「仏願の生起本末を聞く」は良く使われる言葉ですが、親鸞聖人の教行信証のこのお言葉通りしかありません。
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
ここで「聞」といわれている「聞」とは、
大無量寿経の下巻にある願成就文
諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向願生彼国、即得往生住不退転、唯除五逆誹謗正法
聞其名号の聞のことを言われていることは常識ですがとりあえず確認作業をしていきます。
では、何を聞くのかというと其の名号を聞くということであり、名号とは南無阿弥陀仏のことで、では、その南無阿弥陀仏のおいわれは何かということになります。
南無阿弥陀仏はどうして出来たのか。
それは地獄で苦しんで何度も何度も六道を回り続けている私たちの姿を見て、何とか救ってやりたいと三世の諸仏方が私たちを救おうとされたがどうしても駄目で三世の諸仏方はあきらめられた私がいたのです。
それほど私というものは迷いが深く、修行も出来ないくせに自惚れ強く、どうしようもない者なのです。ところがその事を少しも思っておらず、反省など少しもしない、この世に生まれてきても自分の幸せばかり願い、他人など何とも思っていない、とにかく自分さえ良ければの我利我利亡者なのに、そのことを全く悪いとも思っていない。
そのせいで何度も何度も六道を繰り返していると言われても全く意に介せず、平気に生きられる根性の持ち主が私なのです。だから地獄であろうがどこであろうが落ちるしか無いのに何もそのことのについて感じないでいる。そして一生がそれで終わっていくだけ。
そんな私を阿弥陀様だけがなんとか救ってやりたいと願を起こされたのです。お節介なことです。私は救われたいとかこの六道を出たいとかそんなことは一切思っていない。ただ、楽して生きて行きたいだけ、そのことにしか関心がないのです。
それをわざわざ阿弥陀様は、法蔵菩薩と成り下がって私たちを救わんと五劫の間ご思案し、そして兆歳永劫のご修行をされ完成したのが南無阿弥陀仏であると大無量寿経に書かれています。
南無阿弥陀仏の御名号は今、私に回向されているのです。それが現在ただ今、南無阿弥陀仏となって私の口から出てくださっているのです。
阿弥陀様は私に南無阿弥陀仏をどうか受け取ってくれとあらゆる手段を駆使して私に呼びかけておられるのです。
この六字の心を頂いたのが信心であり、また、疑心あること無しになったのが信心であります。
仏願の生起本末を簡単に説明しました。
では、もっと具体的な表現としてどういうものかと言えば、「今、死んでいけますか、南無阿弥陀仏一つで死んでいけますか。」ということになります。
南無阿弥陀仏にお任せしたなら、嫌々ながらも、死の宣告をされたら、受け入れられるのかどうか、受け入れることが出来なくても後生に不安があるのか無いのか、自分の心など当てにならないなどと言う逃げの言葉は通用しません。
さあ、「今、死んでいけますか、南無阿弥陀仏一つで死んでいけますか。」が仏願の生起本末を聞いたかどうかの一つの判断になるのではないかと私は思います。