よく映画の中やドラマや小説の中でこのような台詞を聞きます。
大抵、主人公が不幸なのか現状に満足していないか、あるいは世の中を見切ったふうの人の設定が多くだと思います。
また、そういう台詞を聞くと自分も同じような気持ちになり、少し厭世的な雰囲気になります。
このような気持ちが心を支配しだすと事件性にどんどん結び付いて行きます。
世の中間違っていると思い、世界を終わらせてやるなどと思うこともよくある考え方です。
では、何が糞みたいと思う理由なのでしょうか。
一つは自分の思うとおりにならないのはおかしいと世の中を見ている。
一つは自分ほど不幸な者は無いと思っている。
一つは世の中の仕組みが正しくないと思っている。
一つはどうしようもない怒りがあり、それを押さえることができない。
一つは他の人がうらやましくて、妬ましくてしかたがない。
一つは正直者が馬鹿を見ていると思っている。
一つはこんな不公平な世の中は無いと思っている。
などなど。
しかし、思うとおりの人生を送っている人がどれだけいるのか。
狭い考えに陥ってそこから出ることが出来ないでいるのです。
そう言われても全く受け付けることが出来ません。
この言葉は、ある意味、非常に危険な言葉です。何気なく使ったり、奇をてらったりするために使ったりしているのかもしれませんが正しい言葉ではないと思います。
いわゆる正語ではないと思うのです。
しかしながら我が身を振り返ってみるに仏教との出会いが無ければどんなことを考えていたか分かったものじゃありません。
邪見、間違った考え方に捕らわれ心ががんじがらめに成っていたことでしょう。
自分のことも嫌だけどあいつはもっと許せないとか、私一人が不幸とか、逆に自分には何もないと自虐的になり、なぜ生まれてきたのかと自分の人生を恨んでいたかもしれません。
せっかく生まれがたい人間に生まれながら、その生を喜ぶことが出来ないばかりか、恨んでさえいるのです。
誠にお釈迦様の言われる通り人生は苦なりです。
そんなわたしを哀れに思し召し、なんとか救ってやりたいと阿弥陀さまが立ち上がって下さいました。
一人でとじ込もって暗い闇のなかで泣いている、誰にも心を開けないで永遠に迷いのなかにいる、生死のなんたるかも知らないまま輪廻を繰り返している私に慈悲のお心を起こしてくださったのです。
お前を助けなければ一緒に地獄に落ちてでも助けてやると。
どれだけ時間がかかっても必ず助けてやる。
「我をたのめ、我が名をとなえよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「こんな教えを誰が信じられるか。こんな糞みたいな世の中に真実が本当にあるのか。
嘘つけ。」
それでも救いを求めてさ迷い続けているのが私の姿です。
哀れ‼
仏教に出会い、阿弥陀さまの教えに今出会わせていただいたいるのです。
この糞みたいな世の中でたまたま出会っているのです。
何を迷う必要があるのか、南無阿弥陀仏に今飛び込んでください。
曠劫多生のあひだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし
『高僧和讃』
どれだけの生死を繰り返しているか分からないが、その度に虚しく死んでいたのだろう。どうしたら幸せになれるのか求め続けていたけど、幸せに成れたのか?
自分の思うとおりの人生が幸せなのか。それで死んでも後悔無いのか。
何一つ善など出来ないのに、幸せになる資格なんて無いのに必死で幸せという幻想を求めているのです。
今、いろんなご縁のお陰で阿弥陀さまに出逢わせた頂いているのです。
今、出会っているのです。何の間違いか今出会わせていただいているのです。
この事実に向き合ったら何も必要ありません。