とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

善知識とは

善知識という言葉があります。

正しい道を教えてくださる知識のことであり善友とも言われます。

また、反対に間違った道に導くものを悪知識と言います。

当たり前ですが正しい道とは仏教で言う悟りに導くための道であります。

悟りとは、これも簡単に説明できませんのでとりあえず仏の悟りのこととします。

浄土真宗では、悟りを開くためにまず阿弥陀様のお浄土に行き、そこで仏の悟りを開くことになります。

お浄土とは仏が作った悟りの世界であり、この世の穢れた世界である穢土とは反対に清らかな世界という意味です。

清らかな世界についてはいろいろあると思いますが、とりあえず仏の作られた世界とします。

と言うか、凡夫の智恵では本当のことは死んでみないとわかりませんので。

その世界、阿弥陀様のお浄土に正しく導く人が善知識となります。

また浄土真宗では、先生をたのみにして阿弥陀様をたのみにしない人を「知識帰命の異安心」とか「善知識だのみ」といい排除しています。

さらに門徒からものを多く取りそれで往生出来るなどと言う僧侶や、僧侶に沢山ものを出せば往生出来るとする門徒は地獄に落ちると言われています。

どうもそのような組織が結構あります。

 

さらに一人の先生を絶対視するのはある意味危ない姿勢です。

そもそも浄土真宗のみ教えは仏教、つまりお釈迦様のみ教えが元です。

それを七高僧方が支えられているのです。

その七高僧がたを讃談された多くの先達方のお言葉も善知識のお言葉となります。

その方達のお言葉を総合的に見るべきなのです。

 

確かに私を真実に導いてくださった先生はいますが、それは一人ではありません。

鍵となる先生は、沢山いらっしゃいます。

 

それに浄土真宗では当たり前ですが南無阿弥陀仏以上の教えはありません。

南無阿弥陀仏の「我をたのめ、我が名を称えよ、落ちるそのまま、必ず救う」をあらゆる根拠と証言によって先達が著されているのです。

今、善知識に遇わせていただいたなら、そこからさらに一歩進んで阿弥陀様を帰命するのです。

これを後生の一大事の解決とか信心決定と言います。

こういう世界に今ここで導く人を善知識と言います。


 

今年もあと少しで終わります。

一年があっという間に過ぎていきます。

武漢コロナも変異を繰り返しウィルス特有の現象が現れています。

自分の意思とは無関係に無常は待ったなしです。

皆さんにおかれましてどんな一年だったでしょうか。

身体に気を付けて南無阿弥陀仏と共に今を生きていきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸:

今回は参考にしたものがちょっと長いですが以下に引文しておきますので気になる人は読んでみてください。

 

知識に三種あり、一には外護。二には同行。三には教授。『摩訶止観』
「外護の善知識」外護者。在俗にあって三宝(仏・法・僧)を護持する者で、真宗では法を説く僧侶を外護するいわゆる門信徒。
「同行の善知識」同じ教えを聞いて同じ行業の道を歩んでいる者。真宗では、本願に選択された「同一念仏 無別同故」の御同行・御同朋のこと。
「教授の善知識」往生極楽の道を往け、この法(なんまんだぶ)を修せよと教え勧めてくれる者のこと。
なお親鸞聖人は、「化身土巻」で、第一真実の善知識として、菩薩・諸仏を挙げられる。

大涅槃に近づく因縁は真の善知識に遇うことであると「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり」とされる。真の善知識である所以は、一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり、といわれ、衆生の機に応じて巧みな手立てをもって救済していくのが真の善知識であるとされる。
ここでいう善知識の菩薩とは、初地以上の菩薩であり真理の一分を明らかに体得している菩薩である。
究極的には、真理の全分を悟っているのは諸仏であるから、第十七願において阿弥陀仏の名号の徳を讃嘆する諸仏が第一真実の善知識であり、その諸仏の咨嗟讃嘆を通して、

十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。

と、阿弥陀仏の名号讃嘆と阿弥陀仏の信心を歓喜せしめるのが「第一真実の善知識」なのである。  
wikiarcより

 

正しい道理を教える者を善知識(善友ぜんぬ、親友しんぬ、勝友しょうう、善親友ぜんしんぬ)、誤った道に導く者を悪知識(悪友あくう、悪師)といい、単に知識というときは善知識の意とする。

例せば、華厳経入法界品には善哉童子の求道の過程に五五の善知識(一般に五三善知識という)に遇うことを説くように、どんな姿の者でも仏道に導くものは善知識であり、四分律巻四一には善親友は与え難いものを与えるなど七つ条件を具えている(善友七事)とし、智顗の摩訶止観巻四下には、外護(そとから見つめてまもる)、同行(行動を共にする)、教授(教え導く)の三善知識を説き、円暉の倶舎論頌疏巻二九には法を与えるものを上の親友、財と法を与えるものを中の親友、財を与えるものを下の親友とする(三友)。
真宗では念仏の教えをすすめるものを善知識というが、その人をただちに如来になぞらえて善知識は如来であるから善知識のみをたのめ、と主張する異計(異安心)は、「善知識だのみ」、「知識帰命」といって排撃する。また法主を、正しく法灯を継承した人として善知識ということもある。

『仏教学辞典』(法蔵館)より。

 

蓮如上人
 御文章二帖目
 五重の義
 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。 これおほきにあさましき次第なり。
そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。

これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。
またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。
これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明六年五月二十日]


 御文章一帖目
 電光朝露・死出の山路
 それおもんみれば、人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。

しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明五年九月中旬]