和顔愛語と触光柔軟 注1、2
まず断っておきますが、高森顕徹会でも都合よく使われていましたが、こういう言葉を悪用して暗に、「どんな嫌なことがあっても我慢して努力する」ことを強制する団体は多いので気を付ける必要はあります。
とにかく何でも我慢せよと言うのはおかしいと思うべきです。
特に「先生の深いみこころ」等と言うのが一番怪しいのです。
この一言で納得しているとしたらマインドコントロールされていると思った方がいいと思います。
しかし、和言愛語や触光柔軟のお言葉は当たり前のことを言われているだけなんですよね。
特に最近の自分には本当に大事な言葉だと思います。
ともすると信心を獲たと思う人は造悪無碍に走りやすい傾向があります。
なぜなら阿弥陀様はすべてお許しと思う心があるからです。
特に私が強く思うのかもしれませんが、他の人にも多かれ少なかれ有ると思うのです。
共に凡夫なのですから。
だからなおさら反省しなければならないと思います。
私を導いてくれた人たちは皆、魅力的な人たちばかりでした。
その中の一人の方は私に言いました。
「人に仏教を伝えたかったら魅力的な人になれ。」
あー、そうなんだと思わされた言葉でした。
当たり前と言えば当たり前なのです。
そこで思い出したのが「和言愛語と触光柔軟」のお言葉でした。
共に人に不快な思いをさせない、嫌な気持ちにさせないことです。
嫌なものは嫌、嫌いなものは嫌い、間違っているものは間違っている。
どうして人に気を遣わなければならないのか。
意味無いと思う。
本当のことは、ハッキリ言ってやった方が良い。
自分の心に正直になるのが一番だ。
などと内心思っていたのです。
色々な所で「自分に素直になれ」とか「正直になれ」という言葉を聞きますが、一方では正しいのですが一方では大変な誤解を生みやすい言葉です。
極端な言い方ですが、「社会は嘘でこりかたまっている」と言われることも有ります。
よくよく考えるとこれも自分勝手な言葉です。
確かに社会には矛盾が多くあります。
しかし、矛盾の無い世界などありません。
社会は色々な人が衝突することをなるべく少なく暮らすべき世界なのです。
ただでさえ好き勝手なことを言っていたら世の中衝突だらけです。
寛容の心も必要です。
だから、まず法律があるのです。
人権が全く無視された国でも法律が無い国はありません。
これは、根本的なところに自分がされて嫌なことは人にするなという根源的な思いがあるのです。
一方で統治するのに便利という支配者の論理もありますが、まず、自分が嫌がることを人からされたらどうでしょう。
正直、へこみっぱなしです。
それでも傷付かないなんてありえません。
どこどこまでも自分勝手な存在なのです。
それが私の姿です。
だからできる限り自分がされて嫌なことは、人にはしてはいけない。
それと自分が発した言葉は、全て自分に帰って来ると思うのです。
言葉は恐ろしいですね。
私達は仮にも仏教を信奉しているのです。
私が信じる、信じないにかかわらず、仏教を尊いと思う心がかけらほどでも不思議にもあるのです。
ならば、努力すべきなのです。
和言愛語と触光柔軟
私には無い心ですが、嘘でもまねすべきはお釈迦様の金言です。
努力することはなんら恥じることも無いのです。
しかし、誇ることでもありません。
お釈迦様のお言葉に無条件に従うことだけです。
出来ないことですが、少しでも見習うべきと思うのです。
(・・・思っているだけかもしれませんが)
今更ですが、仏語は心に響きますね。
注1:和顔愛語(和顔悦色施)
和やかな笑顔と優しい言葉は、周囲を和ませ、穏やかな空気を生み、失意の人を励ます力もある素晴しい行いですが、それだけではなく、笑顔で人に接しようと努めている自分自身が大きな幸せを手にできますよ、とお釈迦さまは説かれています。
無財の七施の一つ
布施行の一種で仏教徒が心がけねばならない態度。『雑宝蔵経』六の「七種施因縁」に「是れ七施と名づく。財物を損せずと雖も大果報を獲る」(正蔵四479中)と説かれており、財物がなくても他者に布施をなすことのできる七つの行い。
①眼施。相手を憎むことなく、好ましい眼差しで接すること。
②和顔悦色施。和やかな喜びの顔つきで接すること。
③言辞施。相手に柔らかい思いやりのある言葉をかけてやること。
④身施。相手を敬い、我が身を惜しむことなく、他に尽くしていくこと。
⑤心施。善い心で相手の立場にたち心をかけていくこと。
⑥床座施。相手に座席を設けたり、譲ったりすること。
⑦房舎施。自分の家を一夜の宿として提供すること。
注2:触光柔軟の願 大無量寿経
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは、正覚を取らじ。
『大無量寿経』三十三願「触光柔軟の願」には、このように本願が誓われている。
触光柔軟ということは、私たちが光明に触れるときに、柔軟な心をたまわるということである。
それは単に柔らかいということではなく、どこまでも頑固な自分の自身の姿が照らされるということであり、「我」を主体としていることに気付かされるということである。いつも自我を中心に生きてきた自らの実態と、そのような私であるからこそ、願いが差し向けられているという事実に頷かされることが、仏に出遇うことの具体的なありかたである。
そして仏に出遇うことができたときに初めて、仏を敬うのと同じく、仏の大悲を生きているすべての他者を敬う柔軟な心が、私に起こるのだと説かれているのであろう。
(東本願寺HPより引用)