少年Aが本を出したそうです。
あの忌まわしい酒鬼薔薇聖斗が書いた「絶歌」という本です。
いろいろ物議を醸しているようですが、結局殺人事件を起こした理由を書いているようです。
私はあまり読む気は今はありません。煩悩むき出しの人の姿が書かれているのだろうと思っています。
動物に近い感情を持っているか、ジキルとハイドに近い人か、いずれにしても信じられない感情や性癖(性的サディズム)を持っている人なのだと思います。
本は読んでいませんが、読んだ方の感想を読みましたので、そう思いました。
また、お母さんが数年前に書いた「この子を生んで」という本の感想も読んでみましたが、最悪でした。
煩悩で濁れた時代、末法と言うことでしょうか。とにかくお金儲けが出来れば良いのだと本屋も必死かもしれませんが、ニューヨークで起きた「サムの息子」という事件をきっかけにアメリカでは犯罪者は出版等で得た利益を受け取ることが出来ない法律があるそうです。日本にもそういうことが必要なのかもしれません。
ただ、私の業を考えたとき同じような縁が無いだけで、さるべき業縁のもよおすことがあれば同じようなことをするのかと思うと背筋が凍り付きます。
では、何が問題なのか。
殺された人の家族と殺した人の思いの差。
とてつもない業を感じます。
ただ、感情として業のひとことで片付けるには問題が大きすぎると思うのです。
しかし、これは人間界の出来事であり、仏様の世界から見たらすべて必然かもしれません。どんなことでも起こりうる業を私たちは持っていると言うことでしょう。
では、少年Aはどうすれば良いのでしょうか。
反省が出来ているなら、まずは死ぬまで罪を償い人生を送るべきだと一般的には思われるでしょう。では、どうすれば罪を償うことが出来るのか。
被害者家族にお金を払うのか、それとも、その家族のために身を粉にして働くのか、何をすれば良いのか分かりません。
しかし、人間なんてそんなことが出来ないから人間なんであって、極端なことを言えば反省できない、反省しても長続きしないのが人間なのではないでしょうか。
だから、次から次へと罪を犯してしまう、一度犯したら二度目も三度目も同じ、だから「え~い、やっちゃえ」とやけくそになっていると思われます。
ところがそれが無知の最たるところと言えるでしょう。すべて私の業となって私に返ってくるのは間違いありません。帰ってくる形はそれこそ千差万別、億差兆別でしょうが、二倍三倍になって帰ってくるのは必定でしょう。
では、仏教を伝えるのが最高の布施だと言われても、周りの人も本人も仏教のことを知らなければ何とも成りません。被害者家族についても同じで、いつまで経っても恨みが消えることがありません。それこそ死ぬまで苦しみ続けることでしょう。
結局、少年Aに仏教を伝える、また、被害者家族にも仏教を伝えることが一番なのではないかと思います。
阿弥陀様のお慈悲のかかっていない人はいません。必ず、阿弥陀様の摂取不捨の真言によって救われます。ところが、やはり無宿善の機に於いては度し難しと蓮如上人も言われています。
さあ、どうしたものでしょうか。結局、念じ続けることしか出来ないのかもしれません。どうか仏様とのご縁を結ばれますように、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせてもらうことしか無いのかもしれません。
しかし、世の中には一方ですばらしい人が沢山見えます。
真宗の僧侶で孤児を受け入れて学校を作っておられる方がいます。
私の地方にそういう学校があります。
仏様のお慈悲そのものです。
私には出来ないことです。具体的行動として形になって現れているのはとんでもなくすばらしいことです。
仏様は常に分け隔てなく智慧と慈悲との光明を降り注いでいます。必ず救うぞと。
しかし、私には、すばらしい僧侶の姿を思いながら考えることしか出来ない自分がいます。
もし、我が身に同じような苦しみが降りかかってきたらどうしようか。
答えようがありません。
そんな私が今お念仏と出会わせていただいています。運が良いというかなんと申しましょうか、言いようがありません。
「世の中安穏なれ、仏法広まれ」