とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

原理主義

原理主義という言葉があります。

 

ファンダメンタリズム」と言い、もともとアメリカ合衆国の保守的プロテスタント派が1920年代に使用したキリスト教の神学用語です。

今日、「原理主義」という言葉はマスメディア等において広く流通しており、宗教学や社会科学の文脈においては、聖典を文字通りに受け取ろうとする態度や、世俗主義に反対する傾向などを特徴とする運動や思想を指す言葉として使われるようになっている。しかし厳密な定義があるわけではなく、学術的にも通俗的にも原理主義という語の適用範囲は定まっていない。原理主義という語は、「単一の価値観だけを信奉原理主義し、他者の価値観を排撃する」という意味で、嫌悪する意図で使用される例が多い。そのため、ごく一部の例外を除き当事者によって自称されることはない。(wikiより)

 

この言葉を聞くたびに浄土真宗はどうなのかと思うことがあります。

最近ではイスラム原理主義という使われ方が多いですが、オーム真理教や高森顕徹会はカルトと言われ少しニュアンスが異なります。

カルトは社会学者から出た言葉で異端という意味が強いようです。

個人的には原理主義もカルトも、他の価値観を一切排除し我々がすべて正しいと思っている点において共通するところがあると思います。

高森顕徹会においては、特に顕著だったのが「鳥居はくぐらない」というどうでも良いことを真剣に守っていたことです。

また、「神を拝まない」などイスラム原理主義に通ずるところがありました。

しかし、このこと自体はそんなに問題だとは思わないのですが、実際にやってみると非常に違和感があります。

社会一般通念上の作法などでこだわる必要が無いところを徹底的に排除する考え方はどうなのかと考えてしまいます。

もっとも問題なのは、破邪顕正の言葉の元、我々は選ばれた人たちであり、そうで無い人を教え導かなければならないと思い込んでいたことです。

某会の折伏も同じような意味です。

このことは、教義とずれるところがあり原理主義では無くカルト思想と言った方が良いのかもしれません。

 

かなり時代をさかのぼり安土桃山時代、信長により本願寺が攻撃され反旗を翻した顕如教如上人は徹底抗戦をします。

いわゆる石山戦争です。

顕如教如上人の徹底抗戦は正しかったのか間違いなのか判断は分かれます。

個人的には、徹底抗戦はいかがなものかと思います。

それによって多くの人の命を危険に曝すからです。

しかし、父顕如上人がそう判断されたのはどうしてなのか今となっては闇の中です。

当時の本願寺派は強大な権力を持っていました。

その力を盾に戦ったわけで、ある意味浄土真宗原理主義と言ってもいいのかもしれません。

その反動かどうか知りませんが太平洋戦争時には時の政府に荷担し戦争を鼓舞したため、戦後自己批判しています。

正義の名の元に沢山の方々が亡くなりました。

当時の人は、お釈迦様のみ教えをどう考えていたのか。

その時代、時代で異なる状況ですので一概にこうとは言えないとは思います。

生まれた時代が違ったら私はどうしているのか。

非難されたら江戸時代の薩摩藩の人たちのように隠れ念仏になったのか。

そんなことを考えると今は良い時代だなと思います。

親兄弟、親戚、友達に非難されようが私のお念仏を止める人はありません。

狂っているぐらいにしか思われていないのでしょう。

この世間をどう生きるかは本当は結構大事なことなのですが、原理主義に走ってしまうと本当に生きづらくなります。

社会的軋轢を生じさせてしまうからです。

それでも、「『正しいことは正しい』と思っている」のですから大変です。

本当に何が正しいのか判断は難しいと思うのですが。

 

最近の本願寺は、法をありがたがり、機の詮索はあまりしなくなりました。もともとそうだったのかもしれません。

本来、二種深信であり、自他力廃立ですので、我が身の機を説くことも大事だと思うのです。

原理主義とは違うでしょうが、「正しい法」を伝えていくのは大変なのかもしれません。

高森顕徹会は、体験至上主義でご信心は体験が必ず必要ということにこだわっていました。

そのせいでネットの中で体験が必要ではないかと言うと徹底的に叩かれます。

体験はある人も無い人もあります。

そこにこだわることの方が本当は問題なのです。

しかし、三業惑乱からでしょうか、本願寺では体験はあまり言いません。

そのせいで無帰命安心が増えたとも言えます。

 

法は変わりないのですが、私の生き方は社会に迎合するところと、譲れないところがあります。

時代の価値観に流されながら泳いで行くしかないのかなと思ってしまいますが、一方で拘りたい所はあります。

世渡りは上手な方が良いのか、どうなのか、今回のコロナ騒ぎも含めいろんなことが有るたびに考えてしまいます。

 

仏教が分かった、浄土真宗が分かった、阿弥陀様しかない、皆を教化するぞ、俺は善知識だ、菩薩だとなってしまうと本当の浄土真宗のご信心とどんどん遠くなっていくのだろうなと感じます。

また、偏った原理主義に走ると我がどんどん強くなり結局仏教からも、本当のご信心からも同じように遠くなってしまうと思います。

そういう観点からもやはり、極難信※の法と思わざるを得ません。

いずれにしても、南無阿弥陀仏一つを守っていくのは大変なことだと思います。

 

南無阿弥陀仏は、現在、ただ今、落ちるそのままの私を救うと響き渡っています。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

※参考・・・・ 

浄土文類聚鈔
 ここをもつて「経」(大経・下)にのたまはく、「もしこの経を聞きて、信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎたる難なし」と。

また「一切世間極難信法」と説きたまへり。

 

称讃浄土仏摂受経(阿弥陀経の異訳)
又舎利子、此の雑染堪忍世界の五濁悪時に於て、若し浄信有る諸の善男子或は善女人、是の如きの一切世間極難信の法を説きたまふを聞きて、能く信解を生じ、受持し演説して、教の如く修行せば、当に知るべし、是の人は甚だ希有なりと為す。