とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

勉強会の感想

今回の勉強会の参加者はそんなに多くは無かったのですが、宮田さんのご法話が初めてだった方がいらっしゃってとても有意義な勉強会になりました。
午前の座談会も富山の和上のご法話を味わうことが出来本当に楽しかったです。
我が身を丸ごと救う阿弥陀様のお慈悲をしっかり聞かせていただきました。
午後は宮田さんの飄々とした語りのご法話がとても有り難かったです。
御文章の聖人一流の章を詳しく聞かせていただきました。

また、座談会(質疑応答)では疑いについての突っ込んだ質疑が非常に良かったです。
法話の録音データが欲しい方は私までメールしてください。
ダウンロードサイトにアップします。

ところで個人的に非常に驚いたことがありました。
同じ会場で高森顕徹会の支部会合があり、昔の法友にばったり遭遇してしまいました。
こちらは本当に懐かしく「元気にしてる?」という調子で声をかけたのですが、
反対に「今も高森会長を非難しているのだろう。」と返されてしまいました。
正直、高森会長なんてどうでも良いのだけどと思いましたが、そんなことしていませんよと答え、今日はご法話会をしていることを伝えたのですが、結局「なぜ生きる」の映画のチラシを渡されました。
せっかくなので見に行ってみようかなと思いましたが、平日で仕事がありますのでたぶん無理でしょう。

しかし、十年ぶり位に会ったのにまるで敵を見るような目つきで話してきたときには、さすがに驚きました。

一般的な人としての対応が全く出来ないのです。
この人達は相変わらず「高森顕徹会長を絶対的に信奉しているのだ」と思いましたし、

高森顕徹会長を裏切って退会した者には近づいてはならないと本気で思っているのでしょう。

そして、全く余裕の無い顔をしていましたのでなんだか悲しい気持ちになりました。
人間の迷いの深さを見せつけられ本当になんともならないのかなとも思いました。

この先どうなるかわかりませんが阿弥陀様のお慈悲にふれてもらいたい、気付いてもらいたいとしか思えませんでした。
また、次に会う機会があったら良いのにとも思いましたし、私とよほどのご縁なんだなとも。
一歩間違えれば私も同じところにいたのかと思うと怖ろしくなります。

「噫、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」(教行信証・総序)

高森顕徹会でも よく引き合いに出されたお言葉ですが、本当にこのお言葉の通りだなと思わずにおれません。

彼らの後生の解決が一日も早く出来るよう祈っています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

恥ずかしいなあ~

「恥ずかしいなあ~」と思うことがたまにあります。

電車に乗っているときとか、車を運転しているとき、レストランにいるとき、皆と話しているとき、などなど。

どうしてそう思うのか。

いい年をしていい加減そんなことどうでも良いのにと思いますが、やはり少しでも良く思われたいのでしょう。

五欲のうちの一つ、名誉欲でしょう。

親鸞聖人は「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」(教行信証 信巻)言われています。

 

全く同感ですが、親鸞聖人と私では、沈没しているレベルが計り知れないほど私の方が深いと思います。

とても人様にお話しできるようなものではありません。

 

仏教を知る前はどうだったでしょうか。

 正直、穴があったら入りたいくらいアホでした。

仏教を知った後ではどうでしょう。

 正直、穴から出たく有りません。

 全く変わらずアホです。

 

仏教を知ったところで何も変わらない自分がそこにいます。

浄土真宗でご信心を目指す前と後との違いは、後の方がひどいかもしれません。

開き直っているというか、どうにでもしてくださいという状態です。

ですから造悪無碍にならないよう気を付ける必要があります。

 

そうは言っても私という人間はなにも変わりません。

反省や後悔してもすぐに忘れて、元のもくあみです。

親が亡くなったときも、やっと解放されると思ったくらいです。健康で長生きなら良いですが、そうでないなら全く身勝手で自己中心です。

どこどこまでも我が身が一番なのです。

 

これを無慙無愧と言います。

 無慙無愧 悪いことをしながら、恥ずかしいと思わないこと。「無慙」は自己に対して恥じないこと。「無愧」は他人や世間に対して恥じないこと。

 

それでも命を頂いた以上、生きていかなければなりません。どんなに辛くても仏さまの、阿弥陀さまのお慈悲にお逢いするまでは石にかじりついても生きるべきなのです。

お慈悲に遇わせて頂いた後は、石にかじりついてもご恩報謝のためお念仏し続けなければなりません。

それが念仏者の姿だと思っています。

 

・・・私の本心は、さておきです。・・・

 

そんな人間に法を説く資格があるのかと思うときがあります。ブログに書いているのもある意味法を説いているのと同じです。

真宗のお坊さんがご説法されるときにはよく言われるのが「お取り次ぎ」をさせていただくと言います。

「お取り次ぎ」とは、道案内というか主人に合わせるためにご案内する係のようなものです。

 

 

 ただし、正しく間違いなく最短で主人のところまで道案内をすることが出来れば良いのですが、横道にあちこち逸れていつまでたっても主人のところまでたどり着かない場合もあるでしょう。

高森顕徹会だけでなく多くの宗教も該当することでしょう。その一番の原因は何かと言えば、「救われていない」ことだと思います。

私という存在が死を前にしてうずくまって一歩も動けない状態から解放されたなら、どうすべきなのか答えは自ずと出てくるでしょう。

それでも動けないなら、悪業煩悩に振り回されている証拠です。

自分も同じようなものなのですが、それもこれもすべて自分の責任なのです。

しかし、そんなことを無視しても話したくなるのは、阿弥陀様のお力と頂くと同時に煩悩が全く無いとは言いがたいと思うのです。

生き恥をさらしながらも、なお南無阿弥陀仏に生かされているのです。 

 

たぶん死ぬまで恥ずかしいなあと思いながら生きた方が間違いは少ないような気がするのですが、そんな気持ちはすぐ忘れてしまいます。

 

やっぱり、恥ずかしいなあ~・・・そう言いつつ次の瞬間には忘れています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

ところで、勉強会ですが予定通り、8月24日(土)に 山も山さん をお呼びして開催します。

時間は、午前10時から午後5時までの予定です。

場所は、JR刈谷駅前の産業振興センターの特別会議室です。

午前は10時から集まった方達で座談会を行いたいと思っております。

午後は13時30分から行う予定です。

どなたでも参加していただいて結構です。

よろしくお願いします。

 

・・・参考・・・

懺悔

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。

キリスト教では「ざんげ」と読み、その影響からか、現在では「懺悔」の読み方は一般的には「ざんげ」となっている。

「懺悔」は聖公会などで多用される語彙であるが、キリスト教の全ての教派で日常的に使われる表現ではない。カトリック教会での秘跡は「ゆるしの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。

 

無慙

悪事を働いても、それを恥じることなく平気でいること。

 


仏の教えを破りながらもそれを恥じない心。
「無愧」は自分の罪を他人に対して恥じない心のこと。

 

 

 

 

称名念仏について考える

南無阿弥陀仏は六字の言葉であり、これを一般的に名号と言います。

名号には、六字の南無阿弥陀仏の他に、帰命尽十方無碍光如来といわれる十字名号や南無不可思議光如来の九字名号があります。

親鸞聖人は好んで十字名号を書かれたと言われています。

その他、阿弥陀様については個別の呼び名がいろいろあります。たとえば畢竟依などがそうです。

 

称名とは、そのまま名号を称えるということで、口で南無阿弥陀仏と言うことです。

称えるは、讃えるの意味もありますので、唱は使いません。

唱は、学校の校歌を斉唱するとかに使います。

 

念仏は、仏を念ずるのですが、心で念ずる以外に声に出して念ずるという動詞の意味も当たり前ですがあります。

この場合の仏は、特に定めのない場合、阿弥陀仏が該当します。

また、念仏は観想念仏や口称念仏のように使われます。

観想念仏にも心の状態をどのようにするかによっていろいろあります。

口称念仏についても同様です。一般的には、称名念仏といい、略して念仏と使っています。

仏を見るのを目的とした念仏三昧があります。この場合、当然口から声に出して南無阿弥陀仏と称えます。

 

浄土真宗では、念仏に自力と他力があると言われます。

しかし、念仏そのものには、本来自力も他力もありません。

阿弥陀様の呼び声であり、それが信心のある人が称えようが信心の無い人が称えようが違いはありません。

つまり、自力の念仏か他力の念仏かはこちらが勝手に決めているだけなのです。

その条件として信心があるか無いかを問題にしています。

 

南無阿弥陀仏は真実の塊であり、私の心の状態などは問題にしていません。

そうは言っても、こちらは真実を真実と受け止めることが絶対に出来ないものであります。

それが私の姿であり、宿業と言っても良いかもしれません。

 

そこで問題になるのが信心が無いのに念仏を称えることは良いのか悪いのかと考える人が出てきます。

 

当たり前ですが、仏教を聞かせていただいているのですから良いと思うことは実践しなければ成りません。

念仏は正行ですので良いことに決まっています。

やはり、そこに自力、他力を分別する心があります。

 

「私の念仏は自力だから駄目だとか、信前の念仏は無駄だとか、聞くのが本当の浄土真宗だから信前の念仏はいらないなどの考えが出てきます。」

 

この言葉をよく考えて下さい。

 

どこのお聖経に信前の念仏はいらないと書かれていますか。

どこのお聖教に自力の念仏は役に立たないから称えるなと書かれていますか。

捨てものとは言われていますよ。この言い方は機に応じた説き方の一つですので本当は非常に微妙な表現だと思います。

しかし、称えるなとは言われていません。

聞即信、聞いているのが信心です。その通りです。

念仏を称えるなと書かれていますか。聞即信と書かれているだけです。

聞は、自分の声を聞くのも聞です。

 

それに、最も大事なことは信心を獲ているのか、獲ていないのか誰が決めているのかです。自分でしょ。もっとも当てにならない自分が決めているのですよ。

「信前の念仏は称えてはいけない」と言う人、あるいは「称える必要はない」と言われる人は、本当に阿弥陀様に救われているのですか。

私は大いに疑問に思います。

 

阿弥陀様の御本願は、「称えよ」とは誓われていますが、「称えるな」とは誓われていません。

親鸞聖人も同じです。詳細は、いろいろなブログで説明されていますので割愛します。

 

3歳の子供に何を最初に教えますか。

南無阿弥陀仏です。口で称えることを教えるのです。

念仏を世界に広げるには、私が口で称えることです。

阿弥陀様の立場に立ったら、自力でも何でも良いからまず称えてくれです。

信心、あるなしは、話が理解出来るようになってからです。

信前の念仏を否定するのは順番が違うような気がします。

 

ただ、これも機に応じての説き方があるとは思います。

 

大音響流十方です。南無阿弥陀仏が世界に響き渡っているのです。

まずは、まねから入るのです。

 

私は、そう思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

注:

「聞即信」

第十八願成就文
「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」

 

教行信証 信巻
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」

 

一念多念文意
「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」

 

西方指南抄

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」

 

南無阿弥陀仏

垂名示形(名を垂たれ形を示す)
名を垂れるとは、「如より来生して」一切衆生を済度しようとする阿弥陀仏の願心が、南無阿弥陀仏という名乗りとなって十方衆生に称えられ聞かしめられんとすること。
形を示すとは、一如より来生して法蔵菩薩と示現し、その誓願が成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。

 

教行信証 証巻
真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

 

この阿弥陀仏のさとりの本性である真如は、自他、善悪、愛憎、生死、因果といった言葉による二元的な分別の領域を超えている。
言葉によってモノ/コトを概念化して理解し把握する我ら衆生には理解が不可能な領域である。

その理解することが不可能な真如一如の界(さかい)から、弥陀如来は如より来生(弥陀如来 従如来生)して口に称えられる仏陀として示現することを如来(垂名示形)といふのである。

 

教行信証 行巻

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。


可聞可称の南無阿弥陀仏である。(WikiArcより)

 

教行信証 行巻

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

 

 

 

 

 

この糞みたいな世の中(邪見)

よく映画の中やドラマや小説の中でこのような台詞を聞きます。

大抵、主人公が不幸なのか現状に満足していないか、あるいは世の中を見切ったふうの人の設定が多くだと思います。

また、そういう台詞を聞くと自分も同じような気持ちになり、少し厭世的な雰囲気になります。

このような気持ちが心を支配しだすと事件性にどんどん結び付いて行きます。

世の中間違っていると思い、世界を終わらせてやるなどと思うこともよくある考え方です。

では、何が糞みたいと思う理由なのでしょうか。

 

一つは自分の思うとおりにならないのはおかしいと世の中を見ている。

一つは自分ほど不幸な者は無いと思っている。

一つは世の中の仕組みが正しくないと思っている。

一つはどうしようもない怒りがあり、それを押さえることができない。

一つは他の人がうらやましくて、妬ましくてしかたがない。

一つは正直者が馬鹿を見ていると思っている。

一つはこんな不公平な世の中は無いと思っている。

などなど。

 

しかし、思うとおりの人生を送っている人がどれだけいるのか。

狭い考えに陥ってそこから出ることが出来ないでいるのです。

そう言われても全く受け付けることが出来ません。

 

この言葉は、ある意味、非常に危険な言葉です。何気なく使ったり、奇をてらったりするために使ったりしているのかもしれませんが正しい言葉ではないと思います。

いわゆる正語ではないと思うのです。

しかしながら我が身を振り返ってみるに仏教との出会いが無ければどんなことを考えていたか分かったものじゃありません。

邪見、間違った考え方に捕らわれ心ががんじがらめに成っていたことでしょう。

自分のことも嫌だけどあいつはもっと許せないとか、私一人が不幸とか、逆に自分には何もないと自虐的になり、なぜ生まれてきたのかと自分の人生を恨んでいたかもしれません。

せっかく生まれがたい人間に生まれながら、その生を喜ぶことが出来ないばかりか、恨んでさえいるのです。

誠にお釈迦様の言われる通り人生は苦なりです。

 

そんなわたしを哀れに思し召し、なんとか救ってやりたいと阿弥陀さまが立ち上がって下さいました。

一人でとじ込もって暗い闇のなかで泣いている、誰にも心を開けないで永遠に迷いのなかにいる、生死のなんたるかも知らないまま輪廻を繰り返している私に慈悲のお心を起こしてくださったのです。

お前を助けなければ一緒に地獄に落ちてでも助けてやると。

どれだけ時間がかかっても必ず助けてやる。

 

「我をたのめ、我が名をとなえよ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

「こんな教えを誰が信じられるか。こんな糞みたいな世の中に真実が本当にあるのか。

嘘つけ。」

 

それでも救いを求めてさ迷い続けているのが私の姿です。

 

哀れ‼

 

仏教に出会い、阿弥陀さまの教えに今出会わせていただいたいるのです。

この糞みたいな世の中でたまたま出会っているのです。

何を迷う必要があるのか、南無阿弥陀仏に今飛び込んでください。

 

   曠劫多生のあひだにも
  出離の強縁しらざりき
  本師源空いまさずは
  このたびむなしくすぎなまし
  『高僧和讃

 

どれだけの生死を繰り返しているか分からないが、その度に虚しく死んでいたのだろう。どうしたら幸せになれるのか求め続けていたけど、幸せに成れたのか?

自分の思うとおりの人生が幸せなのか。それで死んでも後悔無いのか。

何一つ善など出来ないのに、幸せになる資格なんて無いのに必死で幸せという幻想を求めているのです。

 

今、いろんなご縁のお陰で阿弥陀さまに出逢わせた頂いているのです。

今、出会っているのです。何の間違いか今出会わせていただいているのです。

この事実に向き合ったら何も必要ありません。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

勉強会のお知らせ

毎年行っておりました勉強会を今年も開催したいと思います。

日時は、8月24日(土)です。

時間は、午前10時から午後5時までで考えています。

場所は、JR刈谷駅前の産業振興センターの特別会議室です。

講師は、宮田秀成師を予定していますが、宮田さんのご法話は午後のみで、

午前は集まった方達で座談会を行いたいと思っております。

午後は13時30分から行う予定です。

どなたでも参加していただいて結構です。

よろしくお願いします。

 

追伸

宮田さんは、翌日8月25日(日)に西尾市羽塚町公民館で勉強会を予定されています。

ご都合の付く方は、そちらにもご参加ください。

詳細については、山も山さんのブログ「安心問答」のメールアドレスにお問い合わせ下さい。

無常を無常と感じないのが本当の姿です。

まず、無常とは何か。

仏教的には、四法印のうちの一つ、諸行無常がそれに相当すると思います。

諸々のものは全て常が無く変化し続けているということです。

また、無常には刹那無常と一期無常もあります。

刹那無常とは、今の瞬間は次の瞬間には変化しているということです。

今の瞬間と次の瞬間は異なると言うことです。

たとえば美味しい炊きたてのご飯は、湯気が出続けて最後は冷や飯になります。

瞬間、瞬間で変化し続けています。これを刹那無常といいます。

一期無常とは、一期(いちご)限りということで、短くは私の命やカゲロウなどの命であり、長くは太陽の燃え尽きるまでの命(期間)のことです。

 

また、仏教で教えられている 生老病死 は苦しみではありますが、無常とは異なります。

どれだけ周りで人が亡くなろうが自分ではないので、まったくと言っていいほど自分の命は無常だと思っていません。

 ワールドトレードセンターにジェット機が突っ込んでビルから人が落ちる姿を見た時はどうだったでしょう。

東北大震災の時、津波に人がのみ込まれる姿を見たとき無常を感じましたでしょうか。

私は、「うわーっ」と思っただけで家に帰ってもご飯を美味しく頂きました。

この「うわーっ」という感情は見たことの無いものを見た驚きだけで、

まるで映画のワンシーンを見ているようなものでした。

今でもその時のシーンを思い出すことがあります。

確かにいつ死ぬか分からないことについて不安にはなりますが、無常という言葉を理解している程度ではないかと思います。

 

では、どうなった状態が無常を感じている状態なのか。

頭燃を払うがごとくに気になって仕方ない、仕事も手に付かない、家族を放っておいても後生の解決をしたいと思う時か。

家族が亡くなったら、あるいは自分の手足が亡くなったら感じるのか。

自分の命が亡くなりそうな時でも無常というものを感じないかもしれません。

自分が死んで行くとなったとき、この世の中とおさらばさせられるとき、秀吉のように始めて思うのか。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことは 夢の又夢

 

親鸞聖人は、9歳の時出家され有名なお歌を歌われたと伝記が残っています。

 

明日ありと 思う心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ

 

すでに9歳にして無常を謳っておられますが、これは命の儚さを言われているのであり、本当に無常を感じて説かれたとは言えないと思います。秀吉の句も同じだと思います。

ある意味、無常だけでなく命に対する執着(煩悩)をも表しているのではと思います。

 

ですから、この先私の人生はどうなってしまうのかと思うのは単なる不安であり、本当に自分が満足して生きているのかと思うのは思い通りにならない事を嘆いているだけで、無常を間接的に理解はしているかもしれませんが、直接的に無常を感じているとは言い難いと思うのです。単に無常を観察しているだけなのかもしれません。

それこそ、無常を観察する、無常観です。

 

 物事に常が無く、変化し続けていく、留まることが無いと感じられないから、そこで出てくるのが苦しみです。すべてが続くはずだと思っている心を否定されるから苦しいのです。

つまり、無常を無常と感じられないから、苦しいと感じるのです。

 

本当に無常を無常と感じ取ることが出来たとしたら、それは既に悟っていることだと思います。なぜなら諸行無常は悟りの言葉であり、無常をそのまま感じると言うことは無常を体得すると言うことですのでそれ以上苦しむことも無くなります。

当たり前ですが、命がなくなるのは当然の摂理ですし、老少不定も真実ですので人が死んでいちいち悲しむこと自体が知恵が無い状態、無明であると言えるのです。

 

 お釈迦様は四苦八苦を説かれましたが、これは苦しみです。

苦しみは自分の思い通りにならない心の状態、執着です。

ところが四苦八苦のお言葉をどれだけ聞かされても何とも思いません。

自分が死ぬときになって初めて死を実感するかもしれませんが、それでもまだ死なないと思いながら死んで行くのでしょう。

無常を無常と感じていないからです。

まったく狂っているのが私なのです。

知恵がない、真っ暗がりだから無明です。

 

だから、後生の解決に三願転入が必要などと寝ぼけたことを言っている団体など愚の骨頂なのです。

そんな余裕があれば、法蔵菩薩様が南無阿弥陀仏一つで助けるなどと誓われないのです。

覚如上人がおっしゃられる通り短命の根機がお目あてなのですから。(後記1参照)

 

仏教的な意味での無常は、死への恐怖や自分の人生に対する欲望とは全く異なります。

言い換えれば死への恐怖や人生に対する欲望は、親鸞聖人がおっしゃられるように死ぬまで変わらないのです。いわゆる煩悩具足の凡夫の姿です。(後記2参照)

 

阿弥陀様は、その煩悩具足の凡夫、無常を無常と感じることが出来ない、無明の私をそのまま救うと誓っておられるのです。

現在ただ今、落ちるそのまま、南無阿弥陀仏です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

後記

1 

しかるに世の人つねにおもへらく、上尽一形の多念も宗の本意とおもひて、それにかなはざらん機のすてがてらの一念とこころうるか。これすでに弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

覚如上人 口伝鈔

2 

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。

親鸞聖人 一念多念文意

 

 

 

 

 

視点を変えてみる

学問の世界でよく一般的に言われるのが視点を変えてみるということがあります。

物事を多角的、多面的に見ると言うことですが、これがなかなか出来ないのが我々の性(さが)なんでしょう。

多角的、多面的に今起きている現象を見る事が出来ると世の中、結構、楽に生きていけると思います。

 

たとえば、子供たちがいじめの世界から抜け出せないのは、その世界がすべてだと思っているからです。

子供達だけの狭い世界は、大きくなればたいしたことは無い世界と見る事が出来るのですが、子供にとっては世の中が子供の中でしか存在しないと思っているから、どうしてもそこから抜け出せません。ですから子供同士の言葉に傷ついたり怒ったりするのです。

一歩抜け出して見る事ができれば本当に楽になるかもしれません。

いじめを受けても我慢せずにさっさと逃げたり警察に訴えたりしたらどうでしょう。大人もそういう対応をしたらいじめはいじめで無く暴力や犯罪として扱われますね。現実にそうなりつつあります。

 

大人になっても、会社という枠の中でしか生きられないと思い込んでいたら、会社が駄目になったときに自分も駄目になってしまいます。

会社がすべてと思い込んでしまったら、それこそ会社での出来事に一喜一憂してしまいます。会社の中での自分の立ち位置が気になり、神経をすり減らします。

その結果、鬱病労働災害を引き起こすこともあります。

会社以外に生きがいを持ちましょうと良く言われるのはそのためです。言うのは簡単ですけどね。

 

 また、この世の中に絶対というものは一つもありません。

時代をさかのぼれば現代では罪に問われることも法律違反では無いものが沢山有ります。

たとえば、個人情報保護法などは現代の法律で、昭和40年代ころは当たり前に有名人の住所が雑誌に載っていました。手紙もそこに送れば本当に届いていたのですから今では驚きです。

今、有名人の住所を雑誌に載せたら大変な事になるでしょうね。

労働基準法などもそうです。

8時間労働など基本的なものは戦後に出来ています。

社会の視点が変わったと言うことでしょう。 

 

社会の流れに従って法律を作り、それを守って生きる、法治国家が今私の生きている世界です。

しかしお隣の北朝鮮将軍様の国ですので法治国家ではありません。

独裁国家です。ですから日本の感覚で外国に行ったらとんでもないことが起きても仕方有りません。立ち位置を変えなければ成りません。

実際、北朝鮮に旅行に行って投獄されたアメリカ人がいましたが、最後は意識不明の状態でアメリカに送還され、しばらくして亡くなりました。これなどは自分の立ち位置を見誤った結果と言えると思います。

そういう国は世界にまだまだ沢山有ります。

 

また、牛や豚は人間に食べられるために生きているのか、どうでしょう。

牛や豚の気持ちになったらとんでもないですね。

野菜の消毒によって小動物は天文学的な数で殺処分されています。

ベジタリアンは本当に自然に優しい行為なのか。たんなる欺瞞ではないか。

鯨を守ると言って活動しているシーシェパードなどは典型的な欺瞞に満ちた存在だと思っています。なぜイルカや鯨を守らなければならないのですか、牛や豚は守らなくて良いんですね。ノアの箱舟の考え方がそのままです。

世界経済は弱肉強食であり搾取の構造です。それは正しいのか。

アングロサクソンは自らの利益が確保出来なければ何をするか分かったものではありません。特にアジア、印度や中国系の人口は世界の半分近くになるでしょう。

どんどん力を持ってきたら白人にとっては大きな脅威ですね。

世界戦争が起きても何ら不思議ではありません。

現実にイスラム教の台頭はヨーロッパやアメリカにとっては脅威です。

また、共産主義は題目だけで実現している社会はどこにもありませんが、本当に人間にとって理想の思想なのか。中国やロシアはもう共産主義の国ではありません。

単に一部の権力者によって国民の自由と権利が抑圧された半資本主義的社会です。

むしろ日本の方がよほど共産主義的に思えるのは私だけでしょうか。

見方を変えるといろいろな発見があります。

 

では、ここで宗教の問題を考えてみたいと思います。

アッラーが絶対だと言う人、キリストが、マホメットが、etc. 

宗教の世界はまさしく視点を変えることが出来ない人が多くいます。

自分で自分をがんじがらめにしています。

今、自分が信じているものは本当に正しいものなのか、多角的、多面的に考える事が出来なくなります。

私が信じているものは絶対なのか、本当に正しいのか。

そして、本当に阿弥陀様は私を救ってくださるのか。

それを本当に私は信じているのか。

 

考えてみてください。

客観的な事実は 、私が毎日生きていることと、お念仏を申せと先人達に教えられたのでお念仏を忘れた頃にしているだけです。

生きている事実は、私が自覚しようが自覚しまいが、そのままあらゆる生命の犠牲のうえに立っています。それゆえの業は仏教の教えでは自分がすべて受けていかなければなりません。しかし、その業なるものを私は本当に信じているのでしょうか。

仏様は、その業によって三悪道に落ちると言われています。

そして、何を思ったか自分が幸せになる方法としてお念仏を自分が選んで称えていると思っています。

また、本当に法を誹っていないでしょうか。仏教によって私が救われることを疑っていることが法を誹っていることになるのか、ならないのか、どうでしょう。

法を誹っていたら阿弥陀様のご本願では除かれた人になります。

 

さらに、私が救われている、いないの判断は私がしていますが、この視点を阿弥陀様に移したらどうでしょう。

阿弥陀様は必ず救うと私に呼びかけておられます。お念仏を称えよと言われています。

その私は、どういう判断をしているかはそれぞれですが、お念仏を称えています。

阿弥陀からしたら称えさせているということになります。

阿弥陀様は、よくぞお念仏を称えてくれたと喜んでおられるでしょう。

そして、必ず救うぞと叫んでおられるのです。

我にまかせよ、必ず救う。

 

このお言葉に頭が下がります。 

 

しかし、考えれば考えるほど分からなく成ります。本当に正しいものは何なのか判断できる力が私にはありません。

そう思いながらもお念仏させていただいています。

自分の視点を阿弥陀様の視点に変えて自分を俯瞰してみてください。

最後は、よきひとの仰せに従い、阿弥陀さまにお任せするだけなのです。

有り難い事です。

 

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