今、臨終を迎えようとしている人に何と声をかけるか。
ちょっと考えてみます。
キリスト教やイスラム教はどうでしょう?
「アーメン」でしょうか?「アッラー」でしょうか?
その言葉で救われていくのでしょうか。
神をアッラーを「信じなさい」と言われています。
信じ切れない人はどうするのでしょう。
詳しい方がいらっしゃたら教えてください。
仏教はどうでしょう。
天台宗、法華宗や曹洞宗は「悟り」を求めています。
自力聖道門の教えです。
「南無観世音菩薩」あるいは「南無大師遍照金剛」などと称えることでしょうか。
臨終に「悟り」を得られていなければ「救い」はありません。
「悟り」を得られていなければ六道輪廻を繰り返すことになります。
浄土宗ではどうでしょう。
浄土宗は多念と思われる人が多いと思いますが、必ずしもそうではありません。
私の知り合いは称名をどう感じるか、どう頂いているかと言われます。
称名念仏をされるのでしょうか。
浄土真宗はどうでしょう。
「仏願の生起本末を聞く」という人がいます。
「称名念仏」と言う人がいます。
「阿弥陀仏をタノメ」と言う人がいます。
「今、臨終を迎えようとしている人に何と声をかけるか」
今、まだ阿弥陀様をタノメていない人に、次の瞬間に死んでしまう人に何と声をかけるのか。
一念往生が真宗の肝要です。(※1)
そして、善導大師の六字釈では、南無阿弥陀仏は願行具足と言われます。(※2)
私は今、臨終を迎えようとしている人には、耳元でお念仏を称えます。
本願招喚の勅命です。
聞即信です。
追伸
現実には浄土真宗を信じていない人、ご縁の無いには無理でしょうね。
※1
そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。
もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。
口伝鈔 覚如上人
※2
いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。
「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。
観経疏 玄義分 六字釈 善導大師