お念仏を称えることは、大行と言われています。
法然上人は以下のお言葉によって救われました。
一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近
念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故
善導大師
親鸞聖人は以下のように言われています。
信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし
正像末和讃
定散自力の称名は
果遂のちかいに帰してこそ
おしえざれども自然に
真如の門に転入する
浄土和讃
称名念仏は正定業です。
お念仏が救いの主体です。お念仏によって救われるのです。
そして、お念仏自身には自力も他力もありません。
真実そのものです。またお念仏が阿弥陀様そのものです。
お念仏に自力他力の区別を付けるのは私の心です。
その心をいちいち相手にするのを止めて下さい。
そう言われても気にしてしまいますが、その心が出たら「又、出た」と思うくらいにして無視してください。
蓮如上人は自力の称名念仏を嫌われていますが、それは念仏称えれば救われるという考えが流布しており、信心決定がおろそかにされていたため、そのことを戒められたからで称名念仏を禁止されたわけではありません。
御一代記聞書には以下のようにあります。
勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏にまいらせ、このもうしたる功徳にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。-」
また、妙好人の松並松五郎さんは称名念仏により救われています。
いずれにしても、称名念仏は大行と言われ、もっとも功徳の高い行です。
自分の思いとはかけ離れたお言葉なのです。
その行を行うことは最高の善なのです。
だから称名をすべきなのです。
まあ、そう言われてもあまり価値があるとも思えないのが私の心ですが、しょうもない心をあいてにするより先哲のお言葉通りされてみたらどうでしょうか。
私もそうでしたが、親鸞会出身者は蓮如上人のお言葉にとらわれすぎますから。
わたしは疑い心一杯のまま一生懸命励んでいました。往生の足しになる訳はないのですが言われる通り称えてみるのも仏様になれ近づくことかもしれません。
こだわる心は仕方ないので放っておけば良いのですが・・・。
ところで「飛雲」さんのブログに会長がお念仏を勧めていると書かれていますが、えらいこを言い出したものです。いままでもそんなことはありましたが、今回はちょっと違うんじゃないかと思います。信前のお念仏は自力で間に合わないと言っていたはずです。
それを覆したのです。古い会員なら皆知っていますから、また「え~っ!!」という感じだと思います。
退会者が増えることを期待します。