とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

今、臨終の人に何と声をかける?

今、臨終を迎えようとしている人に何と声をかけるか。
ちょっと考えてみます。

キリスト教イスラム教はどうでしょう?
「アーメン」でしょうか?「アッラー」でしょうか?
その言葉で救われていくのでしょうか。
神をアッラーを「信じなさい」と言われています。
信じ切れない人はどうするのでしょう。
詳しい方がいらっしゃたら教えてください。

仏教はどうでしょう。
天台宗法華宗曹洞宗は「悟り」を求めています。
自力聖道門の教えです。
「南無観世音菩薩」あるいは「南無大師遍照金剛」などと称えることでしょうか。
臨終に「悟り」を得られていなければ「救い」はありません。
「悟り」を得られていなければ六道輪廻を繰り返すことになります。

浄土宗ではどうでしょう。
浄土宗は多念と思われる人が多いと思いますが、必ずしもそうではありません。
私の知り合いは称名をどう感じるか、どう頂いているかと言われます。
称名念仏をされるのでしょうか。

浄土真宗はどうでしょう。
「仏願の生起本末を聞く」という人がいます。
称名念仏」と言う人がいます。
阿弥陀仏をタノメ」と言う人がいます。

「今、臨終を迎えようとしている人に何と声をかけるか」
今、まだ阿弥陀様をタノメていない人に、次の瞬間に死んでしまう人に何と声をかけるのか。

一念往生が真宗の肝要です。(※1)

そして、善導大師の六字釈では、南無阿弥陀仏は願行具足と言われます。(※2)

私は今、臨終を迎えようとしている人には、耳元でお念仏を称えます。
本願招喚の勅命です。
聞即信です。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

追伸
現実には浄土真宗を信じていない人、ご縁の無いには無理でしょうね。

※1
そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。
もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

口伝鈔 覚如上人


※2
いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。
阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

観経疏 玄義分 六字釈 善導大師