我々人間には普通に好きと嫌いの感情が備わっています。
これについて能科学的には能の中心近くにある扁桃体というところで瞬間的に判断するそうです。
好き、嫌い以外にも普通とか何も感じないとかの感情もあります。
人を好きになるのも嫌いになるのもほぼ瞬間的でそこには理由は後付けになるそうです。
実際、好きになったり嫌いになったりするのに理由を説明せよと言われてもよく分かりません。
私は子供の頃からデメキンが好きなのですが、理由はゆったりしているところとか鈍くさそうな所とか黒いところとか言うことは出来ますが、本当にそれが理由なのかよく分かりません。
デメキンは初めて見たときから好きでした。
好きなものは好きなのです。そして、嫌いなものは嫌いなのです。
全く理不尽なものです。
ですから平気で人を好きになったり嫌いになるので、男女間や人間関係では問題になります。
これを宗教に置き換えてみるとどうでしょうか。
仏教は好きだがキリスト教は嫌いだ。
一方で、そもそも宗教なんて大嫌いな人も多いと思います。
なぜ、そう思うのか。
宗教は一般的に人を救う教えで救われることもあると思うのですが、如何でしょうか。
あまりにも胡散臭い宗教にも沢山の人が熱心に活動しています。
では、仏教の中ではどうでしょう。
禅宗は如何ですか。
浄土系でも浄土宗なら如何でしょうか。
いやいや、私は教えの内容に疑問があってキリスト教は好きでは無かった、と言われても、そもそもキリスト教を知るきっかけがあったと思うのです。
そのきっかけは、誰かの本であったり、話であったり、色々だと思うのですが、どうしても好きになれないと思う瞬間があるのではないでしょうか。
確かに理屈が会わないなどの理由はあると思いますが、浄土真宗もある意味非常に理論的ではあるものの一方で全く理屈を超えて南無阿弥陀仏と向き合う教えなのですから、私の感情で浄土真宗を選んでいるのではないかと思うのです。
浄土真宗にたまたまご縁があり、それにひっかかったから今、浄土真宗に傾倒していますが、そもそも浄土真宗に傾倒する理由があったでしょうか。
あるいは人を介して浄土真宗に入った人も多いと思います。
きれいな先輩やかっこいい先輩の自信満々の言葉に惹かれて浄土真宗に惹かれたのかもしれませんが、浄土真宗のお念仏に惹かれなければ拒絶して他の宗教に行っているでしょう。
また、子供の頃から慣れ親しんだ教えだからと言う人もいるかもしれませんが、子供でも南無阿弥陀仏に対して嫌いな人や無関心な人もいるはずです。
瞬間的に本能的に判断して今浄土真宗を信じているです。
理屈は後から付けているのです。
ですから嫌いになるというか、興味が無くなるのも瞬間的、本能的であり、ご法話から離れていく人の感情は計り知れないと思うのです。
どれだけ引き戻そうとしても不可能なことだと思います。
この、瞬間的、本能的という言葉に阿弥陀様の御念力と底知れない煩悩の両方を感じますね。
皆さんは如何でしょうか。