とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

あなたの白道 6

問題のまとめ

今回の記事は嶋田さんの怒りですね。
高森さんのご信心が本物かどうか分かりませんが、阿弥陀さまのご本願に目覚めていながら、他の人の後生より自分の煩悩を優先することはあり得ないと思います。(追加:ちょっと言い過ぎでしたが一人でも多くの人に分かってもらいたいと思うのが普通だと思います)
嶋田さんは高森さんにご信心が無いと言われています。
実は高森さんが若い頃に布教したとき何人かの方がご信心を頂いています。
その方のお一人にたまたまお話を伺ったのですが、高森さんは説法するだけでご示談や座談はなかったそうです。
いま思うにご信心が無くても御法話が正しければ、聞く人は目覚めることがあると思います。
本願寺の勧学と言われる方の中にもそういう方がいると知り合いの僧侶から聞きました。
やはり最後は法に向かうべきなのだと思います。

阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

タイトル:あなたの白道
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http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

追加:問題のまとめ ② を公開しました。
これで最後です。
何度も読んでいただきたく思います。
皆様、よろしくお願いします。

あなたの白道 5

退会者3名の告白手記

 

今回は体験記です。

三業で信心を計ることは出来ないと顕正新聞などに書かれていました。

また、体験談を強調するのは嘘のご信心だと非難もされていました。

そう言いながら高森顕徹会は会員向けにはハッキリする体験を強調しています。

外と内を巧妙に使い分けているのです。

阿弥陀さまに救われれば分かるのです。

そこには程度の差こそあれ必ず人それぞれの体験があります。

今回はたまたま私も入っていますが沢山の方の体験談が他にも沢山あります。

本願寺出版等にも沢山あります。

世界は広いんです。

その事に気付いてほしいと思います。

ご意見等あればお願いします。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

タイトル:あなたの白道
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http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

 

追伸:今回は私も書いていますので さよなら親鸞会 より先に私が公開します。

 

あなたの白道 4

いよいよ会長への手紙の内容です。

結構驚くことが書いてあります。

とにかく読んでみてください。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

タイトル:あなたの白道
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http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

 

追伸:第4章②も公開しました。

あなたの白道 3

今回は速いペースで更新されます。

まだまだ、続きます。

内容は 仏になる 核心に入ってきました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

追伸:第3章の②も公開しました。

 

タイトル:あなたの白道
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http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

 

あなたの白道 2

第二章です。

読んでみると昔の高森会長のご法話によく似ていますが、高森会長の間違っているところと正しいところが理解できるかどうかですね。

一読して分かる人はかなりマインドコントロールが抜けていると思います。

では、皆さんよろしくお願いします。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

タイトル:あなたの白道
URL:http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

 

 

あなたの白道

既に さようなら親鸞会 でご紹介がされていますが、嶋田さんが命を削ってまで書こうとされていました 「あなたの白道」 を以下のサイトでもご覧になれますのでご紹介します。
まずは、第1部からですがたいへんな人生をされていますね。
今更ながらに驚きます。
私の感想はともかく、嶋田さんから皆さんに読んで頂きたいと言われていました。
皆さん、よろしくお願いします。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

タイトル:あなたの白道
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http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

千日回峰行と神通力

久しぶりに記事の更新をします。求道者Kさんに山も山さんのご法話の感想を求められていましたが、ちょっと違った記事になったことご容赦ください。

 

先日新聞のニュースに一山善住院住職、釜堀浩元さん(43歳)が千日回峰行を萬行されたと報道されました。
誠にすばらしいことで今の時代貴重な方だと思います。
大行満大阿闍梨という称号を頂き、生き仏との扱いになるそうです。
生き仏の扱いは別として、千日回峰行についてはいろいろな本で書かれています。
すべての感覚が敏感になるとか、不思議な体験をいくつもするとかありますが、お釈迦様の時代には修行によって神通力と言われるものを体得すると言われています。

神通力には六神通があります。
神足(じんそく)通 - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
天耳(てんに)通 - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
他心(たしん)通 - 他人の心を知る力。
宿命(しゅくみょう)通 - 自分の過去世(前世)を知る力。
天眼(てんげん)通/ 死生智(ししょうち) - 一切衆生の過去世(前世)を知る力
漏尽(ろじん)通 - 自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。

沙門果経には修行によって得られる果報について詳しく書かれています。

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釈尊がマガタ国王に仏教の沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)の果報を問われ、
まず戒律順守によって得られる果報、
次に止行(禅定、四禅)によって得られる果報を次々と述べた後に、
その先の観行(四念住(四念処))によって得られる果報を、以下のように述べています。
観行による果報に六神通があります。
以下、仏教修行者の果報をのべます。

○「持戒」「戒律」の果報

釈尊はまず、下僕や農夫であろうと、
身体・言葉・心(身口意の三業)を制御し、最小限の衣食に満足し、閑居を楽しんで日を送れることを述べる。

更なる果報を問われ、波羅提木叉(具足戒)による制御により、正しい行いや托鉢の場所を保持し、わずかな罪にさえ恐怖の念を抱き、自己を鍛錬し、正しい身体・言語活動を身に付け、清浄な生活を営み、感覚器官を外界から防御し、思慮深く、自覚的であることを身に付け、満足すると述べる。そして、比丘が守る具体的な戒について述べ始める。
殺生を捨て、武器を捨て、控えめで、慈悲心が厚く、全ての生物の利益をはかって哀れみを寄せる。
与えられないものを取ることを断ち、与えられたものだけを取り、盗み心を持たない。
純潔でない生活を捨て、愛欲を断ち、淫らな行いを断つ。
嘘を断ち、真実を語り、正直であり、世間を欺かない。
中傷を断ち、和合を推進し、協調を生み出す。
粗野な言葉を捨て、穏やかで、耳に快く、慈愛に満ち、心に訴え、優雅で、多くの人を喜ばせ、魅了するような言葉を語る。
戯言を捨て、ありのままのこと、意味のあること、真理の教え、戒律、心に明記されるべき言葉を、語るにふさわしい時に、比喩を混ぜながら、句切りをはっきりと、意味が分かるように語る。
種子・草木を傷つけることを断つ。
不要な貯蔵・享受を断つ。
娯楽を断つ。
賭博・遊びを断つ。
高大な寝台を断つ。
装飾・化粧を断つ。
低俗話を断つ。
言い争いを断つ。
使い走りに携わることを断つ。
ペテン・饒舌を断つ。
呪術を断つ。

以上のような戒律によって、自己制御することを述べた上で、更に、どのように「感覚器官を外界から防御し、思慮深く、自覚的であることを身に付け、満足する」のかについて解説していく。
眼でものを見る時、全体にも細部にも囚われない。耳、鼻、舌、身体、意思(以上、六根)においても同様。
あらゆる動作において、自覚的に行動する。
どこであろうが、最低限の衣食だけで満足する。

そして最後に、住についての説明も加わる。
森・木の根元・三学・峡谷・岩窟・墓地・藪地・露天・藁の積み重ねなど、人里離れた所に安息の場を求め、托鉢から帰ってきて食事が終わると、正しく足を組んで結跏趺坐し、身体を真っ直ぐにして、心を集中して座る。

こうして、戒律・生活水準での果報の説明が終わり、瞑想の果報についての話に移る。

○「四禅」の果報

瞑想については、まず、「五蓋」の煩悩を取り除くところから話が始まる。
五蓋が取り除かれていることを自己の中で確認すると、歓喜、喜悦、軽安、安楽が生じ、三昧を得る。
そして、四禅の説明に入る。

欲界の愛欲・不正を離れ、その喜び・安楽、また観察・考究を伴った、「初禅」に入る。喜び・安楽で身体を充たす。
観察・考究をやめて、「二禅」に入る。内心における平穏(内等浄)、心の安定(三昧)から生じる喜び・安楽で身体を充たす。
喜びから離れ、「三禅」に入る。喜びから離れた安楽(離喜妙楽)で身体を充たす。
安楽も断ち、苦も断ち、「四禅」に入る。苦楽から離れた清浄な心で身体を充たす。

こうして次の洞察の話に移る。

○「観行」の果報「六神通」

上記の四禅に続き、比丘が知による洞察に心を傾ける観行に入り、以下の話が続く。
身体の観察(身念処)。この体は形を持ち、四元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常でなく、衰退・消耗・分解・崩壊するのがその本質であると知る。
思考から成り立つ身体を生み出す。物理的身体から、四肢感覚を備えた別の身体を生み出す。
(上記の身体を用いて)様々な超能力(神通)に心を傾ける。
 一から多、多から一になる。
姿を表したり、隠したりする。
塀や城壁や山を通り抜ける。
大地に潜ったり、浮かび出たりする。
水の上を歩く。
空中を足を組んだまま飛び歩く。
月と太陽に触る。
梵天の世界に到達する。

神のような耳(天耳通)に心を傾ける。神々・人間・遠近問わず、どの音も聞くことができる。
他人の心を洞察する知(他心通)に心を傾ける。他人の心を洞察して知る。 情欲に満ちた心を、情欲に満ちた心として。情欲を離れた心を、情欲を離れた心として。
憎しみを抱いた心を、憎しみを抱いた心として。憎しみから離れた心を、憎しみから離れた心として。
迷いのある心を、迷いのある心として。迷いを離れた心を、迷いを離れた心として。
集中した心を、集中した心として。散漫な心を、散漫な心として。
寛大な心を、寛大な心として。狭い心を、狭い心として。
平凡な心を、平凡な心として。無上の心を、無上の心として。
安定した心を、安定した心として。安定していない心を、安定していない心として。
解脱した心を、解脱した心として。解脱していない心を、解脱していない心として。

過去の境涯を想起する知(宿住通)に心を傾ける。1、2、3、4、10、100、1000、10000の生涯を想起する。幾多の宇宙の生滅を通して想起する。
生命あるものの死と生に関する知(死生通)に心を傾ける。神の眼によって、因果・輪廻の様を知る。
煩悩の滅尽に関する知(漏尽通)に心を傾ける。 「苦しみ」「苦しみの原因」「苦しみの消滅」「苦しみの消滅の道」(四諦)を知る。
「解脱」を知る。
「再生の遮断」を知る。
「修行の完遂」を知る。


こうして釈尊が、仏教における沙門を果報を語り終わると、アジャータサットゥ王は感嘆し、在家信者になることを誓い、帰っていく。(wikiからの引用)

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以上のような方法により悟りを獲ることが出来るようでありますが、実際にはなかなか難しいようです。それでもいろいろなところで体験された方が不思議体験を沢山されています。
瞑想の方法についてはテーラワーダ仏教教会のスマナサーラ師(上座仏教)が有名ですので興味のある方、どうしても体験が欲しい方は一度のぞいてみると良いかもしれません。
また、ちょっと怖いと思う方はホームページに瞑想の仕方が書かれていますのでそれを参考にされてみるのも良いでしょう。
ただし、精神疾患(パニック症候群など)のある方などはやめた方が良いと書かれていますのであくまで自己責任でお願いします。
千日回峰行よりは試してみようかと思えるかもしれませんが、不思議体験をしたところで南無阿弥陀仏をそのまま聞いたことには成りませんのでご注意ください。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 


以下、語句の説明です。

 

○四禅(しぜん)とは、初期仏教で説かれる禅定の4段階のこと。三界の内の色界に相当し、この言葉は、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる。禅天の意味で用いる場合は、初禅天から三禅天まではそれぞれ三種の天をとり、四禅天については外道天などを含む九種の天をとって合計で十八禅天あるとする。ただし、四禅天には諸説あって合計で十六禅天とすることもある。

初禅 --- 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。
第二禅 --- 尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。
第三禅 --- 喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。
第四禅 --- 楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。

 

ヴィパッサナー瞑想(「観行」の一つの方法)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想である。ヴィパッサナーは「観察する」を意味する(毘婆奢那、毘鉢舎那と音訳され、「観」と翻訳されるサンスクリットのヴィパシュヤナー [vipaśyanā] に相当するパーリ語)。アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる。

仏教において瞑想(漢訳「止観」)を、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方がある。サマタ瞑想は精神集中であり、高ぶった心を鎮める手段でもある。ヴィパッサナー瞑想は洞察(智慧)であり、沈んだ心を活気づける手段でもある。通常、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想はペアで修習される(止観行 = 瑜伽行)。ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想は包摂概念でもあり、様々な瞑想状態もしくは瞑想法は、このどちらかかあるいは両方に含まれる。

スリランカ・東南アジアの上座仏教では、止は普通のお寺に住んでいる比丘たちが行う瞑想法で、心を鎮めるものであり、観は止よりずっと高度であり、諸行無常諸法無我一切皆苦という仏教的真理を洞察して、涅槃寂静に達しようとするものであるとされている[5]。これは伝統的に、森林にこもって瞑想に専念する森林僧が行うものである
ヴィパッサナーとは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である。一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想とが双修され、この点は南伝仏教でも北伝仏教でも変わらない。

伝統的に上座部仏教においては、サマタ瞑想を先に修行して、それからヴィパッサナー瞑想へと進むという階梯がとられてきた。ヴィパッサナー瞑想を行なうためには少なくとも第一禅定(最高で第四禅定)に入っている必要があるとされ、そのためにはサマタ瞑想を行なわねばならないのである。

これに対し、最初からヴィパッサナー瞑想のみを中心に修行するという道も、少数派ながら古くから存在した。これは、ヴィパッサナー瞑想を行うことによって、自然に第一禅定がもたらされるという事実に基づいている。またより重要な問題点として、サマタ瞑想にあまり重点を置きすぎると、それによってもたらされる三昧の快楽に耽ってしまいがちであり、なかなか悟りが開けないという点も指摘される。ブッダの悟りあくまでもヴィパッサナー瞑想によって開かれたとする観点による。

 

○五蓋(ごがい、パンチャ・ニーヴァラナーニ)とは、仏教における瞑想修行を邪魔する、5つの障害、つまり5つの煩悩の総称。蓋(がい、ニーヴァラナ)とは文字通り、認識を覆う障害のこと。

なお、これと似た概念として、生存者を欲界へと結び付ける5つの束縛としての五下分結(ごげぶんけつ)という概念もある。下分(げぶん)とは、下の領域すなわち欲界のこと。結(けつ、サンヨージャナ)とは「束縛」のこと。

貪欲(とんよく) - 渇望・欲望
瞋恚(しんに) - 怒り・憎しみ
惛沈・睡眠(こんちん すいめん) - 倦怠・眠気
掉挙・悪作(じょうこ おさ) - 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔
疑(ぎ) - 疑い

 

○『沙門果経』では、出家者が戒律を収めた後、初禅に入る前の段階として、この五蓋の除去が言及される。この五蓋が取り除かれることで、その人には歓喜・喜悦、身体の軽安(きょうあん)・安楽・三昧が生じ、初禅へと入っていく準備が整うと述べられる。