とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

宝珠さんの退会の記録(2)

RCさんの反響もすごかったのですが、今回も負けず劣らず沢山の皆様からアクセスいただいています。

何度も読んでいただきたいと思います。

では、2部をご紹介いたします。

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宝珠

 

第2部

勉強会の直前に、嶋田さんへ求道に悩んで親鸞会を辞めたと手紙を出しました。

すぐに「阿弥陀仏の六字の心」を伝えますとの励ましの返信を頂きました。

大変嬉しく勇気付けられたのですが、一番恐れていたのは自分自身の心でした。

後生分からずに苦しいので、仏教を聞くことすべてを止めたいと思う気持ちが出て来たのです。

 

勉強会は、皆さんと一緒にお念仏を称えることから始まりました。

内容をまとめたレジメが配られます。

嶋田さんが説法されました。

「仏教は仏の説かれた教えです。仏になる教えです。

18願は、本願を信じ念仏申せば必ず仏になるべしということです。

仏願の生起本末を聞きて疑心ある事なし、と聞くことです。

今ここで、あなたを喚んでおられます。

十劫の昔から喚び詰め、立ち詰め、招き詰めです。」

阿弥陀仏南無阿弥陀仏のこれ以上は無い、はっきりした話でした。

それまで、念仏は信の一念の瞬間か前後で称えるものだと思っていました。

歎異抄第一章の

『弥陀の誓願不思議に助けまいらせて、

 往生をばとぐるなりと信じて

 念仏申さんとおもいたつ心のおこるとき

 すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり』

この文章は、求道が進んで進退窮まって、念仏称えようと思った瞬間に救われる意味だと理解していました。

自分から称えるのでなく、遍照の光明に照らされていつか称えさせられるときが来ると思っていました。

お念仏は、弥陀の喚び声だから称えなさいと言われます。

説法の最中、会場に何度もお念仏の声が上がります。

親鸞会にはないことで大変驚きました。

けれど、これらが本当ならば毎日の勤行で念仏称えることに納得がいきます。

親鸞会では、念仏は御恩報謝で助けられたら称えるものと教えられました。

ご法話の最初と終わり、勤行の時以外に称える人はいません。

仏法聞く全ての人が信後というわけないのにどうして勤行で念仏なのだろうと疑問だったのです。

説法は録音されて、データを配信して頂きました。

家で何度でも聞くことが出来ます。

「仏法を聞く先生は変えて良いですよ。」

とも言われます。

救われるには聞くしかありません。

説法はテープやサイトでいつでも聞けます。

批判ブログも自由に見れるし、好きな本が読めます。

これからの筋道がわかって嬉しかったのですが、心は暗く重く沈みます。

毎日サイトを見て、暇さえあればお念仏を称えていました。

 

阿弥陀様はすぐ傍におられます。

あなたが称える念仏は、阿弥陀様が称える念仏ですよ。

ただ今救う弥陀の本願です。

救われないのは本願を疑っているからです。

このように言われるのですが、さっぱりわかりません。

 

自力の念仏とは、称えた念仏を往生の足しにしようと計らうからです。

その言葉に涙が出ました。その通りでした。

なんとか救われたい、お念仏でなんとか救われようと思っていた自分に気づかされました。

阿弥陀様のそのまま救うの本願と真逆のことをしていました。

罪悪深重煩悩識盛の私に、後生助かる善など出来ません。

善も出来ない、聞くことも出来ない、信じまかせることも出来ないどうにもならない者でした。

そのままの私を救う弥陀の本願でした。

不思議不思議の南無阿弥陀仏です。

以前は、仏法は聞かなくてはならないもので、苦しみでした。

今は聴かせて頂きたいと楽しみに思うのです。

聖教が難しいことは変わらないのですが、読めると有難くてお念仏を称えられるのです。

 

一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫

広劫より巳来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す。

二には決定して「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、

疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と深信す。

 

こんな私がこの二種深信を本当だと知らされるとは、半年前には全く想像出来ませんでした。

どうか皆さん、平生業成のみ教え南無阿弥陀仏のみ心を聞いて下さい。

 

長文を読んで頂き有難うございました。

 

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏