とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

いいことばかりはありゃしない!!

忌野清志郎の歌のタイトルです。

先日、テレビで武道館ライブ(結局最後のライブでした)を見ました。

知っている人は知っている名曲だと思います。

まあ、自分が思っているだけかもしれませんが。

年が分かってしまいますが、学生時代にRCサクセッションの「トランジスタラジオ」を聞いてすごい衝撃でした。

すでに発売から数年も経っていたのに知らなかったのです。

それからRCサクセッションを沢山聞きました。

そして、知った曲が「僕の好きな先生」です。ほかにも良い曲は沢山ありますが、リアル感がすごい曲だなと思いました。

「いいことばかりはありゃしない」は「そうだな」と思いながら学生時代を過ごしていました。

知らないうちに音楽から結構影響を受けていたのだなと思います。

今更ながら歌手は「すごいな~」と思います。あの、感性は私にはありません。

何か深いところの自分をいつも見つめているのではないかと思います。

欲望は果てしなく、何をしても満足せず、しばらくしたら飽きてくる、その繰り返しにゴールは無い、何とも言えないむなしさに包まれながらそれでも生きなければならない、なんともならない気持ちに支配され苦しくて仕方なくなる、それでも頑張って生きて行くのに何の意味があるのか、そんなことをずっと思いながら過ごした学生時代、歌に感動しても答えは得られない、その疑問に答えてくれたのが仏教でした。

でも、出会ったら幸せばかりだったかというと反対に求めても得られないものにとことん苦しめられるとは何をしているのか。

たとえ仏教と出会ったとしても本当に満足しているのか、苦しみのこの世界は何も変わらないのではないのか。

信心がある、無いにかかわらず、私は同じだと思います。

 

ただ、ひとつ違うのは人生が終わることに対してしかたないかと思えることだけです。

「いいことばかりはありゃしない」それがこの世の中なのですよね、自分の宿業を引き受けていく世界なのかなとも思います。

「いいことばかりはありゃしない」そのことを受け止めて生きて行けば結構楽かもしれません。自分の心が気楽になれば世の中案外捨てたものではないかもしれません。

有り難い事に南無阿弥陀仏とも出会うことが出来ました。

南無阿弥陀仏に出会っていなかったら何をしているのか、危なくて仕方ない人生だったでしょう。いまでも結構危ないと思うことがあるのですから。

「いいことばかりはありゃしない」、でも、たまには良いこともあるかも。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

勉強会のご案内

皆様へ

お知らせです。
嶋田さん(親鸞会元講師、「私の白道」の作者)の勉強会を開催します。
場所はいつもの愛知県です。
日にちは 8 月 21 日 ( 日 ) です。
時間は 午前10時から午後4時30分まで の予定です。
勉強会のテーマについては、 「南無阿弥陀仏の心」です。
ご縁があれば是非ご参加ください。
詳細についてお知りになりたい方は、aim_in_life(アットマーク)
hotmail.co.jpにメールしてください。
( アットマーク ) は” @ ”に変更してください。
折り返しお知らせいたします。
私にメールをくださる場合、少しプロフィールも書いていただけると有り難いです。

個人情報を漏らすようなことはいたしませんので気楽にご参加下さい。

よろしくお願いします。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

本山(龍谷山本願寺)

最近は本山と言えば、京都の西本願寺の本山をイメージします。

残念なことに一番最初に行ったのが、例の座り込みですので次に行くまでに相当時間がかかりました。

次の機会は、750回大恩忌の時ですので5年くらい前でした。その前にも一度行ったのですが、ちょっと入っただけで、大恩忌の時は御影堂と阿弥陀堂でたまたまおつとめがあったので一緒に聞かせていただいたのです。しばらく阿弥陀堂でお勤めをじっくり聞かせていただいていると、なんというか本当に有り難いと思いました。

歴史の重みと阿弥陀様を感じることが出来ました。

それまでの垢を流すことが出来たような気がしました。「ここまで来るのに長かったなあ~。」としみじみしたことを思い出します。

とにかく来るものは拒まず、去る者は追わずは親鸞聖人の姿勢なのだなと感じさせていただきました。

日本に浄土真宗がある限り大丈夫だと変な安心感もありました。

一方で、名札とセキュリティーチェックの親鸞会の本部会館を思い出します。

退会後、何度か高速道路から見かけたことがありますが、懐かしさより違和感の方が最近は大きくなってきました。やはり、邪教の臭いがぷんぷんなのかもしれません。

もっとオープンにすれば変わるのにと思いながら、いろんな思いが頭の中を通り過ぎていきます。

親鸞聖人から始まり、蓮如上人さらには何代も連綿として続いている本願寺を見るたびに聖人が言われた大乗相応の地という言葉を思い出します。

本山があることは心のよりどころとなるわけですから、本当に大事な存在であり未来永劫続いて欲しいと思います。

また、以前はそんなこと少しも思わなかったのですが、本山のおかげで今の私があるのだなとも感謝いたします。

ところがどこかの会長が若い頃この本山を焼こうとして本山から僧籍を剥奪されたという噂を聞きました。本当かどうか知りませんがとんでもない人だったんですね。

退会出来て良かったと本山に行くたびに思い出します。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

私と阿弥陀様の関係

私と阿弥陀様の関係は図で表せば以下の通りです。

親鸞会を辞めて本当の阿弥陀様の御本願のいわれを聞かせていただいたそのころの私は、阿弥陀様を自分に取り込もう、取り込もうとしていました。

ですのでいつも中心は私でした。阿弥陀様が中心になることはありませんでした。

私の中の知らない私も、私の小さな一部としか思っていませんでした。

それでも取り込もうとする気持ちはいつまでも変わりませんでした。

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ところが、いつからかその関係が以下の図のようになってしまいました。

これはこれで驚きでした。そうか、自分の知っている自分はほんの一部で自分の知らない自分が本当かもしれないと。そして、いままで取り込もうと思っていた阿弥陀様はどうもそうではない。自分にずっと働きかけて下さっていたのかと。

私には、信じる心も、念じる心も、求める心も無いのだと、そして、何一つ分かっていないのが私だと。

結構衝撃でしたね。

今でもそうだなと思います。

でもね、上の図、これ今でも私なんですよ。そして下の図も私なんです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

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これで良しとする。

私はもうご信心はハッキリさせていただいたから、私はもう良いんです。

それよりも今だご信心がハッキリされていない方を何とかしたいと思っています。

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ある意味ありがたいお言葉であります。そんな心は今まで無かったのに、なぜか信心と言う物を知らされて言わずにおれなくなるのは、私から出てくる言葉では無く阿弥陀様のお心と知らせていただいています。

ところが、本当に私はご信心を頂いたのか、嘘じゃないのか、そして今出て行く私の後生はどうなのかと聞かせていただいたなら、どうでしょうか。

私が何を頂いたのか、そして、何を人に伝えたいのか、私は一体何を知らされているのか。

反省しきりです。

自分をこれで良しとするほど傲慢な事はないと思います。

阿弥陀様は真実、私は虚仮不実、これが真実ですから。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

御念仏を称えること・・・十住毘婆沙論より

十住毘婆沙論

易行品 第5巻第9品 龍樹菩薩

 

これしか読んだことはありませんが何が書いてあるかというと仏様を念じなさいということ、これは易行道ですよ、海の上を行くがごとしです。聖道門である陸路は難行道で大変ですから、出来の悪いものはこちらの道がありますよと教えてくださいます。

特に阿弥陀様についてはすべてのものが念じなさいと書かれています。

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弥陀章

阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。

偈をもつて〔阿弥陀仏を〕称讃せん。

無量光明慧あり、身は真金山のごとし
われいま身口意をもつて、合掌し稽首し礼したてまつる。
金色の妙光明、あまねくもろもろの世界に流れて、
に随ひてその色を増す。このゆゑに稽首し礼したてまつる。
もし人命終の時に、かの国に生ずることを得れば、
すなはち無量の徳を具す。このゆゑにわれ帰命したてまつる。
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 この後、阿弥陀様の讃談が続きます。

龍樹菩薩様が阿弥陀仏を礼拝せよ、御名を称えよと言われているのです。

すごいことです。

他の仏様の名前も沢山出てきますが、阿弥陀様だけ弥陀章をもうけて讃談されておられるのです。このことだけでも南無阿弥陀仏のお徳がどれだけすごいことか分かります。

凡夫の浅知恵で計るものではないですね。

今回はこれだけです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

九品の人

観無量寿経の中に九品の往生が書かれています。

 

辞書によっていろいろ書かれていますが、以下の文章が短くて的確なので引用しました。

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極楽浄土に生まれるのに、この世で生活した仕方によって9種類の生まれ方があることをいう。

観無量寿経』に説かれ、非の打ちどころがない善人は臨終のとき、仏が迎えにきて即座に極楽に往生(おうじょう)できるのを上品上生(じょうぼんじょうしょう)という。

以下、上品中(ちゅう)生、上品下(げ)生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生と続き、最後の下品下生は、極悪非道の行為を繰り返した者が、臨終のとき、念仏を唱えたことによって往生できることをいう。この思想に従って、阿弥陀仏(あみだぶつ)にも九つの印相(いんぞう)(手に結ぶ印の形)があるという考えが一般化し、鎌倉中期以降、とくに九品の阿弥陀仏の造像が行われた。また、仏が迎えにくるとき、それに座る蓮台(れんだい)も違うと考え、九品の蓮台があるとさえいうようになった。

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この中で一番気になったのが、下品下生の説明です。

そもそも九品の往生は、臨終来迎を説かれたものですが、最後の下品下生の人でさえ往生できると説かれているわけです。

臨終に善など出来る術も無く、ただ、御念仏を称えることができれば大成功なのだと言われているのです。

ならば今から御念仏を称えればいいのではないでしょうか。自力であろうが何であろうが南無阿弥陀仏が私を救ってくださるのですから、疑い一杯でもいいじゃないですか。

臨終に善知識が現れなくたって、今、南無阿弥陀仏で救われるという教えを聞かせていただいているなら、既に善知識にお会いしていることと同じわけだし、臨終は今かもしれないのですから。

結局、往生できるかどうかは阿弥陀様にお任せするしか無く、自分は御念仏を称えよと阿弥陀様から言われているわけですので、そのまま称えたら良いだけなんだと思います。

それで行く先はどこかさっぱり分かりません。

それでも間違って往生浄土に行ったら、下品下生の人はそこで十二大劫の修行をしないと仏には成れないと言われています。

下品下生の人は以下のように書かれています。

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五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者。

臨終の時に善知識に遇い、仏の微妙なる法を聞いて、仏を念じようとしても、苦しみに喘ぎ念じることができない、ただただ十念を心から具足して阿弥陀の名号を唱える(称名念仏)と、念々に80億劫の生死の罪業を滅除し、金の蓮華を見て往生することができ、12大劫を経て蓮華が開敷し、観音や勢至の説法を聞いて、無上の菩提心を起すという。

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ちなみに上品上生の人は一日、又は七日で仏様になるそうです。

私は、どう考えても下品下生ですね。

お迎えは金の蓮の花だそうです。素晴らしいじゃないですか。

本当に来るのかな?死んでみないと分かりませんがね。

それと仏像の九つの印相はそういうことなんだなと始めて知りました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

以下、参考 wikiより

上品上生

至誠心、深心、廻向発願心の3種の心を発して往生する者。

これには3種類の者がいるという。

  • 慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者
  • 大乗方等経典を読誦する者
  • 六念処を修行する者

上品中生

大乗方等経典を読誦せずとも、よく大乗第一義の義趣を理解し、心に畏怖驚動ことなく、因果律を深く信じ大乗を誹謗しない者。

上品下生

因果律を信じ大乗を誹謗せず、ただただ無上道心を起す者。

中品上生

五戒、八戒など諸々の戒律を具足し尽くして悪業を所作しない者。

中品中生

1日1夜に五戒・八戒を具足し、また沙弥戒(年少の僧侶が受ける戒律)や具足戒を持ち、威儀端正にして欠くことが無い者。

中品下生

父母両親に孝行し養い、世間に仁義して慈しみ行う者。

下品上生

大乗方等経典を誹謗せずとも、多くの悪事を行って恥じ入ることのない者。

下品中生

五戒・八戒・具足戒を犯し、僧祇物(そうぎぶつ)を偸盗し、不浄の説法をして恥じ入ることのない者。

下品下生

五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者。