とくよしみねの「なぜ生きる」

「私はなぜ生きるのか、何のために生まれてきたのか、どこに向かっているのか、そして、どう生きるべきなのか」これらの問題について仏教および浄土真宗を基に気ままに思いつくまま書きます。  mail:aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jp

令和の三業惑乱?

浄土真宗 本願寺派 勧学・司教有志の会

https://www.facebook.com/profile.php?id=100091286410899

Facebook に上記のサイトがあります。

そのなかで「新しい領解文」について問題提議されています。

さすが本願寺です。

良識ある人が多くいます。

そこで無帰命安心について間接的に言われていると私は受け取りました。

これは私の強い思いですが、「新しい領解文」は無帰命安心の者が書いた文章と言わざるをえません。

阿弥陀様のお慈悲に遇わせて頂いていたならあんな文章は書けません。

我が機(身)を横に置いておくのは大事ですが、何もしない「そのまま」とはある意味「すべての人が既に救われている」と言っているのと同じと思うのです。

今回の「新しい領解文」はそういう誤解を受ける可能性がある文章です。

前回の記事でも書きましたが「すべての人が既に救われている」となったら法を求める必要がありません。

浄土真宗も当然仏教ですので目指すは仏の悟りです。

その仏になるための御信心を求める必要が無い、後生の一大事を解決する必要が無いことになってしまいます。

令和の三業惑乱と言っても良いと思います。※1

これでは、仏教ではありません。

それと最後数行に生き方まで強制していますが、これも問題だと思います。

今回の「新しい領解文」は積極的に廃止すべきと思います。

 

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

※1三業惑乱

本願寺派において学林(新義派)と在野の学匠(古義派)との間で三業安心をめぐって生じた教学論争。
功存(こうぞん)が無帰命安心の異義を破すために願生帰命と三業安心を主張し、宝暦12年(1762)に『願生帰命弁』を著し、宝暦14年(1764)に同書が刊行されたことを端緒とする。その後、功存は明和6年(1769)に学林の能化に就いたが、その学説に対する批判が次第に大きくなる。功存の没後、寛政9年(1797)に能化に就いた智洞(ちどう)もまた、願生帰命・三業安心を強調したため、同年、安芸国(現在の広島県西部)の大瀛(だいえい)が『横超直道金剛錍おうちょう-じきどう-こんごうへい』を著して新義派を詳細に批判するなど、新義派と古義派との間で議論の応酬が相次いで、事態は急速に深刻化していった。
そしてこの問題は『領解文』の「たのむ」の理解に関わるものであったため、学匠間の論争にとどまらず、地方の門徒をも巻き込む暴動にまで発展し、本願寺だけでは事態を収拾することができず、ついに幕府の介入を受けることとなる。享和3年(1803)に京都の二条奉行所より双方の関係者が取り調べを受け、翌文化元年(1804)年には新義派から智洞らが、古義派から大瀛や道隠らが幕府に招喚され、それぞれの意見が聴取された。文化2年(1805)、本願寺第19代本如は新義派が不正義であると裁定し、翌3年(1806)、幕府は新義派を中心に双方の関係者を処罰し、本願寺もまた100日間の閉門となった。同年11月、本如は『御裁断御書』『御裁断申明書』を示して前後10年に及ぶ騒動が教義的に決着した。この後、能化職が廃止され、複数の勧学職を置くようになり、また宗意安心について精密な研究が進んだ。(浄土真宗辞典より)