とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

御念仏を称えること・・・十住毘婆沙論より

十住毘婆沙論

易行品 第5巻第9品 龍樹菩薩

 

これしか読んだことはありませんが何が書いてあるかというと仏様を念じなさいということ、これは易行道ですよ、海の上を行くがごとしです。聖道門である陸路は難行道で大変ですから、出来の悪いものはこちらの道がありますよと教えてくださいます。

特に阿弥陀様についてはすべてのものが念じなさいと書かれています。

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弥陀章

阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。

偈をもつて〔阿弥陀仏を〕称讃せん。

無量光明慧あり、身は真金山のごとし
われいま身口意をもつて、合掌し稽首し礼したてまつる。
金色の妙光明、あまねくもろもろの世界に流れて、
に随ひてその色を増す。このゆゑに稽首し礼したてまつる。
もし人命終の時に、かの国に生ずることを得れば、
すなはち無量の徳を具す。このゆゑにわれ帰命したてまつる。
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 この後、阿弥陀様の讃談が続きます。

龍樹菩薩様が阿弥陀仏を礼拝せよ、御名を称えよと言われているのです。

すごいことです。

他の仏様の名前も沢山出てきますが、阿弥陀様だけ弥陀章をもうけて讃談されておられるのです。このことだけでも南無阿弥陀仏のお徳がどれだけすごいことか分かります。

凡夫の浅知恵で計るものではないですね。

今回はこれだけです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

九品の人

観無量寿経の中に九品の往生が書かれています。

 

辞書によっていろいろ書かれていますが、以下の文章が短くて的確なので引用しました。

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極楽浄土に生まれるのに、この世で生活した仕方によって9種類の生まれ方があることをいう。

観無量寿経』に説かれ、非の打ちどころがない善人は臨終のとき、仏が迎えにきて即座に極楽に往生(おうじょう)できるのを上品上生(じょうぼんじょうしょう)という。

以下、上品中(ちゅう)生、上品下(げ)生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生と続き、最後の下品下生は、極悪非道の行為を繰り返した者が、臨終のとき、念仏を唱えたことによって往生できることをいう。この思想に従って、阿弥陀仏(あみだぶつ)にも九つの印相(いんぞう)(手に結ぶ印の形)があるという考えが一般化し、鎌倉中期以降、とくに九品の阿弥陀仏の造像が行われた。また、仏が迎えにくるとき、それに座る蓮台(れんだい)も違うと考え、九品の蓮台があるとさえいうようになった。

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この中で一番気になったのが、下品下生の説明です。

そもそも九品の往生は、臨終来迎を説かれたものですが、最後の下品下生の人でさえ往生できると説かれているわけです。

臨終に善など出来る術も無く、ただ、御念仏を称えることができれば大成功なのだと言われているのです。

ならば今から御念仏を称えればいいのではないでしょうか。自力であろうが何であろうが南無阿弥陀仏が私を救ってくださるのですから、疑い一杯でもいいじゃないですか。

臨終に善知識が現れなくたって、今、南無阿弥陀仏で救われるという教えを聞かせていただいているなら、既に善知識にお会いしていることと同じわけだし、臨終は今かもしれないのですから。

結局、往生できるかどうかは阿弥陀様にお任せするしか無く、自分は御念仏を称えよと阿弥陀様から言われているわけですので、そのまま称えたら良いだけなんだと思います。

それで行く先はどこかさっぱり分かりません。

それでも間違って往生浄土に行ったら、下品下生の人はそこで十二大劫の修行をしないと仏には成れないと言われています。

下品下生の人は以下のように書かれています。

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五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者。

臨終の時に善知識に遇い、仏の微妙なる法を聞いて、仏を念じようとしても、苦しみに喘ぎ念じることができない、ただただ十念を心から具足して阿弥陀の名号を唱える(称名念仏)と、念々に80億劫の生死の罪業を滅除し、金の蓮華を見て往生することができ、12大劫を経て蓮華が開敷し、観音や勢至の説法を聞いて、無上の菩提心を起すという。

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ちなみに上品上生の人は一日、又は七日で仏様になるそうです。

私は、どう考えても下品下生ですね。

お迎えは金の蓮の花だそうです。素晴らしいじゃないですか。

本当に来るのかな?死んでみないと分かりませんがね。

それと仏像の九つの印相はそういうことなんだなと始めて知りました。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

以下、参考 wikiより

上品上生

至誠心、深心、廻向発願心の3種の心を発して往生する者。

これには3種類の者がいるという。

  • 慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者
  • 大乗方等経典を読誦する者
  • 六念処を修行する者

上品中生

大乗方等経典を読誦せずとも、よく大乗第一義の義趣を理解し、心に畏怖驚動ことなく、因果律を深く信じ大乗を誹謗しない者。

上品下生

因果律を信じ大乗を誹謗せず、ただただ無上道心を起す者。

中品上生

五戒、八戒など諸々の戒律を具足し尽くして悪業を所作しない者。

中品中生

1日1夜に五戒・八戒を具足し、また沙弥戒(年少の僧侶が受ける戒律)や具足戒を持ち、威儀端正にして欠くことが無い者。

中品下生

父母両親に孝行し養い、世間に仁義して慈しみ行う者。

下品上生

大乗方等経典を誹謗せずとも、多くの悪事を行って恥じ入ることのない者。

下品中生

五戒・八戒・具足戒を犯し、僧祇物(そうぎぶつ)を偸盗し、不浄の説法をして恥じ入ることのない者。

下品下生

五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者。

 

無宿善の機

いろんな人とご縁があります。
ご存じの方もおられるでしょうが、最近創価学会の会員とおぼしき人からコメントで罵詈雑言を浴びせられました。
最初から話したくなかったのですが、ちょっとくらいご縁があるかもと思ったのが駄目だったと反省しています。
普通、話せば何とかなると思ってしまうのですが、考えてみれば話して分かる相手はすぐに分かります。
最初からこちらを説得ならまだしも、お前達は馬鹿だみたいな言い方で話をしてくる訳ですから、怒りよりも拒絶反応をしてしまいます。
まず、どれだけ話しても分からないと思った方がいいのかもしれません。こちらが下手に出ていると頭を踏みつけるようなことを言い続けます。
こういう方とはつきあわないのが一番で時間の無駄かもしれません。親鸞会の人もこういう人が多くいました。といいますか自分もそうだったのでちょっと恥ずかしいのですが。
お釈迦様が亡くなられたとき、お釈迦様のお葬式というかお別れの式に出なかった弟子もいるそうですので、まことにご縁とは言いながら残念なことと思わずにおれません。
やはり現在、たまたま浄土真宗に出会い、そこで南無阿弥陀仏を出会わせていただいたことをどれだけ喜んでも足らないと思います。今、南無阿弥陀仏とご縁のある人を宿善の人と言わずしてだれを宿善の人と言えるでしょうか。
また、蓮如上人は、「無宿善の機においては力及ばず」と言われていますが、無宿善かどうかは別として創価学会顕正会、オーム真理教、幸福の科学統一教会などなどこれらの方を退会させるために時間を使ったら自分の人生すぐに終わってしまうような気がします。これらの人を相手するより、有縁の人とご縁を結んだ方が賢いでしょう。
お釈迦様も話して分からない相手には、指摘したり叱るよりも相手しない、話さないことが一番と言われています。
いずれにしても考え方が違う人と話すときは注意しなければと反省しました。

ここで創価学会の教義の間違いを一応分かる範囲で書いておきます。

念仏無間:立正安国論日蓮が書かれたが、経典上の根拠は何処にもなく善導大師の浄土教を選んだことを法華経非難の原因とし、結果として承元の法難などが起こったことが証拠だと言い、法華経を非難するものは仏教の敵と見なしたことに始まる。
当然、法華経には念仏により地獄に行くなどと言うことは何処にも書かれていない。
日蓮は、浄土宗だけでなく他の宗派も同じような理由で非難している。

未顕真実:無量義経の中に「四十余年には未だ真実を顕わさず」と書かれているため、法華経釈尊の一番説かれたかった教えであると主張する。四十年間今までは方便の教えを説いてきたが、これから真実の経を説くと言われたと主張する。
しかし、無量義経の原典には 、「四十余年 未曾顕実」と書かれ「未顕真実」とは書かれていない。四十年間真実を説いてきたが、これからいままで説かなかった教えを説くと言われたもので、以前に教えたものが真実では無いとは言われていない。

当たり前のことを言ったまでです。
また、法華経の説法の途中に席を立たれて、観無量寿経を説かれたわけですからどちらが真実だとか嘘だとかいう問題ではないということです。何度も書いていますが、人を機に応じて九品に分けているわけです。
東大に入れる人用に説かれた教えもあり、小学生用に説いた教えもあるわけです。

五時の教判:教相判釈とも言われお釈迦様の経典の成立時期を時代別に区分けしたもの。法華経が最高真実の教えとするために天台宗の智顗が表したもので、それを日蓮が引用して他の経典を否定する根拠としたもの。
これにより他宗派はすべて間違いであると非難する根拠としているが、前述のとおり観無量寿経法華経の説法の途中で座を離れられて説かれている。その根拠は、観無量寿経に「耆闍崛山より没し、 王宮に出でたまふ」とある。

よって五時の教判が他の宗派を非難する根拠にはなりません。

そして一番大事なのが信心なのですが、日蓮宗の信心は、現生利益と言うか、信心することが大事と言われます。信心することによって極楽に往生すると言われます。
自力の信心です。
では、具体的にどうするかというと、折伏する、題目を称える、そのことによって奇跡が起きると教えられます。
今生が幸せに暮らせるという教えが創価学会というか日蓮宗の教えなのです。また、念仏者には特に厳しく折伏をしてきますが、日蓮さんがせよ言われているからです。ただし、どこにも根拠の無い日蓮さんの思い込みなんですけど。

ほかにもありますが興味のある方は探してみてください。


最後に信長の時代、浄土宗と法華宗が法論を行って法華宗が負けて処罰されています。
それを「安土宗論」(あづちしゅうろん)と言います。法華宗の僧侶が浄土宗の僧侶に法論をふっかけ、負けてこれ以降法論はしませんと約束をしました。
これ以後、法華宗は浄土宗に法論を挑むことは無かったのです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

苦を苦とみる。

四聖諦の最初に書かれているのが苦諦です。

お釈迦様は人生苦なりと四聖諦の最初に教えてくださいます。

この世は苦しみであると。

では、苦しみとは何か。

そもそも苦しみが何であるのか分からないから迷うのです。

皆さん良くご存じの四苦八苦をお釈迦様は教えてくださいます。

生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会(おんぞうえ)苦・求不得(ぐふとく)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦です。

このうち一つも味わったことの無い人はいないと思います。

皆さんは何が一番苦しいと思われるのでしょうか。

私は死苦が一番気にかかっていたのですが、本当の自分が欲していたものは求不得苦が一番ではないかと思います。死苦の解決を求めながらも結局は自分だけ幸せになりたいの思いが本心だったのではないかと。死の不安や恐怖はあまりにも漠然としてつかみ所が無く、それより今、幸福であるという実感が欲しいだけだったのではないかと。

また、自分の心はころころ動き詰めで本当の自分が何を思っているのかさっぱり分からないのです。

自分のことは自分が一番知っていると思っていたのですが、一番分からないのが自分であったと南無阿弥陀仏に教えられました。

いずれにしても苦しいということは自分の思いが通らないこと、思い通りにならないことが苦しい事なのですが、仏様から見ればそこに何も意味がないと言われるのです。

空という境地、煩悩を断絶した世界に出た仏様からすれば、起こっていることすべてが空であり、執着することがないと言われるのです。

何が起ころうが受け入れる。そのことに苦しみが無い。

仏様になる気が無い私にとっては、「ああ、そうですか。」位にしか思いませんし、そう成りたいとも思いませんし、全く無関心と言った方が良いのかもしれません。

ところが親鸞聖人は、信心頂いた人は正定聚不退の位と同じと言われます。

とんでもないことです。

仏様より一段下だけの悟りの位におられる方と同じだと言われるのです。

あり得ません。

本来、空の世界に出るには修行が必要となります。何もせずに空の世界に出ることは出来ません。どれだけの修行が必要か私には分かりませんが、仏様になるには三阿僧祇百大劫かかると言われます。

ですから、今生で煩悩を超越した仏様になるなど私には不可能です。では、私に何が出来るかと言えば苦しみを苦しみと教えて頂く法を聞かせていただくことだけなのです。

自分では知ることの出来ない世界を釈尊を始めとした高僧方に教えて頂くだけなのです。そこで始めて、「あ~、人生は苦しみなんだ。」と苦しみが何かも分かっていない自分に気づかせていただくことが出来ると思います。

いずれにしても仏教を求めると言うことは、この自分の姿に出会わせていただく事であり、お釈迦様のお言葉を我が身のことと聞かせていただくことなのだと思います。

私の場合、求めても得られない、執着の心、それは死ぬまで変わりません。

変わらない私は、苦しみが来ると大騒ぎです。自分の世界を邪魔されると全身で拒否しますが、自分の幸せと思うことならどんな努力もいといません。

結局いつも自分中心の世界に生きているだけで、その世界を崩されるのを拒否しています。しかし、必ず自分の思いとは関係なく苦しみは訪れます。

最後は死苦が訪れ、この世とおさらばしなければ成りません。

その覚悟を今に求める、それが仏教なのでしょうね。厳しい教えです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

異安心(二)

前回の続きです。

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地獄秘事

自己の内省において地獄一定と堕ち切ることを条件として、必堕無間の後に大悲が知れるのだとの主張は、これまた二種深信における信機自力・信機正因の轍を踏む路線が敷かれるのである。
 二種深信における信機正因説とは、わが機は地獄一定と堕ち切ることを絶対条件とするのであり、助くる法は弥陀の手元に成就されているから、これを眺める必要はない。もし法を眺めんとせば、そのことは法に手をかけることであって自力である。かえって眺めぬことこそが本願を深く信じていることであり、地獄一定と堕ち切ることが即信心であるとの論法である。即ち地獄一定と堕ち切ったのが機の深信、その時こそ、法の深信は求めずして来たるというのである。

現代における異義の研究(一)伝道院紀要14  特に「浄土真宗親鸞会」について 山田行雄

 

土蔵秘事(秘事法門)

質問攻めと議論で疲労困憊した信者を善知識が本尊のまえへ連れて行く。紹介した二人が信者の両手を取り身体を三回前後に揺らし、善知識が「これで三願転入した、間違いなく信心が頂けた」と宣言するなどである。

社会生活に適応できないほど信心というものがらに迷っている場合には、その状態から抜け出させる為にある意味で有用な手法ではあるがお節介である。

信因称報説のみを強調し、救いの法である名号を軽視する立場、悪しき一念義から派生する教義で土蔵秘事とも呼ばれる。

秘事とは秘められた儀式の行事の意味であり、浄土真宗の正当な行信の理解とは異質なものである事、そして参加者がその儀式を秘密にする為に言われる。

浄土真宗アーカイブより)

 

無帰命安心

「無帰命安心」というのは、阿弥陀仏は私どもを救わねば仏にならぬとお誓いくだされ、すでに十劫のむかし仏となられたのだから、私どもはすでに救われているのである。だが、それを知らなかったために今まで迷うていたので、そのことを知りさえすればそれでよい。いまさら阿弥陀仏に帰命するなどということは無用である、という説である。これは阿弥陀仏のお救いを観念的にとらえ、いま法を聞いて信心決定させていただくということを無視した誤った主張であります。

「やさしい安心論題の話」灘本愛慈著より

 

本願ぼこり

歎異抄十三条は、「本願ぼこり」の人びとを批判している。「本願ぼこり」とは、悪事を犯したものをたすける本願があるのだから、意図的に悪事を犯そうとする人びとのことである。
 ところが、『歎異抄』著者の批判の焦点はそこにない。むしろ、「本願ぼこり」を批判している人びとにこそ焦点を当てている。「本願ぼこり」を「悪人」とし、「本願ぼこりを批判するひと」を「善人」と考えれば、「悪人」ではなく「善人」に批判の力点がある。これは私たちを戸惑わせる。なぜなら、私たちの発想が「善人」と同化していたことが炙あぶり出されたからである。「善人の毒」のほうが「悪人の毒」以上に深刻だ、と『歎異抄』の著者は見ている。悪人の毒は目立つが、善人の毒は目立たない。毒は常に「善」を装って浸食するからである。

親鸞仏教センター[真宗大谷派](武田定光)より

 

善知識だのみ

初期真宗教団において、親鸞の信心は必ずしも門弟たちに正確に伝わっていたわけではない。親鸞の「御消息」に一念多念の諍論や、いわゆる造悪無碍などを止めるものが見られる通りである。
親鸞の信心を忠実に継承していない教えの一つに、知識帰命と呼ばれるものがある。これは「特定の人物を善知識と仰ぎ、善知識が現実に現れた如来であり、如来は具体的に善知識に代表されるとして、善知識をたのみ、善知識から信心が与えられるとする主張」(真宗新辞典)であり、善知識帰命、善知識だのみなどとも呼ばれる。親鸞においては言うまでもなく、帰依の対象は善知識ではなく阿弥陀如来である。親鸞法然に深く帰依し、決して善知識を軽んじているわけではないが、善知識に帰依して阿弥陀如来を忘却しているのではない。信心は阿弥陀如来「からその名号のはたらきによって与えられるのであって親鸞の教えは善知識帰命とは異なる。

黒田義道師京都女子大学准教授)

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今回はどうしても一言付け加えたいところがあります。「地獄秘事」や「本願ぼこり」も大事なところですが、やはり「善知識だのみ」です。

この「善知識だのみ」は本当に根が深いと思います。なぜなら「善知識」と言われるだけで説く人はのぼせ上がってしまいます。また、法を求める人がこの人に付いていけば何とかなると思い込んだら最後、なかなかその思いを捨てることが出来なくなります。

さらに、その状況を悪用できると「えせ善知識」に悪意が目覚めることもあるのでしょう。そうすると法を求めている人はいわゆるマインドコントロール状態にされてしまいます。

善知識が善知識であるためには、法を良く聞かなければならないのです。法を良く説く人ほど法を良く聞く人と言われます。人のご法話を聞くだけでなくお聖教を読むことも大事なことなのです。

また、善知識は一人しかいないと思うのも大きな間違いです。

正しく法を伝えて下さる方は基本的に皆善知識です。間違いない法を伝えると言うことは七高僧と同じと言えます。

歎異抄十三条に宿業の事が書かれているとおり悪知識とのご縁は宿業としか言いようがないのですが、悪知識に出会ってしまうとお浄土ではなく三悪道に落ちていく事になります。

しかし、一度悪知識に出会ったとしても、今正しい教えを聞かせていただいているなら必ずはっきりさせて頂けます。何故なら阿弥陀さまは必ず救うと誓われているからです。恐れることなく法を求めて下さい。

 

阿弥陀様は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を呼んで呼んで喚び詰めです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

異安心

異安心とは浄土真宗で言われる信心と異なる信心のことを言うのですが、では真宗で言われる信心とはいかなるものかが最初に説かれねば成りません。

ところが、真宗で言われる信心とは言葉にすれば「南無阿弥陀仏一つで何も必要無し」なのですが、それを受け取る私たちにはいろいろな受け止め方があり言い尽くせないところがあります。当たり前ですが阿弥陀様が本当で私の方は虚仮不実ですので、どれだけ私の機を説いたところで何が本当かよく分かりません。

また、阿弥陀様が真実でありそのお徳をそのまま受け取っておられても、阿弥陀様のお徳はあまりに深くそれを凡夫に説きつくすことは出来ません。

そうなると最初の入り口でつまづいてしまい、後は勝手な解釈がばっこすることになります。

ですので、一応昔から「安心論題」と言われる真宗の信心の姿が示されているのです。

その数は現在25題ですが、大正時代は30題ありさらにその昔は130題あったと言われています。

本来は、じっくり一つ一つ我が身を法に照らし合わせて確認作業をするべき事なのですが、それもせずにこれが本当だと勝手に思い込み人の安心を批判するのは問題があります。

また、私自身の考えを言えば教行信証親鸞聖人のお言葉をそのまま、私がうなずけるかどうかが問題だと思います。なにせ浄土真宗の御開山のお言葉を無視した信心は始めから嘘ですので、そこは一番大事だと思います。

とは言えここで教行信証のすべてなど説けるわけも無くそんな力もありません。また、安心論題25題を一つ一つ確認するのも難しく、私もそこまで分かっているかというと正直よく分からないことがあります。

それで逆に異安心とは何なのかというところから本当の安心のアウトラインでも見ることが出来たら良いなと思い今回は異安心を私の知る範囲で確認していきたいと思います。

今、本願寺派では正しく法を説かれる方が沢山おられますが、一方で無帰命安心、本願ぼこりおよび十劫安心的な僧侶がいるのは事実でしょう。

門主大谷光真師はそのことを嘆いておられるのでしょう、いろいろな本を書かれています。

また、一方で親鸞会のように信心獲得にはハッキリした大自覚がなければならないと大声で叫んでいるのは全く異安心であると実は歴史が証明しているのです。三業惑乱がそのことです。

さらに体験主義、神秘主義などは人を引きつける麻薬のようなもので、実際の信仰には邪魔になります。

とは言えでは、何も気づきや慶びが無いとなるとこれは信仰にはなりません。

異安心を知ることにより本当の安心がどういうものなのか皆さんにも考えてもらいたいと思います。(追加:本当は自分が一番考えなければと思いますが・・・・よろしくお願いします。)

 

まず浄土真宗の救いを確認します。 

法然上人はご修行の末、選択本願念仏集を著して下さいました。

その冒頭には以下の文章が最初に書かれています。

 

法然真筆の冒頭文「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為先」

(往生の業には念仏を先となす。) 

 法然上人は凡夫の救いのために御念仏を選び取って下さいました。

他のどの教えより御念仏による救いが一番であると。御念仏によって救われるのです。

 

そして親鸞聖人も大変なご修行のすえ法然上人にお会いになり、「念仏成仏是真宗」と教えてくださいます。

 私の後生をまかせるのはこれしか無いのです。

私たちが御念仏を選ぶのか、ほかのものを選ぶのかは私自身が決めなければなりません。そしてその安心についても私が確認作業を行っていくことが必要だと思います。

これで大丈夫と自分で判断を付けるのでなく、いつも教えに聞いていく、阿弥陀様に聞いていくことが大事だと思います。

このことをどういただいているのが正しいのか、そして、逆にどういただいているのが間違いなのか、今回は後者を考えていきます。

 

 では、異安心と呼ばれる代表的な二つについて書きます。とにかく議論になりやすい信心です。

 

「十劫安心」

「『十劫正覚の初より、我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬが、すなわち信心のすがたなり』といえり。これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし」(2帖目11通)

「十劫安心」というのは、十劫の昔に「衆生往生せずばわれ正覚とらじ」という誓願を成就して阿弥陀仏となられたのであるから、その時すでに私どもの往生は決定している。それを今まで知らなかっただけであるから、これを知って忘れないのが信心である、というように、信心を観念的に理解するものであります。

これに対して、蓮師はそのような理解では他力の信心を得たとはいえないと誠め、阿弥陀仏の救いの法は十劫正覚の始めにすでに成就されているけれども、私どもがその法をよくお聞かせいただいて、信心獲得しなけれぱ往生できない旨を述べられていまず。

つまり十劫安心は、五重の義として示されているような、獲信にいたるまでの過程(プロセス)や、信後のあり方などを全く無視して、理屈だけの空虚なとらえ方をしているものであります。

これは蓮如上人当時にあった誤った見解である、といって済ますことはできないと思われます。私は何もしなくても如来さまの力で、死んだら極楽浄土、こんな気楽で結構な宗旨はないと決めこんで、法座が勤まっていても知らん顔、聞法とか信心安心とかいうことは自分には関係ないとばかり、平気で過ごしている人が現にたくさんいるのではないか。思いここに到れば、蓮師のお言葉は今の私どもに、痛いほどひびいてまいります。(浄土真宗アーカイブより)

 

「一念覚知」

・・・高森氏の主張するところは、信一念の自覚は必ずあるのであり、獲信した時がいつであるかが分らないようなものは信ではないとするのであるから、信一念の実時に用事がないといいながらそれにこだわり、一念の覚に執ずるものである。従って、三業惑乱時に一念覚知の異義と裁断されたものと同類の異義として退けられるべきものである。

だが気をつけねばならないことは、大原性実氏も「覚知説の取り扱いに際して特に注意を喚起したい点を記しておきたい。それは信の覚知を否定することと、信一念の事実を否定することとは同じではないということである。信一念の事実たる心相は、信文類に示すか如く、無疑無慮ということである。この一念の心相の事実を否定すれば、恐らくは信前と信後の区別は弁明せられないあでろうと指摘しているように、信一念の覚えがなくてはならないという一念の覚知と、本願にうたがいはれた無疑無慮の心相とは全く別であり、覚知を否定することは決して本願にうたがいはれた信心決定・往生一定の確信やよろこびをも否定するものではないことは十分わきまえ、且、注意しなければならないことであろう。

一念覚知説の研究 紅楳英顕 伝道院紀要19号

 

以上の文章を読めば本当によく分かるのですがとりあえず一言。

十劫安心は、本願ぼこりとよく似ています。どちらも阿弥陀様の本願があるのだからこちらは何もしなくても良いというところです。

こちらの思いに関係なく、そのままの私を救うのだから、これで良し。帰命の一念など分かるはずが無いのだから問題ないなどど言うのです。

確かに本願は無条件ですが、大事なことが一つ抜けています。それは信心です。親鸞聖人は信心正因を称えておられます。

実際には覚如上人により体系づけられたのですが、それにしても信心と念仏はいつも一緒です。「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。」と親鸞聖人はおっしゃっておられます。また、信心に二種深信が備わっているのかどうかが判断材料の一つになります。

 

一念覚知については、機決定(追加:機の決定が必要という意味で無く、自らこれで良しと決めた信心という意味の場合は一念覚知とは異なります)と同じで体験主義的な意味が大きいと思います。あの時、あの体験をした、雷に打たれたようにハッキリした、阿弥陀様に会ったなどは、典型的だと思いますが、これはこれでその人が御念仏を喜んでいるならそれで良いのですが、そうでなければ信心を得たと言わないと断定することが間違いだと言われていると思います。

信心には人それぞれ、十人十色の現れ方があります。蓮如上人の御文章にもあるように花の開き方にもいろいろあるということです。繰り返しになりますが、それをこのハッキリした体験の無いのは駄目だと断定することが間違いだと言うことです。

阿頼耶識が分かっただとか、地獄に落ちただとか、阿弥陀様にお会いしたなど、とにかくハッキリ火を触るよりも明らかな体験がなければ信心決定ではない言うのは一念覚知の異安心の典型でしょう。

 

過去から沢山の人が信心を得ています。妙好人と呼ばれる人しか信心を得ていないと思うのが大きな間違いで、浄土真宗の信心を頂いている人は、本当に沢山おられるのです。そこに親鸞会の大きな間違いがあります。「国に一人、郡に一人」とほとんど何処を探してもいないと蓮如上人の御文章を引き合いに教えますが、全くの間違いであちこちの法話会に行けば必ず一人や二人の信心を頂かれた人にお会いすることが出来ます。

ただ、その事を知るにはちょっと時間がかかりますので、結果としてなかなか本当の信心を得た人を探すのは大変なのですが、親鸞会の会長しか安心を得た善知識がいないという考えは全く間違いです。今は全国の法話会の案内がネットでされていますので善知識も沢山おられることに気づきます。「浄土真宗法話案内」と検索を書ければホームページが見られます。

それらの方のご法話を聞かせていただけば、信心というものがある程度分かってくるのではないでしょうか。

 

その他、地獄秘事、土蔵秘事、無帰命安心、善知識だのみ、本願ぼこりなどについては次の機会にします。 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

仏様とは

本来、「仏」とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である仏陀如来)とする(狭義の仏)。しかし後に、仏陀に準ずる存在で悟りを開こうと修行している菩薩密教特有の尊である明王天部護法善神などを含めた、仏教の信仰、造像の対象となる尊格を、広義の解釈として「仏」と総称するようになった。(Wikiより)

 

仏様とは、WIKIに書かれた言葉では理解できません。釈尊は、この地球上に現れられた仏様でありますが、その理由は衆生を済度すること、つまり、輪廻転生の世界から救い出すことを目的とされてこの世界に現れられたと言われています。

また、釈尊はこの世界に数限りの無い仏様がたがおられるとも言われています。

では、その仏様達は何をされているのかというと、釈尊の目的と同じ目的を仏様ごとに活躍されているのです。これを色に例えて経典では、青色青光、黄色黄光などと言われています。

また、仏様は何にでも姿形を変えることが出来るそうです。そして衆生の為に命を投げ出してくださるのです。では、私が食べている魚もひょっとしたら仏様かもしれません。

では、阿弥陀様という仏様はどんな願いを立てられているのかと言えば、十方衆生を救うと願いを立てられています。では、救われた人は仏になってどうなるのかと言えば、釈尊と同じように衆生済度をするのですが、阿弥陀様に救われた人は阿弥陀様を讃えに来られるのです。

この世の中で、阿弥陀仏を讃えに来られている人、沢山いるじゃないですか、自分の周りは皆仏様かもしれません。

仏法を勧めてくれる人、お寺の住職、旦那さんや奥さん、子供や親戚家族など、皆私に仏法を勧めてくれる仏様かもしれません。

本人に全く自覚が無くてもそうなのか、いやいや、阿弥陀様の願いのかかっていない人など一人もいないじゃないですか、無宿善の人もいるかもしれませんが、そういうひともいつかは阿弥陀様とのご縁を結ばれることになるのです。

そこまで思えないにしても、少なくとも自分に阿弥陀様を薦めてくださる人は大事な仏様でしょう。

 

仏説阿弥陀経

「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」、お浄土に咲く蓮の花は、青色の花は青く光り、黄色の花は黄色に光り、赤色の花は赤く光り、白色の花は白く光り輝いている。

 

 それぞれの花がそれぞれの持ち味を充分に発揮して、しかもお互い決して他の花の邪魔をしないのです。青が好きな人は青へ、赤が好きな人は赤へ引かれるように人それぞれに応じて仏様の善巧方便が働かれているのではないでしょうか。

 

阿弥陀様に遇えないと嘆いておられる方、ちょっと視点を変えてみたらどうですか。

貴方の腹底から呼んでいる御念仏、私の口から出る御念仏が阿弥陀様なんですよ。

そして貴方の身近なところで仏様が働いておられるのです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏