とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

そのままと言われても・・・

阿弥陀様の救いについてよく使われるのが「そのまま」という言葉です。

「そのまま」の意味は、手を加えることなく現状のままという意味です。

現状と言うことは「今」の状態と言うことで、その「今」とはいつまで経っても「今」となります。

つまり死ぬまで「今」ということです。

当たり前ですが私達人間界に生を受けて「今」を生きています。

過ぎ去った過去は、今ではありませんし、まだ来ぬ未来も今ではありません。

過去世と未来世の接点がこの「今」現在世と言うことになります。

そしてただ「今」救うと言われた根拠が願成就文となります。※1

 

しかしです。

御信心がハッキリされていない方は「そのままと言われても・・・」となります。

「そのまま」なら聞法も必要ないのか。

称名念仏」も「勤行」も何もしなくても良いのかという事になりますが、これは大きな聞き違いとなります。

さらに「聞く一つと言われて、何度も何度も同じ事を聞いているが一向に何も変わらないじゃないか。」と言われます。

ここで矛楯が生じます。

「そのまま」と言われ、それを「そのまま」受け止めることが出来ない状態があります。

それを解決するために、その人その人に応じた「道」があります。

その「道」は人それぞれですので、聞法や勤行や称名念仏などそれぞれです。

しかし必ずその「道」を皆さんが通って御信心の世界に出られるのです。

この「道」を「求道」と言うと間違いになりますが、傍から見たら「求道」以外の何ものでもありません。

でも浄土真宗では「求道」という言葉は「そのまま」の救いと矛楯するため使いたがりません。

・・・・・・

浄土真宗のご法義は「信心正因」です。

ですから「絶対他力、無条件の救いなら、どうして、信心という条件があるのか」という疑問が出てきます。

(私は読んだことはありませんが)『増一阿含経』という経典には、仏教とそうでないものとを見分ける、三つの指標が説かれているそうです。

「こうなったら仏教ではない」という目印です。

一つは「宿命造」いわゆる運命論・宿命論です。

「自分の人生は、すでに運命によって決定している。」

こうなったら仏教ではありません。

お釈迦さまは、精進・努力によって自らの未来を切り拓く教えを説いてくださいました。

二つめは「尊裕造(そんゆうぞう)」神意論のことです。

この世界は唯一絶対の神によって造られ、全知全能の神によって支配されているという、ちょうどキリスト教のような考え方です。

阿弥陀さまが全知全能の創造主であるのなら、いやでもおうでも浄土へ引きずり込むということもあるかもしれませんが、こうなったら仏教ではありません。

三つめが「無因無果」偶然論のことです。

当然のことながら、仏教は因果の道理を説きます。

私のさとり(仏果)には、私の側に仏因がなければなりません。

それが正しい因果の道理というものです。

おなかがすいたからといって、代わりに食事をしてもらっても、私は満腹になりません。

私の仏果には、私の側に仏因がなければなりません。

それが仏教の原則で、浄土真宗では、それを「信心正因」とするのです。

しかしながら、私の側の仏因といっても、私の側には迷いの元ばかりで、仏因になるようなものは、何ひとつ持ち合わせておりません。

私の迷い心でつくった信心ならば、仏因になるというような厚かましいことはいえないのです。

「かつて一善もなし『無量寿経』、『註釈版聖典』六九頁」といわれる身において、仏因になりうるものは、阿弥陀さまからの真実が届けられる他力回向の信心のみです。

喚び声のままの信「信心」は、「心」という字があるように、私の心に起こるものです。(なぜなら阿弥陀様からご信心を賜るからです)

私の心に起こることについて、私のはたらき(自力)が関わったのでは、迷いのもとが雑じることになり、仏因とはなりえません。

私の心に起こることでありながら、私の心のはたらきをさせないあり方とは、どういうことになるでしょう。

それが、聞くままがそのまま信となる、「聞即信」のあり方です。

「聞く」という行為は、先手の音声があって、初めて成立します。

私か講義をたのまれても、日時を間違えて一日遅く行ったら、せっかく集まってもらった受講生にとっては、私か到着してないので「聞く」という行為は成立しません。

阿弥陀さまが「喚び声」の仏さまとなられたのは、私の心に起こる信心について、私の心のはたらきをさせず、先手の「喚び声」がそのまま信となる、まさに「他力回向」の信となる救いの構造を完成されたからです。

光明寺 浄土真宗本願寺派(西本願寺) of 光明寺 (komyouji.com)より引文

・・・・・・・

先手の阿弥陀様の南無阿弥陀仏が届いて居るから、それを受け取ることによって因が私に宿ることになります。

届いて居ても受け取っていなければ私に因は出来ません。

では、「どうしたら」という考えが出てきますが、そもそもそこが間違いなのです。

摂取不捨と言われる所以です。

一生懸命求めていることが実は真逆の事だったと気付かされたときの驚きは言葉では表現出来ません。

ただただ懺悔です。

結局、ある程度この頭で理解出来るまでは聞法を重ねなけれならないということだと思います。

それも人それぞれの道があり、これが正しいというものは無いのです。

そして、絶対に忘れていけないのは、

「現在、ただ今、堕ちるそのままの私を南無阿弥陀仏一つで必ず救ってくださる」と言うことです。

「我をタノメ、我が名を称えよ、必ず救う」

これが全てなのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸

ウクライナとロシアの戦争はまだ続いています。

本当に残念でなりません。

早く終わることを祈っています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※1

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転

唯除五逆 誹謗正法