お釈迦様が菩提樹の下で瞑想をされたとき、この十二因縁を行い悟りを開いたと言われます。まず、順観を行い次に逆観を行って仏の悟りを開かれたと阿含経にあるそうです。
また、十二因縁を物質面から見た外縁起と心の面から見た内縁起があります。
以下に簡単に意味を書いていきます。
無明:明かりが無い、真っ暗で無智な状態。
行:行為。業。
識:識別する。分別。
名色:物質世界や精神世界。心の働き。
六処:六覚(目、耳、鼻、舌、身、意識)
触:感覚器官に基づき認識すること。
受:感情。感受作用。六処、触による感受。
愛:渇愛。
取:執着。
有:存在、生存。
生:生きること。
老死:老いて死ぬこと。
これを人間に例えて簡単に言う場合には以下のような言い方があります。
無明の闇が何かと縁を結び結果を招き新たな世界に生まれる状態になる。
それがぼんやりとした形になり、胎児となって人間の形になる。
それから生まれて感覚器官が成長し、意識が芽生え、母親を欲しがり、心が成長し様々なものを吸収し、さらに成長し執着の心が強くなり、あらゆるものを取り込み、そこから苦しみを生み出し、老いて死んでいく。
簡単に言うとこんな感じです。参考に以下のサイトがありますので興味のある方は見てください。
http://jyoryuzi.aki.gs/jyoryuzi20/hodou/jyuniinnen.html
http://www.geocities.jp/kongou_koji/houwa/12engui.html
また、他にもいろいろなサイトでいろいろな言い方をされていますので自分に納得できる表現があると思います。
これを今、順観で言ってみたのですが、さて、逆観をやって果たして私は仏の悟りを得ることが出来るかといったら出来ません。
当たり前ですが言葉上の理解しかしていないのです。
ここが問題です。
言葉では理解できるが、仏の悟りは開けていない。
つまり、全く理解していないということです。
テストで丸はもらえても、その本質というか深い意味を全く分かっていない。
生きることと死ぬこと、この二つでさえ全く分かっていないのです。
簡単に言えば智慧が無い、無智だと言うことです。それは現在ただ今のことです。
なぜかと言えば、生きることと死ぬことは「空」の思想からすれば波のような変化でしか無いのに、そうは全く思えません。
おわかりでしょうか。
仏語を操るのは本当はとてつもないことなのにネットには私を含めさも分かったような解説が沢山あります。
きっとほとんど正しい解説なのでしょう。
でも、お釈迦様以外誰も仏の悟りを開いた人はいません。
南無阿弥陀仏のことば一つ、真に単純な言葉なのにこれを理解できると思いますか。
蓮如上人は、無上尽尽の功徳利益が広大だと言われています。
阿弥陀経には、仏の名を称えることは大功徳があると言われています。
本当にその功徳が分かっているのかと言えばさっぱりです。
分かるか、分からないか、そのことにこだわったら死ぬまで分かりません。
ここに仏語をそのまま受ける大きな問題があるかもしれません。
それは間違いなく私の問題なのです。