とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

YOUは、この世に何しに来た?

新しい年を迎えることが出来ました。

このブログも3年を過ぎ、我ながらよく続いていると思っています。

いつ止めるかわかりませんが、皆様、また暫くおつきあいください。

 

最近よく思うことで、内なる声といいますか「お前は、この世に何しに来た?」と聞こえてきます。

自分は何をしにこの世の中に生まれてきたのか、正月を何度も何度も繰り返して楽しく飲んで騒いで皆の健康を祈りながら、それでも時間は確実に流れ、時は移ろっていきます。

子供の頃いた叔父さんや叔母さんはどんどん亡くなっていきます。

一方で新しい命が生まれています。

自分も歳を重ねどんどん老化していきます。止めることは出来ません。

紫式部じゃないけれど花の色が移り変わっていくように人生も移り変わっていくのが定めであり事実です。

今という瞬間しかなく、過ぎ去った過去を繰り返すことは出来ません。

 

とにかく生まれてきてしまったのですから生きるしかないのですが、生きている間にいろいろ考えるようになってきます。

成長と共に周りを見ながら成功や幸福をどうしたら得られるのかそれだけを一生懸命考えるようになります。

自分の煩悩を満足させるためにと考えるのですが、どもうそれで満足出来るとは思えないと思ってしまう自分と向き合うことになります。

本当にこの人生、皆がしているような生き方で良いのか、悩んでしまいます。

悩まない人の方が本当は多いのかもしれませんが、私は壊れない幸福というものを求めてしまいました。

 

子供の頃は大人になれば完成された人間になると思っていました。

心の平安、何ものにも動じないそんな心をもった人間になれると思っていました。

その心を手に入れれば強くたくましく生きられるのではないか。

今考えてみると、何ものにも動じない心は死んでいるか、それとも悟っているかのどちらかでしょう。

とにかくそう思わされるのも宿縁なのでしょうね。

出家する人であれ在家でいる人であれこの世が苦しい世界だと思った時点で、仏というか何か普遍的な力によって気づかされているのかもしれません。

無常を無常とも思わない生活の繰り返しで、やはり無常を感じずにはおられないように仕向けられている世界が人間界なのでしょう。

 

この世の中に真実と呼べるものがあるのか、無いのか、そんなことを考えても仕方が無いのですが、考えずにおられないそういう自分はおかしいのではないのか、などなどいろんな人が人生に悩んでいらっしゃるのは事実です。

私はあまり好きではないですが椎名林檎の歌の歌詞は、そのことを強く感じさせます。

そして、それでも真実と呼べる教えを探そうとするのは目に見えない力が働いているからとしか思えないのです。

 

阿弥陀様は、光明無量、寿命無量の働きによって私を救おうとされています。

光明と寿命の無量の働きを「阿弥陀」と名付けられたと言われます。

たまたま、その働きに「阿弥陀」と名前を付けただけかもしれません。

なぜ「阿弥陀」なのか、その音にどんな意味があるのか、アミターバあるいはアミターユスというサンスクリット語の音にどんなことが隠されているのか。

アミターバ、アミターユスは光明無量、寿命無量の意味があるそうですが、その意味ではなく「音」にどんな力が隠されているのか、なぜアミターバなのか不思議としか言いようがありません。

別にアミターバではなく、バババーとかドドドーとかガーンとかそういう音でも良かったのになぜアミターバという音なのか分かりませんが、お釈迦様がそう言われたのですからアミターバ、アミターユスが「阿弥陀」さまでありそれが事実です。

そしてその「阿弥陀」という仏に二つの力があると教えてくださいます。

 

そのひとつ、「光明」は光です。光はものを明るく照らし出し、そのものの姿を明らかにします。

言い方を変えれば分からないものを正しく見えさせると言えます。

もう一つ、「寿命」は続くと言うことです。

ずっと続くと言うことは、果てしがないということで、働き続けるということです。

切れ目無く働き続くということにより私に何かを知らせようとされる力があると言うことです。

この二つのお力により私が南無阿弥陀仏と出会うことが出来るのです。

また、仮に自然の力を「阿弥陀」としたならば、この宇宙全体が「阿弥陀」と言えないこともありません。

この宇宙は光が至る所にあり、また、永遠に続いています。

ひょっとかするとこの世界を動かしている元、永遠を司っている力が「阿弥陀」かもしれないと思うことがあります。

 

また、その「阿弥陀」の力が南無阿弥陀仏の六字の御名号となって私を呼んでいます。

そうお釈迦様が教えてくださったから南無阿弥陀仏を知ることが出来たのですが、しかし、一方でこの南無阿弥陀仏に今遇わせて頂いている人と、そうで無い人がいるのが事実です。ただ、この事実は実は私の頭で考えた事実であって本当かどうかはまた、闇の中です。

これまでの人生経験から出会いがあった場合と無かった場合の経験を元に判断しているだけです。

 

今の私にはこの南無阿弥陀仏があって良かったとしか思えないのですが、お釈迦様は私の能力を見通してこの南無阿弥陀仏があることを教えてくださったのかもしれません。

これしか、南無阿弥陀仏にしか私に「真実」と向き合わせる力は無いと判断されたのでしょう。

そして、あらゆる出会いや経験によって、それを何度も何度も、何生も何生も繰り返し、待って、待って、待ち続けておられるのが阿弥陀様なのかもしれません。

やっと南無阿弥陀仏と出会うことが出来たと思っていても、先手の阿弥陀様のお力が無ければ出会うことが無かったことでしょう。

この出会いが「真実」との出会いなのかどうなのかさえ私の力で判断できないのにも関わらずです。

 

 

YOUは、(お前は)この世に何しに来た?

 

 

 

 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

あなたの白道(更新)

お知らせです。

あなたの白道 の本が出来たそうです。

全部読んでいませんがブログとは多少内容が変わっているようです。

欲しいかたは あなたの白道 のサイトにある嶋田さんのメールアドレスに連絡してください。

よろしくお願いします。

 

追記

一冊800円、送料込みで1000円です。

内容は、ブログのあなたの白道とは異なります。

基本的に仏教と浄土真宗の正しい教えを書かれています。

興味のある方は是非読まれると良いと思います。

正しい真宗の教えはこういうものだったのだとあらためて思います。

 

連絡先は以下の通りです。

住所  〒 918-8134
        
福井県 福井市 下莇生田町 27-1-32 


                  嶋田 久義
メール アドレス
                s.yukimi_33123(アットマーク)docomo.ne.jp 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

質問にはしっかり答えないと不満が残ります。

先日、高森顕徹会の講演で以下の質問が演題となりました。病院の先生方が施主として質問されたそうですが、本当にこのことが聞きたいことなのか疑問に思います。

高森顕徹会のことはあまりブログに書かないのですが、最近の講演内容があまりにひどいので書かずにおれませんでした。

とりあえず質問と質問に対する回答を私なりに答えてみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

質問

「映画「なぜ生きる」で、「なぜ生きる」の答えは、大悲の願船に乗ることだ、とありましたが、なぜ大悲の願船に乗ることが、生きる目的となるのか、その理由を詳しく教えて下さい。」

 

回答

大悲の願船に乗ること = 阿弥陀さまの救いに預かること

生きる目的 = 後生の一大事を解決する事

生きる目的は後生の一大事を解決する事とした場合、阿弥陀さまの救いに預かることは、すなわち後生の一大事を解決する事なのだから、これが人生の目的と言ってもいいのです。

質問の回答としてはこれで終わりですが、ちょっと解説です。

大悲の願船とは、阿弥陀仏の御本願のことですので、私を必ず救う、南無阿弥陀仏で救うという阿弥陀様のお誓いです。

それに乗ると言うことですので阿弥陀様に救われると言うことです。

 

生きる目的は何なのか。

この世に何をしに生まれてきたのか、必ず死ななければならないのに。

キリスト教では神の国に行くことです。イスラム教も死後神に召されることです。

真言宗では即身成仏です。

お釈迦様は六道を出よと言われています。

迷いの世界を出よと、そして仏を目指せと。

真宗では、後生の一大事を解決することにより仏に成ること(往生成仏)が定まると教えます。

 

後生の一大事解決するためには、阿弥陀様の御本願をそのまま聞く、それ一つです。

現在ただ今、阿弥陀様は私を必ず救うと南無阿弥陀仏となって呼んでおられます。

出離の縁のない私を必ず救うと私に呼びかけておられるのです。

命をかけて私の腹底から呼んで呼んで呼び続けておられるのです。

「早く来い、今すぐ来い、必ず助ける、落ちることを心配するな、命かけて助けてやる、我にまかせよ、南無阿弥陀仏」と。

そのお心を聞かせていただいたら、阿弥陀様に頭が下がるのです。

私は南無阿弥陀仏と答えさせていただくだけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上簡単に答えました。これだけの事です。

では、実際の回答はどういうものだったのか。

・・・・・ 

成就文の即得往生 住不退転の説明とアニメを見せて善恵房と聖人の「体失・不体失往生」のとらえ方の違いの解説、そしていつものとおり聞く一つで往生できる。最後に、「なぜ生きる」の答えは、大悲の願船に乗ること、絶対の幸福になること。

(詳しくはブログ「信偽検証」2017.12.14を参照してください)

・・・・・ 

最近はこのパターンが多いようです。

何を聞くのかの説明はいつもの通りありません。

結局、「わしの話を聞け」なのです。

そもそも質問の回答にも成っていません。本気で答えようとしていないのがよく分かります。

皆さん本当にこの話を聞いて満足出来るのでしょうか。

私はいつも不満でした。

なぜ聞けないのか、「なぜ生きる」の本を何度何度も読んでみましたが、結局訳が分からない、答えがないと思っていました。

それと同じ話を多少根拠を変えて話しているだけで、私がいた時と全く変わっていません。むしろどんどん退化しています。

残念ですがどれだけ高森会長の話を聞いても救われることはないでしょうね。

会員の退会のご縁を祈ります。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

称名念仏

 

称名念仏とは、南無阿弥陀仏と口で称える口称念仏であり、阿弥陀様を讃談するお言葉です。

阿弥陀様の御本願は、簡単に言えば私に称名をさせてみせるというお約束です。

その称名によって私が救われていくのです。

ただ、そこには大事な「聞」があります。「聞」の抜けたお念仏は聖道門のお念仏と成ってしまいます。

 

経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る。(『歎異抄』第十二条)

「お経やその注釈を読んで学ばない人たちは、往生することが定まっていないということ。これはまったく言うに足らない理屈である。他力真実を明らかにしている諸々のお経や注釈は、阿弥陀さまの本願を信じ、念仏を称えるなら、仏となることができると説かれている」

(私釈) 

お経や注釈を読むだけでしっかり学ばない人は信心が無いというのは全く問題外の理屈である。お聖経には阿弥陀様の御本願を信じて、お念仏を称えるなら仏に成らせていただくとしか書かれていないのだから。だから勉強していない人は信心がないと思うのは間違いで、本願を信じてお念仏する人は必ず仏に成る。

 

ここに称え心は「本願を信じ」と説かれています。

どんな気持ちでお念仏を称えたら良いのか、などという疑問は自力一杯の姿そのものです。

では、どう称えたら良いのか。

それも自力の心です。

「本願を信じ」称えるお念仏とは、阿弥陀様の御本願をそのまま受け入れて称えさせていただくお念仏なのです。

ですから沢山称えたお念仏で何とかなるというものとは異なります。

 

また、お念仏に自力も他力もありません。自分で自力、他力と区別を付けているだけで真実の塊がお念仏であり、それが南無阿弥陀仏です。

だから、善導大師から法然上人、親鸞聖人、そして蓮如上人も称名念仏を勧められています。

観無量寿経には称えることにより私の罪科が消えると書かれています。

不思議のお念仏です。

蓮如上人は御文章でも御一代記聞書でもお念仏を勧められています。

ただし、御文章で勧められているお念仏は信後の報恩のお念仏ばかりです。

 

ただ、信心から沸いてでるお念仏は真実の塊であり自然法爾のお念仏であり、私の計らいを超えたあるがままの自然のお念仏なのです。

 

信心とは私の信心では無く阿弥陀様のご信心が私に印現されたものです。

たとえば太陽を私のものにすることは出来ませんが、太陽の光に当たっているわたしは太陽の光を受け、太陽そのものの働きをそのまま受けていると言えます。

その姿を俯瞰したとき、太陽と私は同期していると見えないでしょうか。

光がお念仏だとすると、私が光を受けてお念仏をしている姿は信心を頂いている姿そのものと言えます。

 

ところが私が称えているお念仏にけちをつけているのが自力です。

光の元にいながら、お念仏を称えながら「このお念仏は違う」と自分で思っているだけなのです。

だから、その心「自力」を捨てよと言われているのです。

 

 

創価学会では題目をとにかく称えろと言われています。

題目を称えれば幸せになると教えられます。

浄土宗も同じように称名を重要視します。

 

真宗は、称名念仏も大事ですが一番大事なものは信心と言われます。

信心正因のいわれです。

だから真宗ではとにかくお念仏をしなさいと言う人とそうで無くまず信心を頂きなさいと言う人が出てきます。

どちらも大事なことですが、お念仏を沢山称えてもそれで救われると思うのは大きな間違いであることはご承知の通りです。

 

 

そうは言ってもお念仏(=南無阿弥陀仏)によって救われるのですからお念仏をおろそかにすべきものではありません。

御本願も「乃至十念」と誓われています。

ですから、個人的には称え心など気にせず称えさせていただく事が大事だと思います。

松並松五郎さんのことを思い出してください。

 

お念仏を称えさせていただくところに「聞」のお心があり、そのお心を聞かせていただいたお礼が南無阿弥陀仏となっているのです。

阿弥陀様のお心聞かせていただくとは、南無阿弥陀仏を称えさせていただく事と同じだと思うのです。

阿弥陀様のお心とは南無阿弥陀仏のお心であり、「現在、ただ今、落ちるそのままの私を必ず救う」と「南無阿弥陀仏」となって私に届いている呼び声なのです。

お念仏は、私の想像を絶する世界からの呼び声なのです。

その世界から私に届いている御念仏と出会わせていただいたら、称えずにいられなくなります。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

注:下品下生(観無量寿経

  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

 

御一代記聞書

勧修寺村の道徳明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。

仏願の生起本末を聞く

「仏願の生起本末を聞く」は良く使われる言葉ですが、親鸞聖人の教行信証のこのお言葉通りしかありません。

 

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

 

ここで「聞」といわれている「聞」とは、

無量寿経の下巻にある願成就文

諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向願生彼国、即得往生住不退転、唯除五逆誹謗正法

 

聞其名号の聞のことを言われていることは常識ですがとりあえず確認作業をしていきます。

では、何を聞くのかというと其の名号を聞くということであり、名号とは南無阿弥陀仏のことで、では、その南無阿弥陀仏のおいわれは何かということになります。

 

南無阿弥陀仏はどうして出来たのか。

それは地獄で苦しんで何度も何度も六道を回り続けている私たちの姿を見て、何とか救ってやりたいと三世の諸仏方が私たちを救おうとされたがどうしても駄目で三世の諸仏方はあきらめられた私がいたのです。

それほど私というものは迷いが深く、修行も出来ないくせに自惚れ強く、どうしようもない者なのです。ところがその事を少しも思っておらず、反省など少しもしない、この世に生まれてきても自分の幸せばかり願い、他人など何とも思っていない、とにかく自分さえ良ければの我利我利亡者なのに、そのことを全く悪いとも思っていない。

そのせいで何度も何度も六道を繰り返していると言われても全く意に介せず、平気に生きられる根性の持ち主が私なのです。だから地獄であろうがどこであろうが落ちるしか無いのに何もそのことのについて感じないでいる。そして一生がそれで終わっていくだけ。

そんな私を阿弥陀様だけがなんとか救ってやりたいと願を起こされたのです。お節介なことです。私は救われたいとかこの六道を出たいとかそんなことは一切思っていない。ただ、楽して生きて行きたいだけ、そのことにしか関心がないのです。

それをわざわざ阿弥陀様は、法蔵菩薩と成り下がって私たちを救わんと五劫の間ご思案し、そして兆歳永劫のご修行をされ完成したのが南無阿弥陀仏であると大無量寿経に書かれています。

南無阿弥陀仏の御名号は今、私に回向されているのです。それが現在ただ今、南無阿弥陀仏となって私の口から出てくださっているのです。

阿弥陀様は私に南無阿弥陀仏をどうか受け取ってくれとあらゆる手段を駆使して私に呼びかけておられるのです。

この六字の心を頂いたのが信心であり、また、疑心あること無しになったのが信心であります。

仏願の生起本末を簡単に説明しました。

 

では、もっと具体的な表現としてどういうものかと言えば、「今、死んでいけますか、南無阿弥陀仏一つで死んでいけますか。」ということになります。

南無阿弥陀仏にお任せしたなら、嫌々ながらも、死の宣告をされたら、受け入れられるのかどうか、受け入れることが出来なくても後生に不安があるのか無いのか、自分の心など当てにならないなどと言う逃げの言葉は通用しません。

さあ、「今、死んでいけますか、南無阿弥陀仏一つで死んでいけますか。」が仏願の生起本末を聞いたかどうかの一つの判断になるのではないかと私は思います。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 

 

 

 

衆生苦悩 我苦悩 衆生安楽 我安楽

「あなたの白道」をネットにアップし終わってしばらくたちました。

タイトル:あなたの白道
URL:
http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

アクセスもかなり多く皆さんにどんどん広めてもらいたいのですが、現役の会員は昔の私と同じで簡単には読むことが出来ないと思います。

また、「さよなら親鸞会」で「嶋田さんに会いに」にぶるうのさんも書かれていますが、なかなか分かっていても退会出来ない高森顕徹会の人が多いのも事実だと思います。

 

今回、嶋田さんの「あなたの白道」を読んで思うのは以下のお言葉です。

 

衆生苦悩 我苦悩 衆生安楽 我安楽

 

このお言葉は、真田増丸師の「信念の叫び」にあるそうです。

思うに、このお心は阿弥陀様のお心そのものと思います。

また、釈尊のお心も同じと思います。

買いかぶりすぎかもしれませんが、嶋田さんや嶋田さんに負けず劣らす一人でも南無阿弥陀仏をお伝えしたいと本当に頑張っておられる私の知り合いの僧侶も同じお心かもしれません。

 

 一人でも分かってもらいたい。

後生は一大事、今、南無阿弥陀仏を聞いて欲しい。

ところが高森さんには、このお心が根本的に欠落しています。

だから嶋田さんは高森さんの信心を疑っているのかもしれません。

 

私は、サラリーマンですのでお金が欲しいわけではありません。名誉も関係ありません。

それでも私の言葉で一人でも阿弥陀様と出会ってもらいたいと思います。

しかし、それで誰かが分かってくれたら「自分がやった」と思う心が必ず出てきます。

これが曲者です。

 死ぬが死ぬまでこの心と戦わなくては成りません。

煩悩具足はそういうことだと思っています。

 

一方で私の苦悩はありますが、衆生の苦悩などは全く思っていません。

自分で作った生ぬるい世界に生きているのかもしれません。

 

衆生苦悩 我苦悩 衆生安楽 我安楽

 

やはり私には無いお心です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

あなたの白道 6

問題のまとめ

今回の記事は嶋田さんの怒りですね。
高森さんのご信心が本物かどうか分かりませんが、阿弥陀さまのご本願に目覚めていながら、他の人の後生より自分の煩悩を優先することはあり得ないと思います。(追加:ちょっと言い過ぎでしたが一人でも多くの人に分かってもらいたいと思うのが普通だと思います)
嶋田さんは高森さんにご信心が無いと言われています。
実は高森さんが若い頃に布教したとき何人かの方がご信心を頂いています。
その方のお一人にたまたまお話を伺ったのですが、高森さんは説法するだけでご示談や座談はなかったそうです。
いま思うにご信心が無くても御法話が正しければ、聞く人は目覚めることがあると思います。
本願寺の勧学と言われる方の中にもそういう方がいると知り合いの僧侶から聞きました。
やはり最後は法に向かうべきなのだと思います。

阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

タイトル:あなたの白道
URL:
http://blog.livedoor.jp/anatanobyakudou/

追加:問題のまとめ ② を公開しました。
これで最後です。
何度も読んでいただきたく思います。
皆様、よろしくお願いします。