とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

我々は愚かである。そして、私は迷っている。

釈尊が阿難に仰せになった。

「 さて、無量寿仏の国に生れる人々はみな正定聚に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものはいないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる 」

 

中略

 

釈尊弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになった。 

無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。

 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。

 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。

 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。    

また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品品に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。

 そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。

 世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。また持ちものは互いに融通しあって、むさぼり惜しんではならない。そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはならない。争いを起して怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。

 人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっておリ、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。

 それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。

 このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることや、人に恵み施せば福が得られることを信じない。善悪因果の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。    

生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常の道理である。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。

 こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかリである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。

 あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。そうして長い年月を経ても相手への思いがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがない。心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切ることができない。

 こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうするすべもない。世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでいる。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのである。これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いである。

 このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである。ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、とつぜん命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生れ変り死に変りして、何千億劫もの長い間、浮び出ることができない。その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことである 」

 

中略

 

釈尊弥勒菩薩に仰せになる。

  「 無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」

 釈尊が仰せになる。

  「 わたしは今、すべてのもののためにこの教えを説き、さらに無量寿仏とその国土のようすを残らず見せた。この上にまだ尋ねたいことがあるなら、ためらうことなく問うがよい。わたしがこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。やがて将来わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう」

 釈尊弥勒菩薩に仰せになった。

  「 如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。そうであるから、わたしはこのように仏となリ、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい 」

釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、みなこの上ないさとりを求める心を起した。一万二千那由他の人々が清らかな智慧の眼を得、二十二億の天人や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、さまざまな功徳を積んでその身にそなえ、やがて仏となるべき身となったのである。

 そのとき、天も地もさまざまに打ち震え、大いなる光明はひろくすべての国々を照らし、実にさまざまな音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。

 釈尊がこの教えを説きおわられると、弥勒菩薩をはじめ、さまざまな世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集うその他すべてのものは、その尊い教えを承って、だれひとりとして心から喜ばないものはなかった。

無量寿経 下巻

 

冒頭の阿弥陀仏の御本願一部と「悲化段」 の冒頭部分及び「智恵段」の最後であるが、親鸞聖人は「悲化段」のあとの五悪段を含めあまり教行信証に引用されていない。後に中国で付け加えられたと考えられているからであろうか。

しかし、この部分については個人的には響くものがあると思う。現代の新聞や週刊誌に書かれている内容はすべてこの通り「愚かで人の道を外れている」。

仏教が廃ると世の中が悪くなるのではないかと本当に思うのである。

南無阿弥陀仏しかない。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

病は浄土への便り

新年早々風邪を引いてしまいました。

病になってお浄土が近づいたと喜べるかと言えば、全くの逆で少しも喜べません。

親鸞聖人もおっしゃているとおりです。

 

歎異抄第九条

 また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

現代語訳

また急いで浄土へ参りたいというような思いがなくて、ちょっとした病気でもすると、もしや死ぬのではなかろうかと心細く思うのも煩悩のしわざです。

 

何が煩悩か知りませんが、南無阿弥陀仏の南も出てきませんでした。

今もかなりしんどいですが、南無阿弥陀仏と言えるくらいになりました。

だからどうしたと言うわけではありませんか、私というものがらはそんな程度なんてすね。新年早々残念。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

善導大師の二河譬について

 善導大師の二河譬について個人的な感想です。

善導様がどうして二河譬を著されたのか。

当時の仏教は当たり前ですが、聖道門、それも天台の智顗が亡くなって暫くして善導様が生まれられています。

つまり、善導様が生まれたときはバリバリの聖道門の世界です。

ちょっと後には印度まで行った玄奘三蔵様もいらっしゃるのです。

そんな中、道綽善師を訪ね浄土門にはいります。それまであちこちを遍歴していたようです。

また、善導様はご存じの通り布団を敷いて寝たことがないくらい経典の研究などをされています。

その中で浄土門を唱えた善導様は聖道門と今の浄土門の中間を行くような存在だったのではないかと思うのです。

念仏行を行いながら三昧の行も行う。

また、善導様のご教化がすさまじく、法然上人と同じように一般ピープルにもお念仏を勧め、中には善導大師の教えのすばらしさのあまり自殺するものまで現れました。

どうしてそうなったのかはよく分かりませんが史実として残っています。

阿弥陀仏を体得せられ思い残すことは無いと自殺されたという話も聞いたことがあります。

ですから聖道諸衆から非難もされたことでしょう。

それでも長安の都にお念仏が響き渡っていたと言われますから相当広まっていたのでしょう。

余談ですが映画「少林寺」の中でも修行しながらお念仏を称えるシーンがありますからお念仏は中国でも一般的なのかもしれません。

そんな中、善導様は人々を導くために譬えを持ってお示し下されたのが二河譬ではないのかと思います。

お念仏に救われたなら死んではいけない、あっという間の人生、そのままお念仏を称えながら人生を全うせよと。

信心の行者はお念仏を唱えながら生きよと。

また、聖道諸衆に対しては、二河譬の真意をくみ取ってくれと願われたのではないか。

阿弥陀仏は諸々の仏様の内のお一人という考えが当たり前の時代です。

たぶん、善導様の時代でもある程度の悟りを開かれた方は沢山いらっしゃったと思います。

そういう方を誹るでも無く、根機の劣ったものを救う為の教えを広めるための二河譬ではなかったのではないでしょうか。

そう思うといろいろなとらえ方が出来ると思いますが、善導様の御本心は専修念仏しかありません。

そして、そこは三定死を通して阿弥陀様にまかせよと自他力廃立をお示し下さったとしか思えないのです。

そこを読み取ってくれと私には聞こえます。

 

あくまで、私の勝手な味わいです。

 

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覚悟の力(本当の行)

「覚悟の力」

宮本祖豊師が書かれた「覚悟の力」という本を読みました。

  宮本祖豊師 十二年籠山行満行者 比叡山延暦寺円龍院住職、比叡山寺居士林所長

22歳より比叡山で修行を始め、その後30歳近くで好相行(仏を見るための行)を行います。
三千の仏様の名前を称え五体投地を行い讃談することを仏様が見えるまで行を行う。
普通は3ヶ月で満行になると言われるところ、2回のドクターストップを経て三回目にして阿弥陀如来と見(まみ)えます。
光り輝く阿弥陀如来が目を開けても、閉じても自分の前に生きてましますのです。
それまで3年の時間が過ぎています。

これを読んだとき、既に大乗の教えを通り越しているのではないかと思いました。
韋提希夫人と同じじゃないか。
目の前に阿弥陀如来が現れたのです。

この行は一日15時間ほどかかるそうです。そして、行の間は眠ってはいけないそうです。とにかく行を行い続けるのです。
阿弥陀様の御本願に説かれている第19願の行はこういう行なのかもしれません。命がけの行です。

それから籠山行と言われる12年にわたる行を行います。
詳しくは書けませんが最澄師のお世話をするのです。比叡山では最澄師は今も魂というか精神というか、心が今も生きて比叡山におられると考えられています。
浄土院というお堂に籠もり一切の世俗とのつながりを絶ち、命がけで行います。
それを13年間行います。本来12年で満行なのですが後継者が現れないと、いつまでも続けることになります。
当たり前ですが365日、一切休みはありません。
倒れたときが休むときです。
目的は、ひたすら自分の精神レベルを向上させるためにです。
千日回峰行は籠山行から生まれた行の一つだそうです。
興味がある人は是非読んでみてください。


我が身のお粗末なこと、穴があったら入りたいくらいです。

とにかくすさまじい修行です。
修行の間、色々な不思議を感得します。
何キロか先の音が聞こえたりもします。
色々な幻覚も沢山現れてきます。
オーム真理教などなまっちょろい修行です。
本当の行とはこういうものなのだと驚きました。
本人は命がけで今の瞬間を生きています。
そして、行を行って一切の後悔は無いと言い切ります。
行を行い自分が宇宙と一体になる体験もします。
ありとあらゆる体験をしながら、少しも悟りに近づいたとは思っていない、とにかく死ぬまで修行といわれ喜々とされています。
今時、このような方がおられたのかと思います。

そして、自分が何が出来るのか今も考えておられます。
人のために何が出来るのかと。
さらに、自分という者は何なのかを問い続けているのです。

親鸞聖人始め先達方はこれらの行を当たり前のように行ってこられたのでしょう。
それでも悟りを得ることが出来なかったのはどういうことなのか。
考えるにもっともっと深いところの自分と対峙しておられたのでしょう。
だから、愚痴の法然坊とか愚禿親鸞とかの言葉が何も違和感なく出てこられたのだと思います。
とても聖人方のお心を知ることは出来ません。
あらためて先達方のご修行を知りたいと思いました。

一方、私は何を知ったのか。
あほか、間抜け、何にも分かっていない。
人間界の事もさっぱり分かりません。
無智蒙昧と言っていいでしょう。

浄土真宗という教えは本当に凡夫のための教えであり、それ以外では絶対に救われない私の為の教えですね。

今の瞬間も行をされている方が比叡山におられることを思うとすごいことです。
阿弥陀如来の本願、19願とはこういう行を言うのであって、高森顕徹会でいう19願とは全く異なります。
知らないとは言え仏教の教えをもてあそぶカルトな団体と言えます。
残念なことです。

今、現に南無阿弥陀仏が私に届いてきて頂きありがとうございます。

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枠を壊す

枠を壊すとよく言われます。
意味は自分の考え方や物(者)の見方、あるいは行動を変えてみることです。

朝起きて必ずすることの一つを変えることでも大変です。
たとえば、朝、顔を洗って、朝食を食べた後、歯磨きをするとします。
その順番を変えてみたり、散歩を加えてみたりすることです。
そんな些細なことでさえなかなか変えることが出来ません。
一度染みついた習慣はその人の人格の一部でもあります。
無くて七癖と言われるように人にはそれぞれの行動においての個性があります。

まして、行動だけで無く考えていることや考え方を変えるとなるとこれは本当に大変だと思います。

人には自己保身の本能があります。
責められると必ず防御態勢に入ります。
最近は子供の頃から周りに気を遣って生きて行かなければなりません。
KY(空気読めない)などどレッテルを貼られたら大変です。
そんなレッテルを貼られると子供なら死にたくなるでしょう。
だから周りから責められないように気を遣ってほとんどの人が生きています。

人口のほとんどが農業に従事していた時代なら多少性格や行動が変わっていようが関係ありません。
しかし、現代の環境で大人になるには、心臓を鍛えるか、うまく立ち回るか、目立たないようにするかを選択していかなければなりません。
そうやって自分を守るために自分に枠を造っていきます。

ですから、行動や考え方の枠を壊すのは本当はとんでもなく難しいことなのだと思います。

個人的な話ですが、私も自分のある枠(考え)を壊すことがなかなか出来ませんでした。
今でも難しいなあと思っています。
あるとき、親から言われた言葉にズーッと捕らわれて、それが原因で腰痛が起きたことがありました。
結構長く腰痛が続き仕事にも支障が出るほどでした。
ところが、ある本を読んで目から鱗が落ちる気がしたことがありました。
ある本とは「ドクターサーノのヒーリングバックペイン」という本です。
簡単に言えば、腰痛の原因は骨の異常では無いということが中心に書かれている本です。
興味がある方は読んで見てください。
腰痛の原因は骨の異常だと思っていたが、骨の異常では無い、痛みを学習する脳が原因なんだと書かれた本を読んで、
その時、初めて「腰痛の原因は骨ではなく、ストレスが原因だったんだ」ということに気付かされたのです。
一般的に腰痛は骨の異常が原因と言われます。
しかし、腰痛の原因がストレスから来るなどとは思ってもいなかったのです。
そういう意味でも私は、腰痛の原因は人類が二足歩行をしたときからついてまわる運命であると思い込んでいました。
腰痛について自分で枠を作っていたのです。
ところがそうではないと書かれていたのです。

親からなんとかしてくれと頼まれ、なんとかしようとしました。
当たり前なのですが、他人から言われたことなら無視できますが、親から言われたこととなると無い知恵絞って何とかしようとします。
何ともならないことを親から言われたのです。それを何とかしようとしていましたが、やはり何ともならないことは何ともならない。
駄目なものは駄目なんですね。
他人から見たら、さっさと諦めれば良いのにと思うようなことでも、親から言われたことは必死で守ろうとしていた自分に気がついたとき、
自分で自分に枠を作っていたなと思いました。それがストレスの原因となり、腰痛を引き起こしていました。
その枠が外れたとき、腰痛が無くなりました。

まあ、私の場合の話ですので皆さんはもっと簡単にいろんな問題をクリアーしているかもしれません。
しかし、自分でいったん作った枠は、枠と意識せずに生きているため、その枠に縛られてがんじがらめになっている人が多いような気もします。

最近読んだのですが、夫婦二人で自転車に乗って世界一周をしたブログがあります。「二人四輪」というブログです。
読んでいると一緒に世界を一周している気になります。
とても楽しい記事なのですが、行く先々でいろいろなトラブルに巻き込まれながらも世界一周を成しどけます。
すごいことだなと思うのですが、かれらが世界一周をして「ものの見方が広がった」と言われています。
他にも沢山、チャリダー(自転車旅行者)のブログがあるのですが、同様に「ものの見方が広がった」と言われている人がいます。
これは「枠を壊す」と同じだなと思いました。

また、「ものの見方が広がった」と言うのは言葉にすれば簡単な意味でしょうが、一種の目覚めでもあるなと思いました。
どの程度広がっているか分かりませんが、やはり深い言葉だなと思います。

「枠を壊す」のは本当に難しいことです。
しかし、仏教の教え、南無阿弥陀仏は根底から私の考え、枠をぶち壊してくれます。
どえらいものに出会わせて頂いたものです。

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映画「マトリックス」と「アントマン」

マトリックス」と「アントマン」という映画があります。

マトリックスという映画は、1999年の映画です。

知る人ぞ知る有名な映画です。

内容は簡単に説明しますと、人間はコンピューターに支配され発電機として人工的に養殖されています。人間の生体エネルギーが発電をし世界を維持しています。

一人一人繭状のカプセルの液体の中で培養されて生かされています。

そして、意識を操作してバーチャルな世界(簡単に言えばテレビの世界)に生きています。

しかし、そのバーチャルな世界の違和感に気付く事により本当の自分の姿に気がつきます。気付いたとき、目が覚めたときバーチャルな世界では生きていけなくなってしまいます。

目が覚めた人は、もう元の世界に戻れない。

そして、コンピューターと戦います。

今の自分は本当の自分なのか、本当の自分はどこにいるのか。

本当の自分は今の自分とは違う。

まるで仏教の空(くう)に目覚めた人のように思います。

迷っていることに気付き自分の世界が異なって見えてきます。

 

 「アントマン」は2015年の映画で、身体が大きくなったり小さくなったりすることが出来る映画です。

小さくなってアリを操りいろいろな問題を解決していきます。

その中で、ある女性のアントウーマンが小さくなり続けることになります。

どんどん小さくなっていく、それも際限なく。

これは果てが無い世界です。

これ以上小さくなることが出来ない世界があるのか、無いのか、物理学の問題ですが答えはありません。

反対に宇宙には果てがありません。

小さい世界に果てが無く大きい世界に果てが無い。

 

さて、我々の生きている世界はどういう世界なんでしょう。

三次元に時間軸を加えて4次元の世界に住んでいますが、時間をさかのぼることは出来ません。そして、常に変化しています。

その世界において物質はどういうものなんでしょうか。

物質の根源は分かっていません。

当然、命についても分かっていません。

一つ分かっているのは、私は生まれて必ず死んで行くことです。

そして、お釈迦様のお言葉どおりとすれば、次の世界に生まれていくと言うことです。

 

今の自分の生きている世界は、どういう世界なのか全く分かりません。

この世のことは何も分からないと言うことに気付いたとき、なんと不安定な世界に生きているのかが分かります。

そして、すべての現象が映画のように流れ去っていきます。

不思議な感じがすることがないでしょうか。

果てしの無い世界に生き、今の自分の満足の為に生きた先には何があるのか。

考えてみるととんでもない世界に生まれてきたなと思うのは自分だけでしょうか。

仏様から見たこの世界はどのような世界なのか。

すべてはつながって縁起によって変化し続けていると言われます。

生死一如、生も死も無いとも言われますが、さっぱり分かりません。

 

映画の原作者や脚本家はどれだけ考えているか分かりませんが、自分が生きている世界の分からないことを題材にしていることが結構あると思います。

本人達は意識していないでしょうが、仏様が働いておられるのではないかと思うこともあります。

 

お釈迦様がお生まれになられなかったら、六道を始め悟りや阿弥陀様のことも分からずじまいだったのでしょうね。不思議不思議の他は無し。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

信心決定は、下の心(阿頼耶識)が「ハイ」と聞くことなのか。

園児さんからコメントを頂きました。それについて考えてみました。

・・・・(高森顕徹)会長が講演で人形の絵を書いて頭に丸を書いて「上の心」として、お腹の中に丸を書いて「下の心」としたものです。
「上の心」は人間の頭脳で、「下の心」は「逆謗の屍」である本心(阿頼耶識?)であると。
「上の心」である頭ではわかってもこの「下の心」が仏教を聞こうとせず、信心決定が
出来ないというのです。
聴聞の聴は「上の心」が聴くこと、聞は「下の心」が聞くことという説明もありました。
聴聞を重ねていくといつか「下の心」が「ハイ」と聞く瞬間が生涯に一度あってそれが
信心決定の瞬間であるという説明でした。
・・・・・信前にある「〇〇が分かりません」「〇〇と思えません」という心が「ハイ」と返事して分かるようになるものでしょうか?
それとも「〇〇が分かりません」というままで(つまりは「ハイ」という瞬間がなく)救われるのでしょうか?・・・・・

 

まず、最近の高森顕徹会では上の心と下の心と人間の心理を分けて考える話は聞いたことがありません。
園児さんが言われるように30年前は、そのように言われていました。
阿頼耶識がうんともすんとも言わない、これが「ハイ」と聞くのが信心決定と何度も言われていました。
頭で分かっても腹底が納得しなければ駄目だというような言い方もされていました。
また、地獄一定と落ちきったところで阿弥陀仏の呼び声が聞こえるとも言われていました。
ですので古い会員ほど、そう成らなければ救われないと思い込んでいる人が多いと思います。

では、上の心と下の心は何か。
これはご存じの通り唯識から来ています。

唯識は難しいとよくいわれていましたが、唯識の前に倶舎論(因縁果について論じている)を勉強してから唯識を勉強するそうです。倶舎八年、唯識三年と言われるそうです。
安田理深先生は「唯識真宗と二つあるのではない。唯識唯識真宗真宗というものではない」と言われたそうです。
少しずれますが、曽我量深先生は「法蔵菩薩とは阿頼耶識なり」と言われています。
曽我先生は、ちょっと変わっていて異安心扱いをされ、大谷大学を辞めています。


唯識が日本に伝わった元は、中国の三蔵玄奘が、この唯識の原典を読みたいが為に国禁を犯して印度へ行かれ、経典を持ち帰ってきたのが日本に伝わって法相宗となりました。

唯識では、上の心は第六識(五感を通して考えたり感じたりする心)、五蘊により反応する心と言われます。
第七識に末那識がありますが、これは我執の心と言われます。常に自分にこだわる心で煩悩の根本と言われます。三毒の煩悩がこれにあたります。
そして第八識に阿頼耶識があります。この識はすべての業の種子(しゅうじ)をため込んでいるだけで、特にここから何かが出てくるわけではなく縁に催されて新たな業を造っていく為のところです。密教ではさらに第九識(阿摩羅(あまら)識)を加えます。


小乗仏教では、この阿頼耶識が大円鏡智になると言われています。大きな鏡のようにすべてをありのままに映し出す、見たままを見たままに受け取ることが出来る、そういう心に変わると言われています。
末那識は、平等性智となりすべてのもを分け隔てなく見る事が出来るようになります。
意識は、妙観察智となり全てはバラバラに存在していると観察する意識が、全ては根本でつながりながら、仮に分けられる形で、一定期間存在しているのだと観察できる智慧に変わります。
前五識は、成所作智となり全てはバラバラであるという前提で、そのときその場の行動をしてしまう前五識が、水が高い所から低い所に流れるように、そのときその場に最もふさわしいことができるようになる智慧に変わります。
これを四智と言います。
また、この道を行くのが菩薩道でもありますが、菩薩道を歩めないもの、凡夫の為の教えが大乗仏教(念仏道)であります。

親鸞聖人が化身土巻に
「・・・観経の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、善くみづから己が能を思量せよ」となり、知るべし。
にありますように、念仏道しか凡夫にはありません。

仏道は基本的に聞法・称名によります。 

この阿頼耶識は聞法・称名によって薫習はされます。薫習とは香りが付くということですが、それが劇的に変わる訳ではありません。
何故なら無始から有ると言えば有る種子(しゅうじ)は、無量です。

そこに仏様との縁の種子が積まれてどう変わるか分かりませんし、そもそもちょっとやそっとの縁で何か変わるとも思えません。

しかし、この考えも正しいとは限りません。

何故なら修行をすれば覚りを開くことが出来るとお釈迦様がおっしゃっておられるのです。
阿頼耶識は菩薩道を歩む菩薩が悟れば、大円鏡智に変わりますが、凡夫がどれだけ聞法・称名に励んだところで阿頼耶識が変化するとは何処にも書かれていません。

 

高森顕徹会長の出身母体である華光会の創始者、伊藤興善師も「安心調べ」で曽我量深師や金子大栄師のことが書かれていますが、唯識真宗に持ち込んだぐらいにしか書かれていません。
どうも当時は真宗唯識の統合がはやっていたのでしょう。
そもそも七高僧の天親(世親)菩薩のお兄さん、無着菩薩が浄土門に天親菩薩を引き入れたのが元々の原因のようです。天親菩薩は、浄土門に入る前に倶舎論の大家だったわけですから。

 

個人的な感想ですが、阿頼耶識は変わらないと教えていただけるのが聞法ではないかと思います。何も変わらず、自分には何も無い、ただ、縁に従って業を造っているだけではないかと。

しかし、仏教は運命論(宿命論)ではありません。
我が意思(たとえ仏様に動かされているとしても)により、選択、行動は出来るのです。
称えたくなくてもお念仏を称えようとする、仏法を聞きたくなくても仏法を聞こうとする、これは、信前、信後変わらず阿弥陀様から頂いた意思だと思っています。

 

では、信心決定とは何が「ハイ」と聞くのか。
正直、分かりません。当然、阿頼耶識を認識できていませんので変わったのか、変わってないのか分かりません。安心論題にもそのことは書かれていません。
ただ、自分でもなんともならない自分がいるのはなんとなく認識しています。
迷いはすべて我執の末那識からくるといわれ、無明の元が末那識といわれますが、これは死ぬまで変わりません。
無明は無明のまま、迷ったままです。
つまり、悟れば末那識も変わるはずですが、そもそも菩薩道を歩んでいない、死ぬまで凡夫が変わらないということは、末那識も変わらないということです。
まして、意識を含め前五識変わったという自覚もありません。
迷いの凡夫は、迷いの凡夫のままです。
そのことを教えて頂いただけです。

 

それともう一つ大事なことは、南無阿弥陀仏しか無いということを教えて頂きました。
「いままで、申し訳なかったなー」と思いました。

また、「ハイ」と聞いた瞬間があるのかどうかですが、これは一念といわれ、時刻の極促といわれるのです。切られたことさえ分からないくらいの短い時間なのです。

高森顕徹会ではあっという間に切られると言われ、切られたことがハッキリするような言い方をしていましたが、いろんな方のお話を聞くと必ずしもそうでないことがわかります。

「○○が分かりません」は、分からんまま救われます。

「○○が分かる」そんな智慧は私にはありません。
ただ、「あ-、なんか、分かったなー」とか「そうだったんだ」とか、そういう自覚は出てきます。
ですので嶋田元講師のように明らかに分かる人(参照:私の白道)もいるでしょうが、そんな人は少ないと思います。いつ救われたか分からないうちに、「あー、救われていた」と気付く人が多いと思います。

いわゆる気づき、目覚めはあると思います。
これも個人的な感想ですが、それまでは「どーしたら」ご信心が頂けるのかと思っていたのが、「あー、無理」「私は落ちるだけ」と納得しましたので、「どーしたら」がいらなくなりました。
この「どーしたら」は、考えるに末那識から出ているのでしょうが、「どーしたら」を「駄目でした」に変えて頂いたような気がします。
ご信心という確かなものをつかみにいったのですが、つかめるようなものではなかったという感じです。これもほかの誰でもない阿弥陀様とのご縁なんでしょうね。

 

あまり良い答えになっていませんが、今の自分のところはこんな感じです。

 

追伸:xyzさまからコメント頂きました。また、お返事します。