浄土真宗の教義がある程度分かってくるとどうしても出てくる疑問があります。
「どうしたら信心決定できるのか?」という疑問です。
いまさら言うことでもありませんが、浄土真宗は「後生の一大事の解決」が目的でもあります。
後生の一大事は、私が死んだ後苦しみの世界に行くかもしれない事です。
もう一つは信後の往生浄土の一大事がありますが、これは慶びですので問題になりません。
死後、苦しみの世界に行くかもしれないというその不安な気持ちを抱えたまま生きて行くのは辛いと思われる方は(ほとんどの方はそんなこと思ってもいません)、その解決がどうしてもしたくなります。
その解決のために信心決定が必要と言われています。
蓮如上人は御文章に何カ所も信心決定せよとか信を獲れとおっしゃっています。
後生の一大事の解決と信心決定の内容については、簡単に言えば「私の後生は阿弥陀様にお任せする」と言うことです。
ですが、そう簡単にいきませんので、いまだ信心決定出来ない人に出てくる気持ちは以下のようなものです。
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なぜ、私は信心決定出来ないのか。
他の人は簡単に御信心を賜っているように思える。
私はお念仏もしている。
しかし、私のお念仏は自力だから駄目だ。
お聴聞もしている。
阿弥陀様の誓いも理解出来る。
仏願の生起本末も理解出来る。
私は煩悩具足も理解している。
阿弥陀様はそのまま救うと言われるが、そのままが分からない。
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それに阿弥陀様が信じられない。
阿弥陀仏を信じよと言われるが本当に信じる事が出来るのか。
いや、信じよとは言われていない、任せよと言われている。
では、信じなくて良いのか。
中には信ずる心も念ずる心も求める心も無いと言う人がいるのに、どうして信心決定したような顔をしているのか。
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信心を頂いた気がしない。
何が違うのか。
どうしたら信心決定出来るのか。
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親鸞聖人が最も苦しまれたのは、仏の悟りを自力で開こうとしてもとても我が力が及ぶ世界ではないことに絶望されたのです。※1
それでも諦められず山を下りられ法然上人の所へ向かわれました。
そして、今まで修行してきた称名念仏(名号)が救いの証拠などと言われても絶対に信用できなかったことでしょう。
自力が当たり前の聖道門を捨てて初めて浄土門(他力)に入るわけですから。
そこで再度知らされたのは自力無功なのです。※2
親鸞聖人のような方でさえ我が身の力の無力さを思い知らされているのです。
まして仏の悟りを開くなど私達がとても太刀打ちできる世界ではないのです。
親鸞聖人は阿弥陀様に駄目だしをされて初めて我が身の自力を捨てさせられたのです。
その事に気付かれた親鸞聖人は本当に驚かれたと思います。
※3
いままで好相行(仏を見るため五体投地を行う行)や常行堂(不眠不休で不断念仏の行)で行っていた称名念仏(名号)に任せるなど思いもよらなかったことでしょう。
どうするもこうするもない、ただただ仰せに従っていくだけだと。
その事に気付かれた聖人は驚天動地の思いがあったと想像出来ます。
あまりの簡単さにとても信じられるものではないとも思われたことでしょう。
そのままの救いには言葉もなかったと思います。
※4、5
どうしたら信心決定出来るのか。
愚問ですが真剣に聞法すれば必ずぶち当たる思いです。
しかし、愚問は愚問です。
なぜなら、「どうしたら」という言葉には時間の長さがあります。
それは阿弥陀様の勅命に反しています。
「汝一心正念にして直ちに来たれ」
と阿弥陀様はおっしゃっていらっしゃるからです。
「現在、ただ今、堕ちるそのまま
我をタノメ、我が名を称えよ、必ず救う」
※1
嘆徳文
「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ。しかるに一息追がざれば千載に長く往く、なんぞ浮生の交衆を貪りて、いたづらに仮名の修学に疲れん。すべからく勢利を抛ちてただちに出離を悕ふべし」
※2
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
定没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき
※3
歎異抄
聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。 さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。
※4
御消息集
・・・・・・(前略)
念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそ、きこえて候へ。また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。
かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。
・・・・・・(後略)
二月九日 親鸞
慶西御坊 御返事
※5
顕浄土真実教行証文類 序
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。