないのが自分であったと南無阿弥陀仏に教えられました。

いずれにしても苦しいということは自分の思いが通らないこと、思い通りにならないことが苦しい事なのですが、仏様から見ればそこに何も意味がないと言われるのです。

空という境地、煩悩を断絶した世界に出た仏様からすれば、起こっていることすべてが空であり、執着することがないと言われるのです。

何が起ころうが受け入れる。そのことに苦しみが無い。

仏様になる気が無い私にとっては、「ああ、そうですか。」位にしか思いませんし、そう成りたいとも思いませんし、全く無関心と言った方が良いのかもしれません。

ところが親鸞聖人は、信心頂いた人は正定聚不退の位と同じと言われます。

とんでもないことです。

仏様より一段下だけの悟りの位におられる方と同じだと言われるのです。

あり得ません。

本来、空の世界に出るには修行が必要となります。何もせずに空の世界に出ることは出来ません。どれだけの修行が必要か私には分かりませんが、仏様になるには三阿僧祇百大劫かかると言われます。

ですから、今生で煩悩を超越した仏様になるなど私には不可能です。では、私に何が出来るかと言えば苦しみを苦しみと教えて頂く法を聞かせていただくことだけなのです。

自分では知ることの出来ない世界を釈尊を始めとした高僧方に教えて頂くだけなのです。そこで始めて、「あ~、人生は苦しみなんだ。」と苦しみが何かも分かっていない自分に気づかせていただくことが出来ると思います。

いずれにしても仏教を求めると言うことは、この自分の姿に出会わせていただく事であり、お釈迦様のお言葉を我が身のことと聞かせていただくことなのだと思います。

私の場合、求めても得られない、執着の心、それは死ぬまで変わりません。

変わらない私は、苦しみが来ると大騒ぎです。自分の世界を邪魔されると全身で拒否しますが、自分の幸せと思うことならどんな努力もいといません。

結局いつも自分中心の世界に生きているだけで、その世界を崩されるのを拒否しています。しかし、必ず自分の思いとは関係なく苦しみは訪れます。

最後は死苦が訪れ、この世とおさらばしなければ成りません。

その覚悟を今に求める、それが仏教なのでしょうね。厳しい教えです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏