学問の世界でよく一般的に言われるのが視点を変えてみるということがあります。
物事を多角的、多面的に見ると言うことですが、これがなかなか出来ないのが我々の性(さが)なんでしょう。
多角的、多面的に今起きている現象を見る事が出来ると世の中、結構、楽に生きていけると思います。
たとえば、子供たちがいじめの世界から抜け出せないのは、その世界がすべてだと思っているからです。
子供達だけの狭い世界は、大きくなればたいしたことは無い世界と見る事が出来るのですが、子供にとっては世の中が子供の中でしか存在しないと思っているから、どうしてもそこから抜け出せません。ですから子供同士の言葉に傷ついたり怒ったりするのです。
一歩抜け出して見る事ができれば本当に楽になるかもしれません。
いじめを受けても我慢せずにさっさと逃げたり警察に訴えたりしたらどうでしょう。大人もそういう対応をしたらいじめはいじめで無く暴力や犯罪として扱われますね。現実にそうなりつつあります。
大人になっても、会社という枠の中でしか生きられないと思い込んでいたら、会社が駄目になったときに自分も駄目になってしまいます。
会社がすべてと思い込んでしまったら、それこそ会社での出来事に一喜一憂してしまいます。会社の中での自分の立ち位置が気になり、神経をすり減らします。
会社以外に生きがいを持ちましょうと良く言われるのはそのためです。言うのは簡単ですけどね。
また、この世の中に絶対というものは一つもありません。
時代をさかのぼれば現代では罪に問われることも法律違反では無いものが沢山有ります。
たとえば、個人情報保護法などは現代の法律で、昭和40年代ころは当たり前に有名人の住所が雑誌に載っていました。手紙もそこに送れば本当に届いていたのですから今では驚きです。
今、有名人の住所を雑誌に載せたら大変な事になるでしょうね。
労働基準法などもそうです。
8時間労働など基本的なものは戦後に出来ています。
社会の視点が変わったと言うことでしょう。
社会の流れに従って法律を作り、それを守って生きる、法治国家が今私の生きている世界です。
しかしお隣の北朝鮮は将軍様の国ですので法治国家ではありません。
独裁国家です。ですから日本の感覚で外国に行ったらとんでもないことが起きても仕方有りません。立ち位置を変えなければ成りません。
実際、北朝鮮に旅行に行って投獄されたアメリカ人がいましたが、最後は意識不明の状態でアメリカに送還され、しばらくして亡くなりました。これなどは自分の立ち位置を見誤った結果と言えると思います。
そういう国は世界にまだまだ沢山有ります。
また、牛や豚は人間に食べられるために生きているのか、どうでしょう。
牛や豚の気持ちになったらとんでもないですね。
野菜の消毒によって小動物は天文学的な数で殺処分されています。
ベジタリアンは本当に自然に優しい行為なのか。たんなる欺瞞ではないか。
鯨を守ると言って活動しているシーシェパードなどは典型的な欺瞞に満ちた存在だと思っています。なぜイルカや鯨を守らなければならないのですか、牛や豚は守らなくて良いんですね。ノアの箱舟の考え方がそのままです。
世界経済は弱肉強食であり搾取の構造です。それは正しいのか。
アングロサクソンは自らの利益が確保出来なければ何をするか分かったものではありません。特にアジア、印度や中国系の人口は世界の半分近くになるでしょう。
どんどん力を持ってきたら白人にとっては大きな脅威ですね。
世界戦争が起きても何ら不思議ではありません。
現実にイスラム教の台頭はヨーロッパやアメリカにとっては脅威です。
また、共産主義は題目だけで実現している社会はどこにもありませんが、本当に人間にとって理想の思想なのか。中国やロシアはもう共産主義の国ではありません。
単に一部の権力者によって国民の自由と権利が抑圧された半資本主義的社会です。
むしろ日本の方がよほど共産主義的に思えるのは私だけでしょうか。
見方を変えるといろいろな発見があります。
では、ここで宗教の問題を考えてみたいと思います。
アッラーが絶対だと言う人、キリストが、マホメットが、etc.
宗教の世界はまさしく視点を変えることが出来ない人が多くいます。
自分で自分をがんじがらめにしています。
今、自分が信じているものは本当に正しいものなのか、多角的、多面的に考える事が出来なくなります。
私が信じているものは絶対なのか、本当に正しいのか。
そして、本当に阿弥陀様は私を救ってくださるのか。
それを本当に私は信じているのか。
考えてみてください。
客観的な事実は 、私が毎日生きていることと、お念仏を申せと先人達に教えられたのでお念仏を忘れた頃にしているだけです。
生きている事実は、私が自覚しようが自覚しまいが、そのままあらゆる生命の犠牲のうえに立っています。それゆえの業は仏教の教えでは自分がすべて受けていかなければなりません。しかし、その業なるものを私は本当に信じているのでしょうか。
仏様は、その業によって三悪道に落ちると言われています。
そして、何を思ったか自分が幸せになる方法としてお念仏を自分が選んで称えていると思っています。
また、本当に法を誹っていないでしょうか。仏教によって私が救われることを疑っていることが法を誹っていることになるのか、ならないのか、どうでしょう。
法を誹っていたら阿弥陀様のご本願では除かれた人になります。
さらに、私が救われている、いないの判断は私がしていますが、この視点を阿弥陀様に移したらどうでしょう。
阿弥陀様は必ず救うと私に呼びかけておられます。お念仏を称えよと言われています。
その私は、どういう判断をしているかはそれぞれですが、お念仏を称えています。
阿弥陀様は、よくぞお念仏を称えてくれたと喜んでおられるでしょう。
そして、必ず救うぞと叫んでおられるのです。
我にまかせよ、必ず救う。
このお言葉に頭が下がります。
しかし、考えれば考えるほど分からなく成ります。本当に正しいものは何なのか判断できる力が私にはありません。
そう思いながらもお念仏させていただいています。
自分の視点を阿弥陀様の視点に変えて自分を俯瞰してみてください。
最後は、よきひとの仰せに従い、阿弥陀さまにお任せするだけなのです。
有り難い事です。