とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

ようこそ、ようこそ

つぶやきです。

最近いろんな方の生き方について考えています。成功している人、底辺で働いている人、様々な職業、考え方、生き方、趣味・・・。

そして、外国で迫害を受けなければならない人生を強いられている人たち。

その中で何が正しくて何が間違いなのか分からなくなります。

芸術家は自分の中から出る衝動に突き動かされて生きています。犯罪者は迷いを深めてどんどん転げ落ちていきます。一般の人は我慢しながら生きるために働いています。

そこで何が分かるのか。

人生苦なりは当たり前ですが、そんな一言で片付けられない様々な思いが私の中で渦巻きます。まるで台風のようにあらゆる考えや妄想が渦巻いて私を悩ませます。

親鸞会で未だに頑張っている人はそのまま親鸞会会員で死んでいく人も多いかもしれません。今更他に行っても何も変わらないと思い込んでいるのかもしれません。

中にはこれが本当だと思い込んで生きている人もいるでしょう。

私は有り難い事にその世界から別の世界に出させていただきました。

 

そして、私は私の世界で限られた人たちとのご縁を結びながら、流れにまかせながら生きています。今更新しい世界で生きて行こうとも思いませんが、他の道もあるのかもしれません。

輪廻転生はたぶんするでしょうが過去のことは知りませんし、未来のことはなおさら何も分かりません。ただ、生まれてきて自分が幸せを感じられるものに引きつけられ、そうして生きてきただけです。

だから、これから先もどうなるのかさっぱりですが、間違いなく他の人がどう思おうと自分が幸せと感じられる生き方を選択するでしょう。

ところがその私に何故か仏教とのご縁があり、そこに引きつけられ離れられずにこだわりながら、これが本当だと本物を知る智慧もないくせに勝手に思い込んで(思いこまされているのかもしれません)、そこで説かれる幸せを目指して生きています。

それも南無阿弥陀仏というあり得ないような教えを本気で信じています。

本当にここに幸福があるのか、いや、今幸福なのか、ハッキリ言って南無阿弥陀仏で満足なのか、私の心を探してみたらさっぱり分かりません。

しかし、何とも言えない圧倒的な力に、南無阿弥陀仏を否定できない自分がいます。

 

では、もう少し突っ込んで、お前の後生は大丈夫か?

さっぱり分かりません。死にたくありません。

でも、死んでいくことは頭では理解しています。

そして、私の人生はそれしかないことも。

では、その先どうなるか分からないのだから、そんなことより、今、どうしたいのか。

 

ただ、南無阿弥陀仏の教えを深めていきたいだけと思う一方で自分の幸せ、世間的な幸福をたらふく欲しいと思っています。

それを、南無阿弥陀仏を利用して死ぬまで生きて行けたらそれで良い、そんな心しかありません。

御念仏は私に理解できるものではありませんが、圧倒的な力で私を突き動かします。私をとらえて離さない力があります。そして称える気のない私の口を押し開けて南無阿弥陀仏を称えさせられます。

 

仏教との出会い、これが無かったら私の人生は本当に満足したものになっただろうか。

釈尊がお出になられたこの世に生まれることがあって、釈尊のみ教え、そして親鸞聖人のみ教えに遇わせていただいて良かったです。

ようこそ、ようこそ

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

朝の連続ドラマ

朝の連続ドラマと言えば、全世界的に有名になったNHKの「おしん」があります。

おしん」が流行っていたときは全く見ていません。
何度も再放送がされていたように記憶しています。
その後ようやく見るようになったドラマは本当に最近なのです。
一番感動してしまったのが「てっぱん」です。
広島のお好み焼き屋のお話です。
何に感動したかほとんど忘れてしまっていますが、とにかく出演者が皆菩薩様のように慈悲深いのです。
あり得ない設定が多かったのですがドラマとはそういうものなのでしょう。
今は「ひよっこ」が9月までやる予定です。
このドラマはちょうど団塊の世代のドラマです。戦後復興から高度成長期にかけて日本が飛躍していく時代は見ていて面白いです。視聴率も結構高いようです。


それにしても、なぜこんな朝ドラに自分の心が反応しているのか、「お前、暇だろ。」と内なる声が聞こえますがやはり見てしまいます。
実話であれフィクションであれ、しばらくの間別の世界に浸ることが出来る点に於いては映画と同じかもしれません。
それでも「ひよっこ」は見ていて楽しいので許します。


しかし個人的感想で「しょうもない」テレビ番組は沢山あります。
最近は見ていませんが「サンデーモーニング」という番組もそう思います。
あの番組を見ているとせっかくの日曜日が朝から気分悪くなってしまいます。
いろいろ問題があるのでこれ以上書きませんが、テレビを見ているときの人間の脳はほとんど停止しているそうです。クイズ番組でも同じだそうです。
テレビを見て喜んでいても怒っていても同じとはちょっと不思議です。
北品川病院院長 築山節医師は、テレビをだらだら見るのとネットサーフィンは同じように「脳が働いていない」と言います。
これは昔流行った「一億総白痴化」(社会評論家の故・大宅壮一さんの言葉)を証明していると思います。「テレビばかり見ていると、人間の想像力や思想力が低下してしまう」という意味ですがその通りです。
ラジオは良いそうです。特に落語などは想像力を働かせるのでラジオを聞きながら仕事をするのは良さそうです。
まあ、それでも本当に大事なことを考えるときは雑音となるかもしれませんね。


それではご法話はどうでしょうか。
聞いていると嫌になってきて止めてしまうことがありませんか。
もういいやと思ってしまったり、だいたい分かったと思っていませんか。
自分がそうだから人も同じと思っているのではないかと思われるかもしれませんが、他の人と話をしていても内心はそう思ってしまう自分があることに気がつかせられます。
嫌いなんですね。
仏教の話は。
自分と向き合いたくないのが本音かもしれません。どこどこまでも自分勝手な聞き方しか出来ないのかもしれません。


「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」と云々


現代語訳「わずか一句の御教化、一言の御言葉を聴聞するにも、とかく人はただ自分に都合のよいように聞くものである。それゆえ、いちずによく聞き、聞いて心に受け取ったままを申し述べて、仲間と互いに話し合うべきである」(蓮如上人御一代記聞書)

この条と同じ内容のことが119条にあります。

 

「前々住上人、御法談已後、仰せられ候う。四五人のご兄弟へ仰せられ候う。「四五人の衆、寄り合い談合せよ、必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く談合すべき」の由、仰せられ候。」

 

こういうことです。自分勝手に聞いてしまうのでお同行とお話しすることが大事ですよと言われています。
テレビの朝ドラは喜んでみるのに、仏法は本当に聞くのが大変ですね。
良い意味での談合をお同行とするべきでしょう。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

社会学者

nornsaffectioさんからコメントを頂き不適切な表現が多々あると思いましたので修正します。おかげで社会学をもう一度調べ直す機会を頂きました。

それでもやはり宮台真司氏は好きになれませんね。

簡単に言えば言葉にリアリティーが感じられないのです。

本当にカルトや性やサブカル以外の世界で働く人たちを観察したのか疑ってしまう。

宿業の一言で片付けたくは無いのですが、残念です。

nornsaffectioさん、ありがとう。

追加 調べたサイト

二村ヒトシ氏との対談 宮ボット あさくらさんのサイト(note) voboさんのサイト

bookメーター 僕はいかにして宮台真司に感染したか yamatake'S psychology site

福音の村(対談) などなど

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社会学(しゃかいがく、英: sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を解明するための学問である。その研究対象は、行為、行動、相互作用といったミクロレベルのものから、家族、コミュニティなどの集団、組織、さらには、社会構造やその変動(社会変動)などマクロレベルに及ぶものまでさまざまである。思想史的に言えば、「同時代(史)を把握する認識・概念(コンセプト)」を作り出そうとする学問である。

 

分かりにくいかもしれませんが個人的に興味のある社会学者と呼ばれる人が二人います。一人は宮台真司氏でもう一人は鈴木涼美氏です。

 

宮台真司氏は1990年代、オーム真理教やブルセラなどの社会現象についていろいろテレビでコメントしていたことを何となく覚えています。

また、彼に影響されて自殺する若者がいました当時多発しました。

簡単に言えば生きる目的など無いと言い、まったりと生きれば良いと言っていたように記憶しています。

 

鈴木涼美氏は中学生時代に宮台真司氏の影響を受け、ブルセラ女子高生からAV女優になり、その後東大大学院を卒業し新聞社に勤めますがAV女優だったことがバレ会社を辞めます。

本人はバレたから会社を辞めたのでは無いと言っていますが・・・・。

 

社会学者は倫理や規範、あるいは常識などについて頭から否定する傾向がありますしてかかります。

宗教に関しても簡単な言葉でカテゴライズしようとします。

 

個人的な感想ですが、自分が宗教に関わることによって失われるであろう地位や財産を怖れているのが何となく分かります。

それでいて出歯亀根性丸出しのことを書き連ねています

 

鈴木涼美氏の母親は娘の行為を死ぬまで許さなかったそうです。

父親は有名な哲学者であり母親は翻訳者でした。

不出来な娘を悲しんだことが想像出来ます。

 

だからといって二人の社会学者の生き方が間違いとか言うつもりはありません。あくまで個人的な感想ですが、ただ、あまりにも宗教や道徳というのに対して無価値とまでは言わないにしても社会を破壊したい思いを感じられるから個人的にこの人達は社会にとって悪影響な人だと思っています。

本人達にその自覚は全く無いと思いますが、社会のモラルを破っていく行為は今までの歴史を見ればいろんな問題を複雑化する材料でしかないと思います。

純化された価値基準の上に生きているときは表に出なかった問題があらわになることにより人々の生活に不安材料が増えていくのではないかと思っています。

 

 

しかし彼らからすれば宗教などは非常識の塊であり、信じるに足るものでは無いのでしょう。また、そこまで宗教を知ろうとも思っていないでしょう。

また、彼らからすれば宗教はあくまで学問の対象であり、信仰の対象とはしないのでしょう。

まして釈尊の説かれた八正道の世界や十善戒の世界など知識としては入っていても、その本当の所を知ろうとして修行をされることはまずありません。知るよしも無いと思います。

これも個人的な感想ですが彼らのような人間が出てくることが煩悩穢の世界に突入したのかとも思います。

 

彼らの発言を読むに付けお釈迦様のお言葉に磨きがかかります。彼らは私の持っている闇をそのまま表に出しているのかもしれません。本人達は因果の道理や阿弥陀様の御本願とは本当に遠いところにいる人たちだなと思わずにおれません。

不幸な人たちと思うのは間違いでしょうか。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

勉強会のご案内

皆様へ、とくよしみねからのお知らせです。

今回は山も山さん(宮田さん)の勉強会を開催します。

演題は「正信偈」についてです。

 場所はいつもの愛知県です。
 日にちは 8月 20 日 ( 日 ) です。
 時間は 午前10時30分から午後5時までの予定です。
 ご縁があれば是非ご参加ください。

 詳細についてお知りになりたい方は、aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jpにメールしてください。
( アットマーク ) は” @ ”に変更してください。
 折り返しお知らせいたします。
 私にメールをくださる場合、少しプロフィールも書いていただけると有り難いです。
 個人情報を漏らすようなことはいたしません。

よろしくお願いします。

 

まかせるとは

阿弥陀様におまかせと言われてもどうしたらよいかさっぱり分かりません。

かといって自力かなわで流転せりとなるのも嫌です。

でも、やっぱり分からない、どうしたら・・・、このどうしたらが何ともなりません。

 

ひとつの譬えです。

あくまで譬えなので100%ではありませんが、譬えの奥を考えてもらいたいです。

まかせるとは、たとえば以下のようなものです。

 

船で航海中に海に投げ出されて始めて泳いだ人がどうしていいか分からずに海の中でもがき続けています。

時間が来れば間違いなくおぼれて死んでしまいます。

ところがどこからか「身体の力を抜け」と何度も声がかかります。

誰かは分かりませんが、何度も何度も声がかかります。

それでも「おぼれてしまう、沈んでしまう、嫌だ、嫌だ」ともがき、さらに苦しくなってきます。.

「死んじゃう、死んじゃう、嫌だ、嫌だ。」

それでもどこからか「力を抜け、海に身をまかせよ」と何度も何度も声がかかります。

「海に身をまかせたら沈んでしまう、嫌だ、嫌だ、嫌だ~!!」

それでもどこからか「まかせよ、まかせよ、間違いないからまかせよ」と声が届きます。

「もう、駄目だ、もう、駄目だ、もう、死んじゃう」

 

そして、なぜかしらふっと身をまかせたら、最初は沈んでいきますが、後でぽっかり浮かんで自分の目の前に青空が広がっています。

沈むそのままが、浮かぶのです。

沈むは自性、ところが沈ませてなるものかと海が貴方を支えているのです。

 

何を例えているのか分かると思います。

南無阿弥陀仏はそのまま来いなのです。落ちるそのまま来いなのです。

信心決定など出来る出来ないは問題ではない。

阿弥陀様の思いを、呼び声を聞くか聞かないかの方が問題です。

阿弥陀様の思いは、呼び声は、「お前は落ちる奴だぞ、だからまかせよ、心配するな」と南無阿弥陀仏になって叫び通しなのです。

南無阿弥陀仏が呼び声なのです。

それをそっくりそのまま聞くことが一番大事なのです。

 

まかせる、そのまま、落ちるそのままです。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

野際陽子さん

皆さんご存じの野際陽子さんが亡くなりました。

私は「キイハンター」というテレビドラマで最初に見たのですが、これを書くと歳が分かってしまいます。

とてもきれいで才色兼備の人でした。

当時人気の千葉真一さんと結婚され、頭脳と体力の結婚みたいに言われていました。

それも長く続かず離婚されています。

ちょっと前では、「ずっと貴方が好きだった」の冬彦さんのお母さん役をやっておられました。最近では「トリック」の仲間由紀恵さんのお母さん役ですね。

いずれにしても最後まで立派な女優さんでしたね。

有名人が亡くなるとその死を悼み、惜別の念を思い起こします。

そして追悼番組などがされ、故人を偲びますが暫くすると忘れて日々の生活に埋没していきます。

そういう一日を積み重ねていくことに本当の意味があるのかと考える暇もなく生活に追われる毎日です。

有名人の死は、その一瞬でも生老病死を思います。のんきにテレビを見ながらご飯をぱくぱく食べて、それらのニュースを見ています。

それがずうっと続くと思い込んでいます。

そんな生活をしている私にいつ悟りを開く修行が出来るのか。

出来るわけはないですね。

まして、南無阿弥陀仏のお心と言われても「あ~、そうですね」くらいにしか思っていません。

それよりも自分の煩悩を喜ばせることに一生懸命です。

だから私の回りに何度も何度も死の便りが届くのでしょう。そして南無阿弥陀仏が響き渡っているのでしょう。

お前の後生は大丈夫か?と問われ続けているのでしょう。

そして今、頭の中に響き渡っている御念仏を聞かずして一体何を聞くと言うのか。

 

・・・・訳が分かろうが分かるまいが、お前を必ず助ける証拠が南無阿弥陀仏だ、称えておくれ、そのまま、落ちるそのまま来い・・・・

 

阿弥陀様がおられなかったら大変な事です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 

阿難陀

阿難陀尊者は、お釈迦様のお父様、浄飯王の弟で甘露飯王の子供だそうです。

お釈迦様にとっては従兄弟に当たるわけですが、歳はかなり離れていました。

お釈迦様が出家されたあたりに生まれられたと言われていますので、35歳くらいの差になります。

また、55歳まで侍者であったと言われていますので、20歳代の時から25年間お釈迦様が亡くなるまで従われたことになります。

 

実はお釈迦様の侍者は阿難陀以外にもおられたのですが、どうもイマイチで何人か交代になられているようです。

その中の一人はお釈迦様の荷物を盗まれたり、盗賊に頭を張り倒されたりした者がいたようで、お弟子達がこれでは大変ということで阿難陀を説得したそうです。

 

しかし、阿難陀は何度も断って最後には、条件を付けて侍者になられたそうです。

その条件とは、

1 釈尊の新着の衣服または食べ物は頂かないこと。

2 釈尊が在家に請待されるときは必ずしも御随い申さないこと。

3 いつでも釈尊に見えてお給侍が出来ること。

だそうです。

 

よく理解できないことがあります。

1番と2番はなんとなく理解できるのですが、3番が私にはよく分かりません。

そこまで阿難陀はお釈迦様のおそばに本当はいたかったのか・・・?

もし分かる方がおられるなら教えていただきたいと思います。

また、この時27歳くらいと言う説もあります。

 

阿難陀の女難については、いろいろありますが個人的に一番印象に残っているのは比丘尼が阿難陀に恋をし、自分が病気であるから見舞いに来て欲しいと家に呼んで、阿難陀が来たときはあられもない姿で阿難陀を迎えたことです。

私なら・・・・してしまいますが、さすが阿難陀です。

また、阿難陀がどれだけの美男子だったかこれだけでも想像出来ます。

 

そして、阿難陀は比丘尼に言います。

「妹よ、穢れた食べ物で身を養ってはならない。

驕慢の心をもって心を養ってはならない。

淫欲をもって心を養ってはならない。

・・・・」

他にも沢山書かれていますが、自分ではとても想像出来ない差があります。

 

また、阿難陀の身体にできものが出来たとき、阿難陀が聞法中にできものを取り去ったということがありました。後で阿難陀はその事を言われても気がつかなかったそうです。聞法とはそういう気持ちで聞かせてもらうものだと書かれています。

 

その後、25年にわたってお釈迦様に随われますが、阿羅漢の悟りがどうしても開くことが出来ません。

お釈迦様が亡くなられる直前、暫くしたら悟りを開くであろうと予言されています。

しかし、お釈迦様が亡くなられても阿難陀は悟りが開かれません。そして、お釈迦様が亡くなられて悲嘆に暮れます。

 

しばらくして、安居の時期に金剛子と一緒に群衆に説法しているとき、金剛子は阿羅漢の悟りを開いていない阿難陀が説法しているのは問題だと思われそのことを阿難陀に伝えたのでした。

阿難は言葉を覚えていてもそのお心の深いところが分かっていないのではないかと金剛子は思われたのでしょう。

阿難陀はそれから悶々とします。

 

それから第一結集の時が来ますが、まだ阿羅漢の悟りが開けません。

そして、極めつけは迦葉尊者から結集には阿難陀は出席できないと告げられます。

迦葉尊者は、お釈迦様のお言葉を後世に伝えるこの大事な時に阿羅漢の悟りを開いていない者の意見を入れるわけにはいかなかったのです。

 

苦しむ阿難陀。

お釈迦様のご説法が頭を駆け巡ります。

 

この時、阿難陀は外に向いていた自分の目が、内側に向いたと書かれています。

そして夜を徹して我が心と対峙されます。

翌朝、阿難陀は晴れて阿羅漢の悟りをいただき、結集に間に合います。

その時の阿難陀は雲間から朝日が差すように晴れ晴れしていたと書かれています。

 

こののち20数年後、阿難陀は説法をし続け、最後は争う国に流れる河の真ん中で涅槃に入られます。

それぞれの国の王が阿難陀を尊敬していたのです。

どちらにつくこともなく釈尊と同じ中道を行かれたのかなと勝手に思っています。

 

知れば知るほど、すごい人だったんだと思います。

戒律も守りお釈迦様の侍者を25年にわたり仕えられ、超人的な神通力や記憶力によって多くの人々を導き、今なお阿難陀の存在を輝かせているこの事実は、間違いなく菩薩様であり、また、仏様の生まれ変わりでありましょう。

 

この話をどこまで信じられるかはその人その人のご縁です。

アホかと思われる方もおられるでしょう。

実際、お釈迦様の時代でもお釈迦様を慕った人が1/3、反発した人が1/3、全く縁の無かった人が1/3と言われています。

 

自惚れかもしれませんが、今、このブログを読まれている方達はお釈迦様の時代、直接ご説法を聞かれたご縁のあった方たちかもしれません。

 

有り難い事です。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

出典:仏弟子