とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

視点を変えてみる

学問の世界でよく一般的に言われるのが視点を変えてみるということがあります。

物事を多角的、多面的に見ると言うことですが、これがなかなか出来ないのが我々の性(さが)なんでしょう。

多角的、多面的に今起きている現象を見る事が出来ると世の中、結構、楽に生きていけると思います。

 

たとえば、子供たちがいじめの世界から抜け出せないのは、その世界がすべてだと思っているからです。

子供達だけの狭い世界は、大きくなればたいしたことは無い世界と見る事が出来るのですが、子供にとっては世の中が子供の中でしか存在しないと思っているから、どうしてもそこから抜け出せません。ですから子供同士の言葉に傷ついたり怒ったりするのです。

一歩抜け出して見る事ができれば本当に楽になるかもしれません。

いじめを受けても我慢せずにさっさと逃げたり警察に訴えたりしたらどうでしょう。大人もそういう対応をしたらいじめはいじめで無く暴力や犯罪として扱われますね。現実にそうなりつつあります。

 

大人になっても、会社という枠の中でしか生きられないと思い込んでいたら、会社が駄目になったときに自分も駄目になってしまいます。

会社がすべてと思い込んでしまったら、それこそ会社での出来事に一喜一憂してしまいます。会社の中での自分の立ち位置が気になり、神経をすり減らします。

その結果、鬱病労働災害を引き起こすこともあります。

会社以外に生きがいを持ちましょうと良く言われるのはそのためです。言うのは簡単ですけどね。

 

 また、この世の中に絶対というものは一つもありません。

時代をさかのぼれば現代では罪に問われることも法律違反では無いものが沢山有ります。

たとえば、個人情報保護法などは現代の法律で、昭和40年代ころは当たり前に有名人の住所が雑誌に載っていました。手紙もそこに送れば本当に届いていたのですから今では驚きです。

今、有名人の住所を雑誌に載せたら大変な事になるでしょうね。

労働基準法などもそうです。

8時間労働など基本的なものは戦後に出来ています。

社会の視点が変わったと言うことでしょう。 

 

社会の流れに従って法律を作り、それを守って生きる、法治国家が今私の生きている世界です。

しかしお隣の北朝鮮将軍様の国ですので法治国家ではありません。

独裁国家です。ですから日本の感覚で外国に行ったらとんでもないことが起きても仕方有りません。立ち位置を変えなければ成りません。

実際、北朝鮮に旅行に行って投獄されたアメリカ人がいましたが、最後は意識不明の状態でアメリカに送還され、しばらくして亡くなりました。これなどは自分の立ち位置を見誤った結果と言えると思います。

そういう国は世界にまだまだ沢山有ります。

 

また、牛や豚は人間に食べられるために生きているのか、どうでしょう。

牛や豚の気持ちになったらとんでもないですね。

野菜の消毒によって小動物は天文学的な数で殺処分されています。

ベジタリアンは本当に自然に優しい行為なのか。たんなる欺瞞ではないか。

鯨を守ると言って活動しているシーシェパードなどは典型的な欺瞞に満ちた存在だと思っています。なぜイルカや鯨を守らなければならないのですか、牛や豚は守らなくて良いんですね。ノアの箱舟の考え方がそのままです。

世界経済は弱肉強食であり搾取の構造です。それは正しいのか。

アングロサクソンは自らの利益が確保出来なければ何をするか分かったものではありません。特にアジア、印度や中国系の人口は世界の半分近くになるでしょう。

どんどん力を持ってきたら白人にとっては大きな脅威ですね。

世界戦争が起きても何ら不思議ではありません。

現実にイスラム教の台頭はヨーロッパやアメリカにとっては脅威です。

また、共産主義は題目だけで実現している社会はどこにもありませんが、本当に人間にとって理想の思想なのか。中国やロシアはもう共産主義の国ではありません。

単に一部の権力者によって国民の自由と権利が抑圧された半資本主義的社会です。

むしろ日本の方がよほど共産主義的に思えるのは私だけでしょうか。

見方を変えるといろいろな発見があります。

 

では、ここで宗教の問題を考えてみたいと思います。

アッラーが絶対だと言う人、キリストが、マホメットが、etc. 

宗教の世界はまさしく視点を変えることが出来ない人が多くいます。

自分で自分をがんじがらめにしています。

今、自分が信じているものは本当に正しいものなのか、多角的、多面的に考える事が出来なくなります。

私が信じているものは絶対なのか、本当に正しいのか。

そして、本当に阿弥陀様は私を救ってくださるのか。

それを本当に私は信じているのか。

 

考えてみてください。

客観的な事実は 、私が毎日生きていることと、お念仏を申せと先人達に教えられたのでお念仏を忘れた頃にしているだけです。

生きている事実は、私が自覚しようが自覚しまいが、そのままあらゆる生命の犠牲のうえに立っています。それゆえの業は仏教の教えでは自分がすべて受けていかなければなりません。しかし、その業なるものを私は本当に信じているのでしょうか。

仏様は、その業によって三悪道に落ちると言われています。

そして、何を思ったか自分が幸せになる方法としてお念仏を自分が選んで称えていると思っています。

また、本当に法を誹っていないでしょうか。仏教によって私が救われることを疑っていることが法を誹っていることになるのか、ならないのか、どうでしょう。

法を誹っていたら阿弥陀様のご本願では除かれた人になります。

 

さらに、私が救われている、いないの判断は私がしていますが、この視点を阿弥陀様に移したらどうでしょう。

阿弥陀様は必ず救うと私に呼びかけておられます。お念仏を称えよと言われています。

その私は、どういう判断をしているかはそれぞれですが、お念仏を称えています。

阿弥陀からしたら称えさせているということになります。

阿弥陀様は、よくぞお念仏を称えてくれたと喜んでおられるでしょう。

そして、必ず救うぞと叫んでおられるのです。

我にまかせよ、必ず救う。

 

このお言葉に頭が下がります。 

 

しかし、考えれば考えるほど分からなく成ります。本当に正しいものは何なのか判断できる力が私にはありません。

そう思いながらもお念仏させていただいています。

自分の視点を阿弥陀様の視点に変えて自分を俯瞰してみてください。

最後は、よきひとの仰せに従い、阿弥陀さまにお任せするだけなのです。

有り難い事です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

感じて、ゆるす仏教

「感じて、ゆるす仏教」という本があります。

藤田一照師と魚川祐司さんの対談記録です。

藤田師は、禅宗の僧侶であり、アメリカで座禅の指導をされて来られた方です。

魚川さんは、テーラワーダ(上座)仏教をとおして自分の生き方を見つけられた方です。

ごくごく簡単に紹介していますので、本当のところはもっとしっかり調べないとこんな簡単な紹介は嘘になりますが、書くと長くなるので皆さんそれぞれで確認してください。 

この本の内容は、聖道門的求道(自力)をどう扱うかというところが問題になっているところが個人的に興味を引きました。

聖道門的求道は終わりが無く到達点も遠く感じるため、どこかで自分の力を手放す必要があるのではないかと言われています。

座禅をしながら自らの力で心を浄化しようとしてもとても無理なので一度その心を放してみるということを言われています。

本の中では「コントロール」を放棄して「ありのまま」を受け入れると言われています。

 

・・・以下、本からの引用です。

 

宋代の禅僧に青原惟信という人がおりまして、・・・以下のようなことを言っています。

上堂して曰く、老僧三十年前、未だ参禅せざりし時、山を見ては是れ山、水を見ては是れ水。後来親しく知識に見え箇の入処有るに乃至びては、山を見ては山に不是ず、水を見ては水に不是ざりき。

爾今、箇の休歌の処を得ては、依前らず山を見ては只だ是れ山、水を見ては只だ是れ水なるのみ。

 

・・・自分は禅の修行を三十年やってきたが、参禅する前は山は山に、水は水に見えていた。そうして修行をはじめて、ある程度の鏡智ができてくると、山を見てもそれは山で無く、水を見てもそれは水ではなくなった。いま、生死の問題にけりが付いたところから眺めていると、以前と同様に山を見ればただ山であり、水を見ればただ水である。

 

・・・「山をただ山と見ることが「休歌の処」なのであって、山が山に見えなくなるような、何か特別な状態を求め、それを「悟り」だと思い込んでいるのであれば、それは迷いの状態だ」・・・・

 

 

簡単に言えば自分を仏に任せて座禅をしてみると言うことです。

そして、自分の思いを離れたところから物事をみると新たなものが見えるけど、それは全てありのままの姿をありのままの見るということなのだと。

仏教でいう正見です。

こんな事が禅宗でも言われているのだなと感心します。

私の知り合いの僧侶は、「感じる」ことを大事にしています。

お念仏を称えなが自分の心と体の感じを味わいます。

いろいろ言葉が出てくるのですが、その行為自体がありがたく思えます。

一度試してみてください。

本の中では座禅の意義なども語られていますが、浄土真宗とかけ離れているかと言えばそうではなくて聞法を通して我が身を見つめるところなど似ていると思うところもあります。

また、自力的な心と他力的な心の変化も見えているようです。

こういう話は、とても高森顕徹会の「絶対の幸福」に凝り固まった頭では受け入れることができるものではないと思います。

悟りというもののとらえ方が我が心と体を観察するところから始まり、さらに感じる体験をしていくのです。自由な状態に心と体を持って行くというのは、へんな固定観念にとらわれている人には大きな壁のような気がします。

その心の状態を五二段の悟りと比較するのでなく、仏語の言わんとするところをそのまま受けてみることが大事なのかなと思います。

いずれにしても、禅宗も大乗教の一つですので行ずれば何かしら知らされるのでしょう。

たとえはよくないかもしれませんが、「好き」と「嫌い」の感情は、脳科学的には扁桃体というところから瞬間的に出てくるために、その理由が分からないそうです。

結局、後で理由付けを自分でしているようで、「好き」と「嫌い」はまったく理屈ぬきな感情の作用であり、そこに理由を求めることは無意味と言われています。

ですので座禅などを通して我が身の感情の動きを見ていくことで自分の姿を客観視することができ、まったく関係なくいろんな思いが次から次へと出てくるその源を探ることが出来かもしれないのです。

そしてそれに捕らわれること無く感じていく。

そのこだわる心を俯瞰し、突き放していく。

特にお念仏を称えているとき、どのように自分が思っているのか心の動きや身体に感じるものを観察していくと面白いと思います。

 

そう言えば、禅宗曹洞宗)の葬式の時、「ゆるす~」という言葉が何度も出てきます。

私の罪、咎を許し、仏に帰依しなさいと言われているように聞こえます。

 

私の罪、咎に懺悔し、阿弥陀さまにお任せする、これしかないですね。

 

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

自分の信心は間違いない!?

高森顕徹会を退会後は、ご信心が早く欲しくて欲しくて仕方ありませんでした。

どうしたらご信心がいただけるのがあちこちのご法話を聞きに行ったり、御著書を読みあさりました。

とにかく早くハッキリしたいと思っていましたが、知らされたのは自分の力ではなんともならない世界だったということ、そしてすべて阿弥陀様とのご縁だったということに気付かされたときから、自分の周りの世界が変わって見えてきました。

しかし、しばらくして何も変わっていない自分に気付き、どうしようもない思いになってきました。

結局、悪業しか出来ない、何一つ善行など出来ない自分に阿弥陀様のお念仏が届いていることが不思議でしかたありませんでした。

そうこうしているうちに何人かの退会者と話すご縁がありました。

彼らと話していると以前の私と同じように迷っているのが分かりました。

なんとかしなければと思いあれこれ話をしました。

当然、本人もなんとかしなければと思いあちこち聞いて回ります。

すると不思議なことにご信心を頂いていく人が現れてくるのです。

不思議としか言いようが有りません。

そして皆、一様に一味の世界を語り出すのです。

これはとんでもないことでした。

そのうち自分には何か不思議な力があるのではないかなどど自惚れ出します。

さらに自分の信心は間違いないと思い込みます。

・・・・・・・・・・・・

阿弥陀仏は絶対真実だ、それが今自分に届いている。

善も悪も何一つ分かっていないこの自分という存在も事実。

真実のかけらもないのが自分。

これが真実信心だ。

仏凡一体だ、南無阿弥陀仏

・・・・・・・・・・・・

しかしです。

頭がぼけたら南無阿弥陀仏さえ忘れてしまうかもしれません。

それに本当に阿弥陀様を信じているのか分からなくなりました。

法話を聞かせていただいても、有り難いのですが、さて後生はと考えるとこちらには何も確かなものは無い。

自分はそんな確かな頭脳の持ち主なのか。いやいや、いい加減な能力しかありません。

それどころかこの頭は腐っている、迷っている、信用できない。

疑問がどんどん広がっていきます。

 

信心とは何か、本当に分からなくなります。

信心よりも今の生活をきちんとしなければなどと、今生第一主義になっています。

楽しく毎日過ごしたいと思うのです。

美味しいものが食べたい、財産が欲しい、楽しく一日を過ごしたいなどなど物心ついたときから何一つ変わっていません。

どこどこまでも煩悩具足の凡夫です。

 

確かな信心なんて私にはどこにもありません。ちょっと仏教の知識がついただけです。

それまでがひどすぎただけですので、皆さんに教えて頂いた本当の阿弥陀様の御本願をお話しすれば、後は阿弥陀様のお力で信の花が開いていくだけなのです。

最近は、そう思っています。

赤尾の道宗の言葉が今に響きます。

 

かへりみすこしやうの一大事ゆたんしてくれ候な。わかこころへ(下段に現代語訳等)

 

それでも以前の自分には戻れません。

以前の自分がどれだけ暗闇にいたのかさえ忘れてしまっています。

自分の後生、本気で心配していたのか今では怪しく思います。

不思議ですね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

尾道宗二十一箇条覚書

現代語訳
二一、思えば、嘆かわしいわが心だなあ。後生の一大事を成し遂げ得ることならば、一命を ものの数 とも思わず、善知識の仰せなら、「何処の果て へ も 行け」と申されても、背きますまい という決心をし、また、唐や天竺まででも、仏法を求め、お訪ね申したい と 思う覚悟でいるのに・・それ程までに 思い切ったわが心 であるのに、それに比べてみれば、如来様の仰せに従い、一心一向になって法義をたしなむという事は、さて さて たやすいことではないかい。よくよく考えてくれよ、わが心よ。この世は、しばらくの仮の世で、久しくおれる所ではない。そうしてみれば、この世においては、飢え死に しても かまはぬ、また、凍え死に しても かまわぬ。それを省みずに、ただ 後生の一大事に油断をしてくれるな。わが心よ。返す返すも、今 申すところに、違わず、わが身を責めて、たしなみぬいてくれよ。どこ どこまでも 国や所の掟 や 規則に背かず、しかも内心に一念帰命の信心の頼もしさ、ありがたさ を しっかり持って、外相は、深く謹むように仕向けてくれよ。わが心よ。
 
原文
二一 あざましのわかこころや、こしやうの一大事をとけへき事ならは、いちめいをももののかすともおもわず、おうせならは、 いつくのはてへなりとも、そむき申ましきしんちうなり。又たうてんちく(唐天竺)へなりとも、もとめたつねまいらせ候はんとお もふ心にてあるものを、これなとはおもひきりたるにか心たてあるに、おうせにしたかい、うしろくらくなくほうき(法鏡)をた しなみ候はん事は、さてやすきことにてはなきかとよ。かヘすかへすわかこころこんしやうは、一たんなり。いまひさしく もあるへからす、かつひてもし(死)に、又はここヘもしね、かへりみすこしやうの一大事ゆたんしてくれ候な。わかこころへ かへすかへすいま申ところちかわす、身をせめてたしなみをきり候へく候。かへすかへす御おきて、はつと(法度)をそむかすして、 しかもないしんには、一ねんのたのもしさ、ありかたさをたもち候て、けさう(外相)にふかくつヽしめ申てくれ候ヘ。わか心ヘ。

 

 

 

大行とは

教行信証の行巻の冒頭に以下のようにあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。 

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。

極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。

ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。

すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

顕浄土真実行文類

 

現代語訳

つつしんで、往相の回向をうかがうと、往生の因として大行と大信が与えられています。

大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。

この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。

それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態ですから、大行と名づけられるのです。 

ところでこの行は、大悲の願(第17願)より出てきた本願力回向の行です。

すなわち、この願を諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づけ、諸仏咨嗟の願と名づけられます。

また往相回向の願と名づけることもできますし、また選択称名の願とも名づけることもできます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この意味が非常に分かりづらいのです。

日本語は分かりますが、よくよく読むと何を言っているのかよく分からなく成ります。

 

最初の行は、徃相の回向ですので、私を連れて帰る、お浄土に連れて行くのに二つの方法があると言われます。

一つが大行でこれは行巻で、もう一つの大信は信巻で解説されています。

次の一行は誰でも分かると思います。

お念仏を称えることです。

しかし、その次の行以降になるとまか不思議になってしまいます。

なぜか。

この行は、もろもろの善本と徳本を具していると書かれています。

つまり、行にまか不思議が詰まっていると言われています。

さらに、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきがあるというのです。

私が単に南無阿弥陀仏と称えるだけでです。

それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕れた姿ですから、阿弥陀仏のお浄土の世界が顕れた姿と言うことになりますので、称えたお念仏が阿弥陀様の姿でありお浄土の世界が顕れた(この顕れたも本当はよく分からない)と言うことになります。

ですから、大行と名付けることとなります。

そして、この行、つまり南無阿弥陀仏と称えることは諸仏称賛の行ですから、私が称えるままが諸仏の行となります。

とにかく諸仏が褒め称える行になるのです。

 

往相回向の願とは、阿弥陀様がお浄土へ必ず連れて帰るぞと誓っておられると言うことで、選択称名の願とは、称名を選び取られた行だということです。

ここも一般的には阿弥陀様が選び取られたと解するのが普通だと思うのですが。

 

さて、誰が称えるお念仏なんでしょうか。

私が称えるお念仏そのものが阿弥陀様の呼び声であり諸仏の褒め称える行なのです。

これはお念仏が自力も他力も無い、真実の塊と言うことを言われていると思います。

これを能所不二の大行の意味を現したものというのですが、能行と所行が二つで無く一つと言うことです。

つまり、私が称えるままが仏様に称えさせられていると言うことになります。

しかしですね、信前と信後に分けると又意味が変わってきます。

そしてこれが空華や石泉、さらには豊前の議論の場になるそうです。

本願寺の主流は所行、空華と言われますが、その意味はすべて阿弥陀様からの行であり、衆生の行を否定しているからです。

しかし、聞法するのも衆生の行為でないとすると誰が聞いているのかとなってしまいます。

私はどこに行った?これが空華の矛楯するところです。

 

次に私が称えているとなると行が往生に資するのか、間に合うのかということになり自力が間に合うことになると言うことで矛楯します。

石泉の問題はここにあります。ほかにも豊前という折衷案があるそうですが良く知りません。

 

ここも注意が必要ですが、空華学派が本願寺にあるのではありません。

空華的な考え方が多いという意味であり、石泉的な考え方の人も多くいます。

だってどちらも矛楯を抱えているのです。

組織としてどちらも包含しているのです。ここが良いところです。

 

ものごとを一面的にとらえてそれが真実だと思い込むのは愚かなことです。

阿弥陀様も七高僧方も親鸞聖人も皆お念仏を勧められています。

阿弥陀様は称名を勧めていないと主張するかたもいますが、言い方が違うと思います。

無量寿経(18願)では、勧めるとも勧めないともどちらもはっきり解釈できるところがないのでよく分からないが正解だと思います。

乃至十念の解釈がそれぞれだからだと個人的には思います。

私は浄土宗の僧侶も知り合いにいますが、まことに有り難いです。

信心についても語り合いますが共感するところも沢山あります。

ですから、南無阿弥陀仏が大事なことはよく分かります。

 

ただし、大事なのは信心を頂いた上でのお念仏ですよと信巻などで言われているのです。

阿弥陀様の御心を一面的なとらえ方でこうだと言うのは誤解の原因になると思います。

 

 

とにかく、お念仏を称えなさいと親鸞聖人がおっしゃっておられると言うことですね。

行巻ではそのことを言われているのです。

重ねて言いますが、自力の計らいをすてたお念仏が大事だとそのあとの信巻で言われています。

  

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

我々は愚かである。そして、私は迷っている。

釈尊が阿難に仰せになった。

「 さて、無量寿仏の国に生れる人々はみな正定聚に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものはいないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる 」

 

中略

 

釈尊弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになった。 

無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。

 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。

 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。

 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。    

また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品品に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。

 そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。

 世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。また持ちものは互いに融通しあって、むさぼり惜しんではならない。そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはならない。争いを起して怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。

 人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっておリ、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。

 それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。

 このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることや、人に恵み施せば福が得られることを信じない。善悪因果の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。    

生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常の道理である。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。

 こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかリである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。

 あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。そうして長い年月を経ても相手への思いがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがない。心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切ることができない。

 こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうするすべもない。世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでいる。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのである。これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いである。

 このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである。ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、とつぜん命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生れ変り死に変りして、何千億劫もの長い間、浮び出ることができない。その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことである 」

 

中略

 

釈尊弥勒菩薩に仰せになる。

  「 無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」

 釈尊が仰せになる。

  「 わたしは今、すべてのもののためにこの教えを説き、さらに無量寿仏とその国土のようすを残らず見せた。この上にまだ尋ねたいことがあるなら、ためらうことなく問うがよい。わたしがこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。やがて将来わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう」

 釈尊弥勒菩薩に仰せになった。

  「 如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。そうであるから、わたしはこのように仏となリ、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい 」

釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、みなこの上ないさとりを求める心を起した。一万二千那由他の人々が清らかな智慧の眼を得、二十二億の天人や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、さまざまな功徳を積んでその身にそなえ、やがて仏となるべき身となったのである。

 そのとき、天も地もさまざまに打ち震え、大いなる光明はひろくすべての国々を照らし、実にさまざまな音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。

 釈尊がこの教えを説きおわられると、弥勒菩薩をはじめ、さまざまな世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集うその他すべてのものは、その尊い教えを承って、だれひとりとして心から喜ばないものはなかった。

無量寿経 下巻

 

冒頭の阿弥陀仏の御本願一部と「悲化段」 の冒頭部分及び「智恵段」の最後であるが、親鸞聖人は「悲化段」のあとの五悪段を含めあまり教行信証に引用されていない。後に中国で付け加えられたと考えられているからであろうか。

しかし、この部分については個人的には響くものがあると思う。現代の新聞や週刊誌に書かれている内容はすべてこの通り「愚かで人の道を外れている」。

仏教が廃ると世の中が悪くなるのではないかと本当に思うのである。

南無阿弥陀仏しかない。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

病は浄土への便り

新年早々風邪を引いてしまいました。

病になってお浄土が近づいたと喜べるかと言えば、全くの逆で少しも喜べません。

親鸞聖人もおっしゃているとおりです。

 

歎異抄第九条

 また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

現代語訳

また急いで浄土へ参りたいというような思いがなくて、ちょっとした病気でもすると、もしや死ぬのではなかろうかと心細く思うのも煩悩のしわざです。

 

何が煩悩か知りませんが、南無阿弥陀仏の南も出てきませんでした。

今もかなりしんどいですが、南無阿弥陀仏と言えるくらいになりました。

だからどうしたと言うわけではありませんか、私というものがらはそんな程度なんてすね。新年早々残念。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

善導大師の二河譬について

 善導大師の二河譬について個人的な感想です。

善導様がどうして二河譬を著されたのか。

当時の仏教は当たり前ですが、聖道門、それも天台の智顗が亡くなって暫くして善導様が生まれられています。

つまり、善導様が生まれたときはバリバリの聖道門の世界です。

ちょっと後には印度まで行った玄奘三蔵様もいらっしゃるのです。

そんな中、道綽善師を訪ね浄土門にはいります。それまであちこちを遍歴していたようです。

また、善導様はご存じの通り布団を敷いて寝たことがないくらい経典の研究などをされています。

その中で浄土門を唱えた善導様は聖道門と今の浄土門の中間を行くような存在だったのではないかと思うのです。

念仏行を行いながら三昧の行も行う。

また、善導様のご教化がすさまじく、法然上人と同じように一般ピープルにもお念仏を勧め、中には善導大師の教えのすばらしさのあまり自殺するものまで現れました。

どうしてそうなったのかはよく分かりませんが史実として残っています。

阿弥陀仏を体得せられ思い残すことは無いと自殺されたという話も聞いたことがあります。

ですから聖道諸衆から非難もされたことでしょう。

それでも長安の都にお念仏が響き渡っていたと言われますから相当広まっていたのでしょう。

余談ですが映画「少林寺」の中でも修行しながらお念仏を称えるシーンがありますからお念仏は中国でも一般的なのかもしれません。

そんな中、善導様は人々を導くために譬えを持ってお示し下されたのが二河譬ではないのかと思います。

お念仏に救われたなら死んではいけない、あっという間の人生、そのままお念仏を称えながら人生を全うせよと。

信心の行者はお念仏を唱えながら生きよと。

また、聖道諸衆に対しては、二河譬の真意をくみ取ってくれと願われたのではないか。

阿弥陀仏は諸々の仏様の内のお一人という考えが当たり前の時代です。

たぶん、善導様の時代でもある程度の悟りを開かれた方は沢山いらっしゃったと思います。

そういう方を誹るでも無く、根機の劣ったものを救う為の教えを広めるための二河譬ではなかったのではないでしょうか。

そう思うといろいろなとらえ方が出来ると思いますが、善導様の御本心は専修念仏しかありません。

そして、そこは三定死を通して阿弥陀様にまかせよと自他力廃立をお示し下さったとしか思えないのです。

そこを読み取ってくれと私には聞こえます。

 

あくまで、私の勝手な味わいです。

 

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