とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

称名念仏について考える

南無阿弥陀仏は六字の言葉であり、これを一般的に名号と言います。

名号には、六字の南無阿弥陀仏の他に、帰命尽十方無碍光如来といわれる十字名号や南無不可思議光如来の九字名号があります。

親鸞聖人は好んで十字名号を書かれたと言われています。

その他、阿弥陀様については個別の呼び名がいろいろあります。たとえば畢竟依などがそうです。

 

称名とは、そのまま名号を称えるということで、口で南無阿弥陀仏と言うことです。

称えるは、讃えるの意味もありますので、唱は使いません。

唱は、学校の校歌を斉唱するとかに使います。

 

念仏は、仏を念ずるのですが、心で念ずる以外に声に出して念ずるという動詞の意味も当たり前ですがあります。

この場合の仏は、特に定めのない場合、阿弥陀仏が該当します。

また、念仏は観想念仏や口称念仏のように一使われます。

観想念仏にも心の状態をどのようにするかによっていろいろあります。

口称念仏についても同様です。一般的には、称名念仏といい、略して念仏と使っています。

仏を見るのを目的とした念仏三昧があります。この場合、当然口から声に出して南無阿弥陀仏と称えます。

 

浄土真宗では、念仏に自力と他力があると言われます。

しかし、念仏そのものには、本来自力も他力もありません。

阿弥陀様の呼び声であり、それが信心のある人が称えようが信心の無い人が称えようが違いはありません。

つまり、自力の念仏か他力の念仏かはこちらが勝手に決めているだけなのです。

その条件として信心があるか無いかを問題にしています。

 

南無阿弥陀仏は真実の塊であり、私の心の状態などは問題にしていません。

そうは言っても、こちらは真実を真実と受け止めることが絶対に出来ないものであります。

それが私の姿であり、宿業と言っても良いかもしれません。

 

そこで問題になるのが信心が無いのに念仏を称えることは良いのか悪いのかと考える人が出てきます。

 

当たり前ですが、仏教を聞かせていただいているのですから良いと思うことは実践しなければ成りません。

念仏は正行ですので良いことに決まっています。

やはり、そこに自力、他力を分別する心があります。

 

「私の念仏は自力だから駄目だとか、信前の念仏は無駄だとか、聞くのが本当の浄土真宗だから信前の念仏はいらないなどの考えが出てきます。」

 

この言葉をよく考えて下さい。

 

どこのお聖経に信前の念仏はいらないと書かれていますか。

どこのお聖教に自力の念仏は役に立たないから称えるなと書かれていますか。

捨てものとは言われていますよ。この言い方は機に応じた説き方の一つですので本当は非常に微妙な表現だと思います。

しかし、称えるなとは言われていません。

聞即信、聞いているのが信心です。その通りです。

念仏を称えるなと書かれていますか。聞即信と書かれているだけです。

聞は、自分の声を聞くのも聞です。

 

それに、最も大事なことは信心を獲ているのか、獲ていないのか誰が決めているのかです。自分でしょ。もっとも当てにならない自分が決めているのですよ。

「信前の念仏は称えてはいけない」と言う人、あるいは「称える必要はない」と言われる人は、本当に阿弥陀様に救われているのですか。

私は大いに疑問に思います。

 

阿弥陀様の御本願は、「称えよ」とは誓われていますが、「称えるな」とは誓われていません。

親鸞聖人も同じです。詳細は、いろいろなブログで説明されていますので割愛します。

 

3歳の子供に何を最初に教えますか。

南無阿弥陀仏です。口で称えることを教えるのです。

念仏を世界に広げるには、私が口で称えることです。

阿弥陀様の立場に立ったら、自力でも何でも良いからまず称えてくれです。

信心、あるなしは、話が理解出来るようになってからです。

信前の念仏を否定するのは順番が違うような気がします。

 

ただ、これも機に応じての説き方があるとは思います。

 

大音響流十方です。南無阿弥陀仏が世界に響き渡っているのです。

まずは、まねから入るのです。

 

私は、そう思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

注:

「聞即信」

第十八願成就文
「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」

 

教行信証 信巻
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」

 

一念多念文意
「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」

 

西方指南抄

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」

 

南無阿弥陀仏

垂名示形(名を垂たれ形を示す)
名を垂れるとは、「如より来生して」一切衆生を済度しようとする阿弥陀仏の願心が、南無阿弥陀仏という名乗りとなって十方衆生に称えられ聞かしめられんとすること。
形を示すとは、一如より来生して法蔵菩薩と示現し、その誓願が成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。

 

教行信証 証巻
真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

 

この阿弥陀仏のさとりの本性である真如は、自他、善悪、愛憎、生死、因果といった言葉による二元的な分別の領域を超えている。
言葉によってモノ/コトを概念化して理解し把握する我ら衆生には理解が不可能な領域である。

その理解することが不可能な真如一如の界(さかい)から、弥陀如来は如より来生(弥陀如来 従如来生)して口に称えられる仏陀として示現することを如来(垂名示形)といふのである。

 

教行信証 行巻

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。


可聞可称の南無阿弥陀仏である。(WikiArcより)

 

教行信証 行巻

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

 

 

 

 

 

この糞みたいな世の中(邪見)

よく映画の中やドラマや小説の中でこのような台詞を聞きます。

大抵、主人公が不幸なのか現状に満足していないか、あるいは世の中を見切ったふうの人の設定が多くだと思います。

また、そういう台詞を聞くと自分も同じような気持ちになり、少し厭世的な雰囲気になります。

このような気持ちが心を支配しだすと事件性にどんどん結び付いて行きます。

世の中間違っていると思い、世界を終わらせてやるなどと思うこともよくある考え方です。

では、何が糞みたいと思う理由なのでしょうか。

 

一つは自分の思うとおりにならないのはおかしいと世の中を見ている。

一つは自分ほど不幸な者は無いと思っている。

一つは世の中の仕組みが正しくないと思っている。

一つはどうしようもない怒りがあり、それを押さえることができない。

一つは他の人がうらやましくて、妬ましくてしかたがない。

一つは正直者が馬鹿を見ていると思っている。

一つはこんな不公平な世の中は無いと思っている。

などなど。

 

しかし、思うとおりの人生を送っている人がどれだけいるのか。

狭い考えに陥ってそこから出ることが出来ないでいるのです。

そう言われても全く受け付けることが出来ません。

 

この言葉は、ある意味、非常に危険な言葉です。何気なく使ったり、奇をてらったりするために使ったりしているのかもしれませんが正しい言葉ではないと思います。

いわゆる正語ではないと思うのです。

しかしながら我が身を振り返ってみるに仏教との出会いが無ければどんなことを考えていたか分かったものじゃありません。

邪見、間違った考え方に捕らわれ心ががんじがらめに成っていたことでしょう。

自分のことも嫌だけどあいつはもっと許せないとか、私一人が不幸とか、逆に自分には何もないと自虐的になり、なぜ生まれてきたのかと自分の人生を恨んでいたかもしれません。

せっかく生まれがたい人間に生まれながら、その生を喜ぶことが出来ないばかりか、恨んでさえいるのです。

誠にお釈迦様の言われる通り人生は苦なりです。

 

そんなわたしを哀れに思し召し、なんとか救ってやりたいと阿弥陀さまが立ち上がって下さいました。

一人でとじ込もって暗い闇のなかで泣いている、誰にも心を開けないで永遠に迷いのなかにいる、生死のなんたるかも知らないまま輪廻を繰り返している私に慈悲のお心を起こしてくださったのです。

お前を助けなければ一緒に地獄に落ちてでも助けてやると。

どれだけ時間がかかっても必ず助けてやる。

 

「我をたのめ、我が名をとなえよ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

「こんな教えを誰が信じられるか。こんな糞みたいな世の中に真実が本当にあるのか。

嘘つけ。」

 

それでも救いを求めてさ迷い続けているのが私の姿です。

 

哀れ‼

 

仏教に出会い、阿弥陀さまの教えに今出会わせていただいたいるのです。

この糞みたいな世の中でたまたま出会っているのです。

何を迷う必要があるのか、南無阿弥陀仏に今飛び込んでください。

 

   曠劫多生のあひだにも
  出離の強縁しらざりき
  本師源空いまさずは
  このたびむなしくすぎなまし
  『高僧和讃

 

どれだけの生死を繰り返しているか分からないが、その度に虚しく死んでいたのだろう。どうしたら幸せになれるのか求め続けていたけど、幸せに成れたのか?

自分の思うとおりの人生が幸せなのか。それで死んでも後悔無いのか。

何一つ善など出来ないのに、幸せになる資格なんて無いのに必死で幸せという幻想を求めているのです。

 

今、いろんなご縁のお陰で阿弥陀さまに出逢わせた頂いているのです。

今、出会っているのです。何の間違いか今出会わせていただいているのです。

この事実に向き合ったら何も必要ありません。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

勉強会のお知らせ

毎年行っておりました勉強会を今年も開催したいと思います。

日時は、8月24日(土)です。

時間は、午前10時から午後5時までで考えています。

場所は、JR刈谷駅前の産業振興センターの特別会議室です。

講師は、宮田秀成師を予定していますが、宮田さんのご法話は午後のみで、

午前は集まった方達で座談会を行いたいと思っております。

午後は13時30分から行う予定です。

どなたでも参加していただいて結構です。

よろしくお願いします。

 

追伸

宮田さんは、翌日8月25日(日)に西尾市羽塚町公民館で勉強会を予定されています。

ご都合の付く方は、そちらにもご参加ください。

詳細については、山も山さんのブログ「安心問答」のメールアドレスにお問い合わせ下さい。

無常を無常と感じないのが本当の姿です。

まず、無常とは何か。

仏教的には、四法印のうちの一つ、諸行無常がそれに相当すると思います。

諸々のものは全て常が無く変化し続けているということです。

また、無常には刹那無常と一期無常もあります。

刹那無常とは、今の瞬間は次の瞬間には変化しているということです。

今の瞬間と次の瞬間は異なると言うことです。

たとえば美味しい炊きたてのご飯は、湯気が出続けて最後は冷や飯になります。

瞬間、瞬間で変化し続けています。これを刹那無常といいます。

一期無常とは、一期(いちご)限りということで、短くは私の命やカゲロウなどの命であり、長くは太陽の燃え尽きるまでの命(期間)のことです。

 

また、仏教で教えられている 生老病死 は苦しみではありますが、無常とは異なります。

どれだけ周りで人が亡くなろうが自分ではないので、まったくと言っていいほど自分の命は無常だと思っていません。

 ワールドトレードセンターにジェット機が突っ込んでビルから人が落ちる姿を見た時はどうだったでしょう。

東北大震災の時、津波に人がのみ込まれる姿を見たとき無常を感じましたでしょうか。

私は、「うわーっ」と思っただけで家に帰ってもご飯を美味しく頂きました。

この「うわーっ」という感情は見たことの無いものを見た驚きだけで、

まるで映画のワンシーンを見ているようなものでした。

今でもその時のシーンを思い出すことがあります。

確かにいつ死ぬか分からないことについて不安にはなりますが、無常という言葉を理解している程度ではないかと思います。

 

では、どうなった状態が無常を感じている状態なのか。

頭燃を払うがごとくに気になって仕方ない、仕事も手に付かない、家族を放っておいても後生の解決をしたいと思う時か。

家族が亡くなったら、あるいは自分の手足が亡くなったら感じるのか。

自分の命が亡くなりそうな時でも無常というものを感じないかもしれません。

自分が死んで行くとなったとき、この世の中とおさらばさせられるとき、秀吉のように始めて思うのか。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことは 夢の又夢

 

親鸞聖人は、9歳の時出家され有名なお歌を歌われたと伝記が残っています。

 

明日ありと 思う心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ

 

すでに9歳にして無常を謳っておられますが、これは命の儚さを言われているのであり、本当に無常を感じて説かれたとは言えないと思います。秀吉の句も同じだと思います。

ある意味、無常だけでなく命に対する執着(煩悩)をも表しているのではと思います。

 

ですから、この先私の人生はどうなってしまうのかと思うのは単なる不安であり、本当に自分が満足して生きているのかと思うのは思い通りにならない事を嘆いているだけで、無常を間接的に理解はしているかもしれませんが、直接的に無常を感じているとは言い難いと思うのです。単に無常を観察しているだけなのかもしれません。

それこそ、無常を観察する、無常観です。

 

 物事に常が無く、変化し続けていく、留まることが無いと感じられないから、そこで出てくるのが苦しみです。すべてが続くはずだと思っている心を否定されるから苦しいのです。

つまり、無常を無常と感じられないから、苦しいと感じるのです。

 

本当に無常を無常と感じ取ることが出来たとしたら、それは既に悟っていることだと思います。なぜなら諸行無常は悟りの言葉であり、無常をそのまま感じると言うことは無常を体得すると言うことですのでそれ以上苦しむことも無くなります。

当たり前ですが、命がなくなるのは当然の摂理ですし、老少不定も真実ですので人が死んでいちいち悲しむこと自体が知恵が無い状態、無明であると言えるのです。

 

 お釈迦様は四苦八苦を説かれましたが、これは苦しみです。

苦しみは自分の思い通りにならない心の状態、執着です。

ところが四苦八苦のお言葉をどれだけ聞かされても何とも思いません。

自分が死ぬときになって初めて死を実感するかもしれませんが、それでもまだ死なないと思いながら死んで行くのでしょう。

無常を無常と感じていないからです。

まったく狂っているのが私なのです。

知恵がない、真っ暗がりだから無明です。

 

だから、後生の解決に三願転入が必要などと寝ぼけたことを言っている団体など愚の骨頂なのです。

そんな余裕があれば、法蔵菩薩様が南無阿弥陀仏一つで助けるなどと誓われないのです。

覚如上人がおっしゃられる通り短命の根機がお目あてなのですから。(後記1参照)

 

仏教的な意味での無常は、死への恐怖や自分の人生に対する欲望とは全く異なります。

言い換えれば死への恐怖や人生に対する欲望は、親鸞聖人がおっしゃられるように死ぬまで変わらないのです。いわゆる煩悩具足の凡夫の姿です。(後記2参照)

 

阿弥陀様は、その煩悩具足の凡夫、無常を無常と感じることが出来ない、無明の私をそのまま救うと誓っておられるのです。

現在ただ今、落ちるそのまま、南無阿弥陀仏です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

後記

1 

しかるに世の人つねにおもへらく、上尽一形の多念も宗の本意とおもひて、それにかなはざらん機のすてがてらの一念とこころうるか。これすでに弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

覚如上人 口伝鈔

2 

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。

親鸞聖人 一念多念文意

 

 

 

 

 

視点を変えてみる

学問の世界でよく一般的に言われるのが視点を変えてみるということがあります。

物事を多角的、多面的に見ると言うことですが、これがなかなか出来ないのが我々の性(さが)なんでしょう。

多角的、多面的に今起きている現象を見る事が出来ると世の中、結構、楽に生きていけると思います。

 

たとえば、子供たちがいじめの世界から抜け出せないのは、その世界がすべてだと思っているからです。

子供達だけの狭い世界は、大きくなればたいしたことは無い世界と見る事が出来るのですが、子供にとっては世の中が子供の中でしか存在しないと思っているから、どうしてもそこから抜け出せません。ですから子供同士の言葉に傷ついたり怒ったりするのです。

一歩抜け出して見る事ができれば本当に楽になるかもしれません。

いじめを受けても我慢せずにさっさと逃げたり警察に訴えたりしたらどうでしょう。大人もそういう対応をしたらいじめはいじめで無く暴力や犯罪として扱われますね。現実にそうなりつつあります。

 

大人になっても、会社という枠の中でしか生きられないと思い込んでいたら、会社が駄目になったときに自分も駄目になってしまいます。

会社がすべてと思い込んでしまったら、それこそ会社での出来事に一喜一憂してしまいます。会社の中での自分の立ち位置が気になり、神経をすり減らします。

その結果、鬱病労働災害を引き起こすこともあります。

会社以外に生きがいを持ちましょうと良く言われるのはそのためです。言うのは簡単ですけどね。

 

 また、この世の中に絶対というものは一つもありません。

時代をさかのぼれば現代では罪に問われることも法律違反では無いものが沢山有ります。

たとえば、個人情報保護法などは現代の法律で、昭和40年代ころは当たり前に有名人の住所が雑誌に載っていました。手紙もそこに送れば本当に届いていたのですから今では驚きです。

今、有名人の住所を雑誌に載せたら大変な事になるでしょうね。

労働基準法などもそうです。

8時間労働など基本的なものは戦後に出来ています。

社会の視点が変わったと言うことでしょう。 

 

社会の流れに従って法律を作り、それを守って生きる、法治国家が今私の生きている世界です。

しかしお隣の北朝鮮将軍様の国ですので法治国家ではありません。

独裁国家です。ですから日本の感覚で外国に行ったらとんでもないことが起きても仕方有りません。立ち位置を変えなければ成りません。

実際、北朝鮮に旅行に行って投獄されたアメリカ人がいましたが、最後は意識不明の状態でアメリカに送還され、しばらくして亡くなりました。これなどは自分の立ち位置を見誤った結果と言えると思います。

そういう国は世界にまだまだ沢山有ります。

 

また、牛や豚は人間に食べられるために生きているのか、どうでしょう。

牛や豚の気持ちになったらとんでもないですね。

野菜の消毒によって小動物は天文学的な数で殺処分されています。

ベジタリアンは本当に自然に優しい行為なのか。たんなる欺瞞ではないか。

鯨を守ると言って活動しているシーシェパードなどは典型的な欺瞞に満ちた存在だと思っています。なぜイルカや鯨を守らなければならないのですか、牛や豚は守らなくて良いんですね。ノアの箱舟の考え方がそのままです。

世界経済は弱肉強食であり搾取の構造です。それは正しいのか。

アングロサクソンは自らの利益が確保出来なければ何をするか分かったものではありません。特にアジア、印度や中国系の人口は世界の半分近くになるでしょう。

どんどん力を持ってきたら白人にとっては大きな脅威ですね。

世界戦争が起きても何ら不思議ではありません。

現実にイスラム教の台頭はヨーロッパやアメリカにとっては脅威です。

また、共産主義は題目だけで実現している社会はどこにもありませんが、本当に人間にとって理想の思想なのか。中国やロシアはもう共産主義の国ではありません。

単に一部の権力者によって国民の自由と権利が抑圧された半資本主義的社会です。

むしろ日本の方がよほど共産主義的に思えるのは私だけでしょうか。

見方を変えるといろいろな発見があります。

 

では、ここで宗教の問題を考えてみたいと思います。

アッラーが絶対だと言う人、キリストが、マホメットが、etc. 

宗教の世界はまさしく視点を変えることが出来ない人が多くいます。

自分で自分をがんじがらめにしています。

今、自分が信じているものは本当に正しいものなのか、多角的、多面的に考える事が出来なくなります。

私が信じているものは絶対なのか、本当に正しいのか。

そして、本当に阿弥陀様は私を救ってくださるのか。

それを本当に私は信じているのか。

 

考えてみてください。

客観的な事実は 、私が毎日生きていることと、お念仏を申せと先人達に教えられたのでお念仏を忘れた頃にしているだけです。

生きている事実は、私が自覚しようが自覚しまいが、そのままあらゆる生命の犠牲のうえに立っています。それゆえの業は仏教の教えでは自分がすべて受けていかなければなりません。しかし、その業なるものを私は本当に信じているのでしょうか。

仏様は、その業によって三悪道に落ちると言われています。

そして、何を思ったか自分が幸せになる方法としてお念仏を自分が選んで称えていると思っています。

また、本当に法を誹っていないでしょうか。仏教によって私が救われることを疑っていることが法を誹っていることになるのか、ならないのか、どうでしょう。

法を誹っていたら阿弥陀様のご本願では除かれた人になります。

 

さらに、私が救われている、いないの判断は私がしていますが、この視点を阿弥陀様に移したらどうでしょう。

阿弥陀様は必ず救うと私に呼びかけておられます。お念仏を称えよと言われています。

その私は、どういう判断をしているかはそれぞれですが、お念仏を称えています。

阿弥陀からしたら称えさせているということになります。

阿弥陀様は、よくぞお念仏を称えてくれたと喜んでおられるでしょう。

そして、必ず救うぞと叫んでおられるのです。

我にまかせよ、必ず救う。

 

このお言葉に頭が下がります。 

 

しかし、考えれば考えるほど分からなく成ります。本当に正しいものは何なのか判断できる力が私にはありません。

そう思いながらもお念仏させていただいています。

自分の視点を阿弥陀様の視点に変えて自分を俯瞰してみてください。

最後は、よきひとの仰せに従い、阿弥陀さまにお任せするだけなのです。

有り難い事です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

感じて、ゆるす仏教

「感じて、ゆるす仏教」という本があります。

藤田一照師と魚川祐司さんの対談記録です。

藤田師は、禅宗の僧侶であり、アメリカで座禅の指導をされて来られた方です。

魚川さんは、テーラワーダ(上座)仏教をとおして自分の生き方を見つけられた方です。

ごくごく簡単に紹介していますので、本当のところはもっとしっかり調べないとこんな簡単な紹介は嘘になりますが、書くと長くなるので皆さんそれぞれで確認してください。 

この本の内容は、聖道門的求道(自力)をどう扱うかというところが問題になっているところが個人的に興味を引きました。

聖道門的求道は終わりが無く到達点も遠く感じるため、どこかで自分の力を手放す必要があるのではないかと言われています。

座禅をしながら自らの力で心を浄化しようとしてもとても無理なので一度その心を放してみるということを言われています。

本の中では「コントロール」を放棄して「ありのまま」を受け入れると言われています。

 

・・・以下、本からの引用です。

 

宋代の禅僧に青原惟信という人がおりまして、・・・以下のようなことを言っています。

上堂して曰く、老僧三十年前、未だ参禅せざりし時、山を見ては是れ山、水を見ては是れ水。後来親しく知識に見え箇の入処有るに乃至びては、山を見ては山に不是ず、水を見ては水に不是ざりき。

爾今、箇の休歌の処を得ては、依前らず山を見ては只だ是れ山、水を見ては只だ是れ水なるのみ。

 

・・・自分は禅の修行を三十年やってきたが、参禅する前は山は山に、水は水に見えていた。そうして修行をはじめて、ある程度の鏡智ができてくると、山を見てもそれは山で無く、水を見てもそれは水ではなくなった。いま、生死の問題にけりが付いたところから眺めていると、以前と同様に山を見ればただ山であり、水を見ればただ水である。

 

・・・「山をただ山と見ることが「休歌の処」なのであって、山が山に見えなくなるような、何か特別な状態を求め、それを「悟り」だと思い込んでいるのであれば、それは迷いの状態だ」・・・・

 

 

簡単に言えば自分を仏に任せて座禅をしてみると言うことです。

そして、自分の思いを離れたところから物事をみると新たなものが見えるけど、それは全てありのままの姿をありのままの見るということなのだと。

仏教でいう正見です。

こんな事が禅宗でも言われているのだなと感心します。

私の知り合いの僧侶は、「感じる」ことを大事にしています。

お念仏を称えなが自分の心と体の感じを味わいます。

いろいろ言葉が出てくるのですが、その行為自体がありがたく思えます。

一度試してみてください。

本の中では座禅の意義なども語られていますが、浄土真宗とかけ離れているかと言えばそうではなくて聞法を通して我が身を見つめるところなど似ていると思うところもあります。

また、自力的な心と他力的な心の変化も見えているようです。

こういう話は、とても高森顕徹会の「絶対の幸福」に凝り固まった頭では受け入れることができるものではないと思います。

悟りというもののとらえ方が我が心と体を観察するところから始まり、さらに感じる体験をしていくのです。自由な状態に心と体を持って行くというのは、へんな固定観念にとらわれている人には大きな壁のような気がします。

その心の状態を五二段の悟りと比較するのでなく、仏語の言わんとするところをそのまま受けてみることが大事なのかなと思います。

いずれにしても、禅宗も大乗教の一つですので行ずれば何かしら知らされるのでしょう。

たとえはよくないかもしれませんが、「好き」と「嫌い」の感情は、脳科学的には扁桃体というところから瞬間的に出てくるために、その理由が分からないそうです。

結局、後で理由付けを自分でしているようで、「好き」と「嫌い」はまったく理屈ぬきな感情の作用であり、そこに理由を求めることは無意味と言われています。

ですので座禅などを通して我が身の感情の動きを見ていくことで自分の姿を客観視することができ、まったく関係なくいろんな思いが次から次へと出てくるその源を探ることが出来かもしれないのです。

そしてそれに捕らわれること無く感じていく。

そのこだわる心を俯瞰し、突き放していく。

特にお念仏を称えているとき、どのように自分が思っているのか心の動きや身体に感じるものを観察していくと面白いと思います。

 

そう言えば、禅宗曹洞宗)の葬式の時、「ゆるす~」という言葉が何度も出てきます。

私の罪、咎を許し、仏に帰依しなさいと言われているように聞こえます。

 

私の罪、咎に懺悔し、阿弥陀さまにお任せする、これしかないですね。

 

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

自分の信心は間違いない!?

高森顕徹会を退会後は、ご信心が早く欲しくて欲しくて仕方ありませんでした。

どうしたらご信心がいただけるのがあちこちのご法話を聞きに行ったり、御著書を読みあさりました。

とにかく早くハッキリしたいと思っていましたが、知らされたのは自分の力ではなんともならない世界だったということ、そしてすべて阿弥陀様とのご縁だったということに気付かされたときから、自分の周りの世界が変わって見えてきました。

しかし、しばらくして何も変わっていない自分に気付き、どうしようもない思いになってきました。

結局、悪業しか出来ない、何一つ善行など出来ない自分に阿弥陀様のお念仏が届いていることが不思議でしかたありませんでした。

そうこうしているうちに何人かの退会者と話すご縁がありました。

彼らと話していると以前の私と同じように迷っているのが分かりました。

なんとかしなければと思いあれこれ話をしました。

当然、本人もなんとかしなければと思いあちこち聞いて回ります。

すると不思議なことにご信心を頂いていく人が現れてくるのです。

不思議としか言いようが有りません。

そして皆、一様に一味の世界を語り出すのです。

これはとんでもないことでした。

そのうち自分には何か不思議な力があるのではないかなどど自惚れ出します。

さらに自分の信心は間違いないと思い込みます。

・・・・・・・・・・・・

阿弥陀仏は絶対真実だ、それが今自分に届いている。

善も悪も何一つ分かっていないこの自分という存在も事実。

真実のかけらもないのが自分。

これが真実信心だ。

仏凡一体だ、南無阿弥陀仏

・・・・・・・・・・・・

しかしです。

頭がぼけたら南無阿弥陀仏さえ忘れてしまうかもしれません。

それに本当に阿弥陀様を信じているのか分からなくなりました。

法話を聞かせていただいても、有り難いのですが、さて後生はと考えるとこちらには何も確かなものは無い。

自分はそんな確かな頭脳の持ち主なのか。いやいや、いい加減な能力しかありません。

それどころかこの頭は腐っている、迷っている、信用できない。

疑問がどんどん広がっていきます。

 

信心とは何か、本当に分からなくなります。

信心よりも今の生活をきちんとしなければなどと、今生第一主義になっています。

楽しく毎日過ごしたいと思うのです。

美味しいものが食べたい、財産が欲しい、楽しく一日を過ごしたいなどなど物心ついたときから何一つ変わっていません。

どこどこまでも煩悩具足の凡夫です。

 

確かな信心なんて私にはどこにもありません。ちょっと仏教の知識がついただけです。

それまでがひどすぎただけですので、皆さんに教えて頂いた本当の阿弥陀様の御本願をお話しすれば、後は阿弥陀様のお力で信の花が開いていくだけなのです。

最近は、そう思っています。

赤尾の道宗の言葉が今に響きます。

 

かへりみすこしやうの一大事ゆたんしてくれ候な。わかこころへ(下段に現代語訳等)

 

それでも以前の自分には戻れません。

以前の自分がどれだけ暗闇にいたのかさえ忘れてしまっています。

自分の後生、本気で心配していたのか今では怪しく思います。

不思議ですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

尾道宗二十一箇条覚書

現代語訳
二一、思えば、嘆かわしいわが心だなあ。後生の一大事を成し遂げ得ることならば、一命を ものの数 とも思わず、善知識の仰せなら、「何処の果て へ も 行け」と申されても、背きますまい という決心をし、また、唐や天竺まででも、仏法を求め、お訪ね申したい と 思う覚悟でいるのに・・それ程までに 思い切ったわが心 であるのに、それに比べてみれば、如来様の仰せに従い、一心一向になって法義をたしなむという事は、さて さて たやすいことではないかい。よくよく考えてくれよ、わが心よ。この世は、しばらくの仮の世で、久しくおれる所ではない。そうしてみれば、この世においては、飢え死に しても かまはぬ、また、凍え死に しても かまわぬ。それを省みずに、ただ 後生の一大事に油断をしてくれるな。わが心よ。返す返すも、今 申すところに、違わず、わが身を責めて、たしなみぬいてくれよ。どこ どこまでも 国や所の掟 や 規則に背かず、しかも内心に一念帰命の信心の頼もしさ、ありがたさ を しっかり持って、外相は、深く謹むように仕向けてくれよ。わが心よ。
 
原文
二一 あざましのわかこころや、こしやうの一大事をとけへき事ならは、いちめいをももののかすともおもわず、おうせならは、 いつくのはてへなりとも、そむき申ましきしんちうなり。又たうてんちく(唐天竺)へなりとも、もとめたつねまいらせ候はんとお もふ心にてあるものを、これなとはおもひきりたるにか心たてあるに、おうせにしたかい、うしろくらくなくほうき(法鏡)をた しなみ候はん事は、さてやすきことにてはなきかとよ。かヘすかへすわかこころこんしやうは、一たんなり。いまひさしく もあるへからす、かつひてもし(死)に、又はここヘもしね、かへりみすこしやうの一大事ゆたんしてくれ候な。わかこころへ かへすかへすいま申ところちかわす、身をせめてたしなみをきり候へく候。かへすかへす御おきて、はつと(法度)をそむかすして、 しかもないしんには、一ねんのたのもしさ、ありかたさをたもち候て、けさう(外相)にふかくつヽしめ申てくれ候ヘ。わか心ヘ。