ご存じの通り阿弥陀仏には四十八の本願があります。
誰に対するものかといえば菩薩や衆生に対してです。
当たり前ですがこの菩薩や衆生という言葉にもいろいろな階層があります。
十九願、二十願及び十八願は十方衆生とお約束していますので菩薩とか衆生の差別はありません。
その中で本願に四十三願があります。
設我得仏 他方国土 諸菩薩衆 聞我名字 寿終之後 生尊貴家
若不爾者 不取正覚
「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからずは、正覚を取らじ。」
現代語訳
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちが私の名を聞けば、命を終えて後、人々に尊ばれる家に生れることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
以下、私の独断と偏見の解釈です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現代語訳で分かりにくいところは「他の国の菩薩」とは何か、また「尊ばれる家」とはどういう家ということでしょうか。
それと「聞けば」でしょう。
「他の国の菩薩」とはこの地球上以外の、また、阿弥陀仏のお浄土以外の別の仏様の国と考えた方が良いと思います。
(細かいことですがお釈迦様が悟りを開かれ仏陀となられたときは、この地球も仏の国と言うことになります。)
仏教の宇宙観から言えば仏の国は他にも沢山あるので他の世界で仏法を求めている衆生とも言えるかもしれません。
また、菩薩と言われるので下品下生の衆生とは違うでしょうが、下品下生でも法を求めている者は菩薩ということができるかもしれません。
いずれにしても阿弥陀様のご名号を聞いたものは次に生まれるときは「尊ばれる家」に生まれると言うことです。
では「尊ばれる家」とはどんなところでしょうか。
王族、貴族、天皇家、公家、財産家、有名人・・・。(きっと僧族もそうなんでしょうね)
普通の家の人でも何不自由なく才能にも恵まれ幸せな人もそうかもしれません。
最近よく言われる「親ガチャ」でしょうか。
そして「聞けば」がありますが、願成就文の「聞其名号」の「聞」と同じではないと思います。
「名号」でなく「名字」と書かれていますが同じと言えるのかどうか分かりませんが、
いずれにしても「聞けば」がありますので私が思うに「聞」は耳に聞こえたと言うことではないかと思います。
願成就文と同じならばお浄土に生まれるはずですので「尊ばれる家」とは言わないでしょう。
さて、この願をどうとらえるのか個人的な解釈です。
仏様は基本的に何にでもなれると聞いていますが、仏様になるとは書かれていませんので、阿弥陀様の「名字」を聞いた人は仏にはなれないが「尊ばれる家」に生まれます。
「尊ばれる家」に生まれた後はどうなるのか、そのことも書かれていませんのでどうなるか分かりませんが生前に阿弥陀様とご縁を結んでいますので、次に生まれても阿弥陀様とのご縁があると想像できます。
そうして阿弥陀様とのご縁を結ばせ、さらに他の衆生に阿弥陀様とのご縁を結ばせ、衆生済度されようとしているのです。
まったく周りくどい方法と言えるかもしれません。
それでもなんとしてでも阿弥陀様が救おうとされている願いなんでしょう。
「親ガチャ」で当たりにして仏法を聞くことができる環境を整えてやろうという願いかもしれません。
それ以外にも四十一願など気になる願がありますが、とにかくなんとしてでも必ず救う願いを起こされたということです。
超世の願なのです。
でなければ私が救われるということは無かったでしょう。
いずれにしても「親ガチャ」とはいやな言葉ですね。
あいつはラッキー、私はアンラッキー、それで人生を決めて行くのは間違っています。
それでも「親ガチャ」という言葉に支配される人はいるのでしょう。
誰が言い出したのか知りませんが「やけくそ」の言葉に思います。
世間では当たりの「親ガチャ」は金持ちのことが一般的なんでしょうね。
とは言うものの情けないことに当たりの「親ガチャ」には、うらやましいというかちょっとあこがれてしまいます。
その元は私の煩悩に他ありません。
阿弥陀様は「親ガチャ」に関係なく救うのです。